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ムッシュKの日々の便り

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ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅱ

SE(吹きつのる風の音。こちらに向かってくる足音)

歩哨 誰だ、外にいるのは?
 従軍牧師です。
歩哨 暗号は?
 ヴィニツァから、いま来たばかりなのです。わたしは福音派の従軍牧師だ。マッシャー特務軍曹にお目にかかりたいのだが。
歩哨 承知しました。

SE(二人が長い石の廊下を歩く音)

歩哨 従軍牧師殿をお連れしました。
 遅くにご迷惑でしょうが、お手数をかけなくてはなりません。ご存知でしょうが、明日の早朝、兵士パラノフスキーの処刑が行われます。わたしは彼に、死に対する心構えもたせるために、命令を受けて来たのです。
特務曹長 わかりました、従軍牧師殿。
 ところでわたしは今夜のうちに、パラノフスキーと会っておく必要があります。それもわたしがここへ来た理由を、彼に前もって知られたくはないのです。知らせるのは明朝、――明日の早朝がよいと思います。そこで、どうしたらいいか、相談に乗ってほしいのですが・・・
特務曹長 兵営の祈祷会を催してはどうでしょうか。以前も祈祷会を行ったことがありますから、気付くことはないと思います。囚人たちは少しでも寝る時間が短くなれば大喜びです。そのときどの男がパラノフスキーか分かりますよ。なかなか真面目な若者です。
 そうですね。そうしましょう。
特務曹長 囚人たちを一つの監房に集めましょう。
 結構です。
特務曹長 準備がととのうまで、ここでお待ち願えますか。
 いや、わたしは先にその部屋に入れていただきましょう。

音楽(時間の経過を示す)

(N) 看守たちがベンチを3つならべ、そのそばに机を置いてくれた。私はその上に十字架と、ポケットに入れておいた2本の蝋燭を立てた。

SE(大勢の囚人たちが部屋に入ってくる足音)

 プロテスタント派の従軍牧師です。どうか、一人ずつ名前と出身地を教えてください。
囚人一 兵士シュミット、バイエルン州出身。
囚人二 兵士バイヤー、ミュンヘン出身。無職。
囚人三(パラノフスキー) 兵士パラノフスキー、無職、キュストリン出身です。
 わたしの友人にキュストリン出身の人がいるのだが、東教会のリリエンタール牧師だ。
パラノフスキー 本当ですか? あの方がわたしに堅信礼をほどこしてくれたのです。
 そうでしたか! 彼はいま、わたしの勤務地の近くの大隊で上等兵になっていますよ。
パラノフスキー そうですか、リリエンタール牧師が・・・。あの人にはもう一度お会いしたかった。立派な方でした。
 君からよろしくと、彼に伝えましょうか、パラノフスキー?
パラノフスキー(間があって) いいえ結構です。もう7年も経っていますから、もう覚えておられないでしょう。あれから沢山の人たちが堅信礼を受けたでしょうし・・・
 いや、きっと覚えていますよ。彼は人の顔や名前、およそ人間のことなら何でも、大変な記憶の持ち主だから。
パラノフスキー いいえ、やはりお伝え下さらない方がよさそうです。

(N) わたしは他の囚人に移った。そして彼らに、ルカの使徒行伝の、「夜中に、パウロとシラスは祈り、神を讃美するのを囚人〔めしうど〕ら聞きたるに」の箇所について話をした。わたしはここへ来る途中、これを準備していた。
 大切なのは、囚人たちが今おかれている特別な時間と、特別な運命であって、生きることの意味を教え、真夜中に讃美歌を歌うことが、自分たち自身への贈り物であるのを示すことだった。

音楽(複数の人が歌う讃美歌)

(N、讃美歌にかぶって)彼らは故国ドイツの市民社会にいれば、決して刑務所に入れられる羽目に陥ることなどなかっただろう。
 戦争が悪いのだ。若者たちは林のなかで恋人たちに出会えたはずだし、みずみずしい果物にかじりつくような接吻を唇に感じられたはずなのだ。それが、いまはこの刑務所に収監されている。・・・

 マッシャー軍曹、わたしは明日の朝早く、4時ちょうどに来ます。パラノフスキーと話をするのに1時間は必要です。軍法会議判事は5時15分に来るといっていますから。
マッシャー軍曹 わかりました。従軍牧師殿。
 おやすみ。
マッシャー軍曹 おやすみなさい。
 今日の合言葉は何でしたか?
マッシャー軍曹 オデッサ、です。
 合言葉は・・・オデッサ・・・ね。

音楽(間奏風の)

SE(烈風の音)

(N) 刑務所の扉を押して外に出ると、そこで声をかけられた。わたしを待っている人がいた。

エルンスト中尉 牧師殿ですか?
 そうです。
エルンスト中尉 エルンスト中尉です。
 今晩は、エルンストさん。
エルンスト中尉 わたしはある建設大隊の中隊長です。わたしたちは明朝のために、銃殺分遺隊を組織せよとの命令を受けました。わたしが分遺隊の指揮官に任命されたのです。
 憂鬱な任務ですね。
エルンスト中尉 お察しするところ、わたしたちどちらも、お互い羨ましがるような任務ではなさそうですね。ご同役。
 すると、あなたは・・・
エルンスト大尉 ええ、わたしも牧師なのです。ゾーストの近くの村の。ご同役、こう呼ぶのをお許しください。・・わたしは・・・この命令は、わたしには堪えられません。

SE(激しい風音)

エルンスト中尉(疲れて重い口調で) わたしには、できない。・・・なにもかも嫌がらせなんです。カルトゥシュケ少佐の嫌がらせです。
 少佐は何か、あなたに含むところがあるのですか?
エルンスト中尉 わたしたちは、カルトゥシュケとわたしは知り合いなんです。それも浅いとは決して言えない間柄です。・・・22年前、1920年のことですが、カルトゥシュケは数カ月間、わたしの家の同居人で、わたしの代理牧師をしていたのです。
(思わず大声で) そうだったんですか! しかし、まさかカルトゥシュケが聖職者だなんて!
エルンスト中尉 そんな大声を立ててはいけません。風に耳ありです。カルトゥシュケは聖職者だったのです。ほんの短期間・・・1年か2年でしたけれど。彼が聖職者になったのは間違いでした。彼自身がしばらくしてから、それを悟りました。彼はすぐに方向転換しました。転々とさまざまな職業に就いたのだと思います。彼はわたしたちの前から姿を消しました。
 ところが1933年にヒトラーが現れると、カルトゥシュケもふたたび姿を現しました。教会の僕〔しもべ〕が去って、教会の密偵〔いぬ〕が現れたのです。悪い時代です。2年後に兵役義務が復活し、カルトゥシュケがやっと一廉〔ひとかど〕の者になる機会を見出したとき、わたしたちはほっとしたものです。その彼が今では少佐です。だがそれはわたしの知ったことじゃない。それにしても、こんな風に出会おうとは、人生が、彼にわたしを苦しめる機会を与えようなどと、思ってもみなかったことです。

SE(しばらく沈黙、風の音)

エルンスト中尉 わたしは今日の午後も、この任務をのがれようとしたのですが、カルトゥシュケはいませんでした。たぶん居留守をつかったのでしょう。おめおめと、彼の前にひざまずいたりはしません。ああ、こんな仕打ちをする機会を、彼はどんなに喜んでいることか。・・・何もおっしゃらないのですね?
 わたしには信じられません。カルトゥシュケがわたしたちと同じ聖職授与式の宣誓をしたとは・・・
エルンスト中尉 お言葉をさえぎって恐縮ですが、カルトゥシュケのことは、もうよしましょう。明日の朝、わたしは「撃て」と言わなくてはなりません。あなたがうまい具合に罪人をつくりあげる。そこで今度はわたしが完全にとどめをさす。ヒトラーのパンを食べて、ヒトラーの歌をうたうというわけです。
 あなたに課せられた邪悪な任務に対して、良心のやましさを取り除くようなものを、何か差しあげるべきなのでしょうが、あなたに何を言えばいいのでしょう? ・・・エルンストさん、あなたが命令しなくても、パラノフスキーには何の役にも立ちません。彼はやはり死ななければならないのです。そしてあなたは将校の階級を剥奪される、いや、それだけでは済まないかもしれません。そんなことをお望みですか?   結局、この陰惨な戦争で、人間的な将校の方が少なく、非人間的な将校の方が多くなるだけのことでしょう。なぜなら、補充はすぐつくからです。補充など、砂糖大根みたいに安いのですから。
エルンスト中尉 なるほど。もっと悪いことが起こるのを防ぐために悪事をなす、というわけですね。しかしわたしたちはこの戦争で、一体どんな秩序を維持しようというのでしょう? 墓場の秩序ですよ。そして最後の、それも最大の墓場を、わたしたちは自分たちのために予約しているんです。それに、よしんばわたしたちが将来生き残ったとしても、誰かが尋ねるでしょう。「お前たちは何をしてきたんだ?」と。そのときわたしたちは言うでしょう。「わたしたちは何の責任もありません。命令されたことをしただけです」と。わたしはあなたにお尋ねしたい。わたしたちはカルトゥシュケやその同類たちに比べて、どこが優れているのですか? わたしたちの方が彼らより、もっと堕落しているのではないのですか? なぜならわたしたちは自分の行為のなんたるかを知っているのですから。(沈黙)・・・   
 それでも結局わたしたちは、義務と責任をはたすというわけです。あなたが慰めにみちた言葉のビスケットを与える、そしてわたしはあまり砂糖気はないけれど、慰めにみちた銃弾を与えるわけです。
 エルンストさん、わたしは明朝4時に、パラノフスキーに会いに監房へ行き、彼に、ビスケットではなく、もし事情が許せば、キリストのパンと葡萄酒を与えます。それが同じものではないことはご存じでしょう。
エルンスト中尉 ええ、よく承知しています。わたしが辻褄の合わないことを喋っているとしたら、途方にくれている気持に免じてお許しください。しかし、あなたご自身の答えを言ってください。・・・これは天、人ともに許さざる行為ではないでしょうか? わたしたちは神の僕〔しもべ〕でありながら、忌まわしい扮装をして、襟に人殺しのしるしを縫いつけて、ロシアの街を走りまわり、そして明日の朝、一人の若者を銃殺するんです・・・。
 あなたはカルトゥシュケやその同類と、わたしたちはどう違うのだ、わたしたちは何をなすべきかとお尋ねになりました。おそらくわたしたちが異なるのは、いつ、いかなるときでも、よくないことは決して是認しないという、まさにその点だけでしょう。魔女の饗宴のような今日の混乱は、わたしたちみなを罪ある者にしています。わたしたちの罪は、わたしたちが生きているということです。わたしたちは自分の罪を担って生きてゆかねばなりません。 
 やがていつの日か、戦争もヒトラーも、何もかもが過ぎ去ってしまうでしょう。そうすれば、わたしたちは新しい使命を持つのです。わたしたちは真剣にそれと取りくみましょう。そのときには、すべての出来事や、この戦争全体の内面的な姿が問題になるでしょう。 
 戦争を憎むことは重要ではありません。憎しみとは、一種の攻撃的な欲望です。憎悪の魔力を取り除くことが必要です。明日になれば、みなが戦争の愚かしさを思い知るでしょう。そして10年ほどは覚えているでしょう。だが、そのうちにまたもや幾つかの神話の種が撒かれ、タンポポのように生い茂ろうとする。そのときわたしたちはお互いに草刈り人として、その場に踏みとどまっていなくてはなりません。
エルンスト中尉 国防軍宿舎につきました。ありがとう、牧師さん。あの若者に臨終の聖餐を施してやってください。そしてわたしのあわれな魂のために祈ってください。
 わたしたちの哀れな魂のために、祈りましょう。
エルンスト中尉 ではまた。「グーテン・ナハト、おやすみなさい」、でもどうやら二人とも安らかな夜は望めそうにありませんね。

(N) わたしたちは握手して別れた。彼は重い荷物を担っている人のように、少し前かがみになって歩いて行った。「ではまた」という言葉が、彼が自分の受けた命令に従おうと決心したことを意味していた。

                                             (続)
# by monsieurk | 2014-07-06 22:30 | 芸術

ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅰ

ラジオ・ドラマ 「不安の夜」
                                   原作 アルブレヒト・ゲース
                                   脚色 M.K.


(N:ナレーション) プロテスタントの牧師であるわたしは、第二次大戦中、ドイツ第三帝国の従軍牧師としてウクライナの戦線にいた。1942年9月は、温暖な、美しい季節だったが、街を一歩も離れずにすごした。あちこちの野戦病院へ行き、兵舎や部隊の宿営地を訪ねてまわる仕事に忙殺されて、好きな散策もできなかった。国防軍刑務所での仕事もあったし、戦没兵士の墓地を訪ねることもなおざりにできなかった。

音楽(さわやかな)

(N) 秋の一日、青くすみわたった空のもとで、秋風が吹きわたる野原や、ジャガイモの枯れた茎を焼く火や、ヒマワリ畑を見て歩きたいという気持は、あくまで民間人のもので、まともな兵士は勤務を終えると、夜は映画館へ行くか、ウォトカを飲んでロシア女のところへ遊びに行く。だが、わたしは到底そんな兵士にはなれなかった。

SE(効果音、風の音)

(N) 最近、夜更けの並木道を歩きながら、ギリシャの詩人ホーマーの詩句を口ずさんでいる自分に気づいたと打ち明けると、軍医大尉のドルトは、「あなたの症状は絶望的だ、打つ手はありませんよ」と、嘆いてみせた。

音楽(FO、次第に消える)

(N) でもこの日の午後は一切を振りすてて、郊外へ散歩にでかけた。舗装道路がつき、砂糖工場の敷地をすぎると、広々とした風景が広がっていた。そこまで来ると、破壊の跡もなく、爆風で壊れた窓ガラスや瓦礫の山も見えず、世界は無傷だった。風の音以外に物音は聞こえず、天地創造の日に、神が善しとされた姿のように清らかだった。褐色の土、その上に輝くすみれ色の空。・・・向こうには境界をなす川が流れ、対岸には古めかしい修道院が建つ丘があった。
 だが、この一見静寂な山野も決して安心できず、一人歩きは危険だった。この地域を占領したドイツ第三帝国は、農民を容赦なく搾取し、民族解放を叫ぶスローガンが偽りなことが分かってから、パルチザンの活動が日に日に強くなっていた。わたしが所属する野戦病院へも、毎週、狙撃された兵士が運びこまれてきた。でも心配しては限がない。いまは断固、向こうに見えるヒマワリ畑まで歩いていこう。この爽やかな風と一緒なのだから。

SE(トラックなど車両が走り回る音、ドイツ語の複数の話声)

(N) わたしは昼食前に基地へもどった。わたしが帰るのを待ち構えていたとみえて、当番兵が、わたしが入っていくより先に建物から姿をみせた。

当番兵 従軍牧師殿、すぐ特務曹長のところへおいでください。
 何か変わったことでも起こったかな?

SE(廊下を歩く足音、ドアをノックする音)

特務曹長 ああ、従軍牧師殿、お探ししていました。・・・ここにプロスクーロフからの電信がきています。
 一体、何の用だろう?
特務曹長 急ぎの用件らしいです。あなたの名前で、連絡を了解した旨の返事をしなくてはなりません。

(N) 電信文にはこう書かれていた。「プロスクーロフ野戦病院司令部はプロテスタントの従軍牧師に命令する。水曜日17時に必ず到着せよ。第三課に出頭のこと。往路用の乗用車はプロスクーロフ側が提供する。帰還は木曜日の見込み。・・・水曜日・・・それなら今日だ。

特務曹長 当方が確認したのは以上であります。プロスクーロフからの車はもう先方を出発しました。ここを14時に出発されれば十分間に合います。

(N) 第三課、・・・それは軍法会議を意味する。この召還の目的が何か、わたしにはすぐ分かった。軍法会議による銃殺に立ち会えというのだ。

特務曹長 美味しい昼食を召し上がりください、従軍牧師殿。
 ありがとう。

音楽(幕間風の)

SE(音楽にOL、被さって、自動車の走り、しばらくして停る音。ドイツ語のざわめき)

軍法会議判事(原稿を棒読みするように) ご足労をおかけしました。当司令部第4D課は、目下のところプロテスタント派の牧師が欠員になっています。囚人フョードル・パラノフスキーは、軍法会議の判決により、脱走のかどで死刑を宣告されました。ウクライナ方面国防軍司令官閣下による減刑請願の却下が、きのう届きました。規定にしたがい、判決は48時間以内に執行されなければなりません。銃殺は明朝5時45分。レンガ工場裏の砂利採取場で行われます。死刑囚は、これに関する指令第16条にしたがい、宗教上の介添えを要求する権利をもっています。だから、あなたに来ていただくようにとの指令を受けたところです。お出で下さったことにお礼を申し上げます。
 わたしは、囚人、とくに死刑囚にはできるだけ念入りに接することにしています。わたしの務めに意義があるとすれば、処刑場へ行ってから始めるのではなく、あらかじめその人物と事件をよく知っておく必要があります。とりあえず、これから囚人に会いたいと思います。それから今夜、わたしに死刑囚に関する書類を貸していただけませんか。
軍法会議判事 書類をお貸しすることは通常あり得ないのだが・・・・
   シュミット! パラノフスキーの書類を。
シュミット パラノフスキーの書類を取ってまいります、軍法会議判事殿。

SE(部屋を出入りする音)

軍法会議判事 書類は分量がありますよ、・・・書類を部屋から持ち出すのは許されていないのだが、今日は特別の事情ですから、書類を持って行っていただきますが、責任があることをくれぐれもお忘れなく。

SE(場面の切り替えのため)

(N) わたしはパラノフスキーが留置されている刑務所へ向かった。刑務所といっても、同じ敷地内に、みすぼらしい建物がひと棟建っているだけだった。責任者はカルトゥシュケ少佐といった。

カルトゥシュケ少佐 ハイル・ヒトラー! 牧師さん、もう法務将校のところへ行ってこられたそうですな。それじゃ、事情をよくご存じなわけだ。終油の秘蹟というやつだ。奴は明日の朝にはお陀仏だ。
   たしかに愉快な仕事じゃありませんな。ベッドの中の娘っ子の方がなんぼ可愛いか知れない。

(N) 私は一言も答えなかった。

SE(書類を机に激しく叩きつける音)

カルトゥシュケ少佐 きさま、そう聖人ぶるな! ベッド体操のことなどちっとも存じません、てな顔をしくさって!

(N) これはどういう種類の人間なのだろう? どんな素性の男なのだろう? どんな経緯で、この総〔ふさ〕の付いた少佐の肩章をつけるようになったのだろう? 戦争は到るところで、じつに馬鹿げた事態を引き起こしていた。ある英文学の教授は、軍の食糧倉庫でハムの数をかぞえる仕事に使われていたし、故郷ではローマの詩人ホラチウスの権威として尊敬されていたある主計長は、椅子や机や雑巾バケツの受領証を書いて毎日をすごしていた。それにひきかえ、期を逸せずに軍隊に入った理髪師は、いまでは大尉になっていた。このカルトゥシュケは、以前は何をしていた男なのだろう?

カルトゥシュケ少佐 いいか、従軍牧師さん、嘘っぱちのキリスト教的同情を盾にとることは断じてゆるさん。逃亡する奴は奴頭〔どたま〕をぶち抜く。それが明々白々たる事実だ。銃弾にものを言わせてやるがいい! ヒトラー総統は、刻々と激しさを増す戦争に、腰抜けどもは必要としてはおられんのだ。
 わたしとしては、処刑の前に、パラノフスキーの事情をはっきりと知りたいのです。
カルトゥシュケ少佐 はっきり、だと!

SE(机をたたく音)
  
 はっきりとは、どういうことだ? 心理学的詳細さということかね? 心理学など聞くのも真っ平だ! 胸糞が悪くなる。明日の朝、有難い主の祈りを唱える。それで終わり。万事終了だ。われわれは戦っている将兵に力を貸さなくてはならない。瘋癲〔ふうてん〕どものために時間を無駄にすることはできん!

音楽(不快な)

(N) 国防軍宿舎へ案内させるという申し出を断って、わたしは街を歩いて行った。

SE(ざわめき)

(N) ようやく探し当てた宿舎は、ロシアの小説に登場するような田舎の旅館だった。いまはそこをドイツ軍司令部が接収していて、将校用の宿舎、つまり食堂と宿泊施設にしているのだ。ここの郊外には飛行場があるので、利用者は少なくないようだった。
 まず事務所へ行き、明朝4時に出かけなければならないこと、夜中に書類を読む必要があるので、ぜひわたし専用の部屋が欲しいと申し出た。だが、それは約束しかねると拒否された。それでも割り当てられたのは、二間つづきの比較的広い部屋だった。
 わたしは自分の荷物を置くと、書類鞄だけは片時も手離さず、持ったまま食堂へ行った。それはシュヴァーベン地方の小都市なら、どこでも見かける居酒屋風の部屋で、かなり混雑していた。食券を出して、セルフサービスをする仕組みで、スープ、野菜、ジャガイモの食事は満足すべきものだった。

SE(重い鉄の扉の閉る音。ついで吹きつのる風の音)

(N) 食事の後、わたしは地方刑務所へ出かけて行った。                                                                        (続)
# by monsieurk | 2014-07-04 22:30 | 芸術

「不安の夜」

 若いときに出会って、忘れられない本や文章がある。ドイツ人牧師で詩人のアルブレヒト・ゲース(Albrecht Goes)の短篇『不安の夜(Uruhige Nacht)』や、イギリス人ジョージ・オーウェル(George Orwell)のエッセイ「絞首刑(A Hanging)」などがそれである。
「不安の夜」_d0238372_10153692.jpg 放送大学の教科書にも書いたことがあるが、ジョージ・オーウェルは本名をエリック・ブレアといい、1903年に父親の勤務の都合で、インドのベンガル州で生まれた。1921年に本国の有名なグラマー・スクール「イートン校」を卒業すると、大学には進まずに当時イギリスの植民地だったビルマ(現ミャンマー)で帝国警察に入った。その後、各地で警察官として勤務したあと、1928年に退官して本国に戻り、作家の道を歩むようになった。「絞首刑」(1931年)は、ビルマでの経験を描いたものである。
 オーウェルはある日、死刑になる囚人の付き添いを命じられる。
 「それは絞首台までおよそ40ヤードのところだった。わたしは目の前を進んでいく囚人の茶色い裸の背中をみつめていた。腕を縛られているので、歩き方はぎこちなかった(clumsily)が、よろけもせずに、インド人特有のけっして膝をまっすぐ伸ばさない足取りで、飛び跳ねるように進んでいく。一足ごとに筋肉がそれぞれ綺麗に動き、一つかみの頭髪が踊り、ぬれた小石の上に彼の足跡がついた。そして一度、衛兵に両肩をつかまれているというのに、彼は途中の水たまりを軽くわきへ避けたのだ。・・・奇妙なことだが、わたしはそのときまで、一人の健康で正気の人間を殺してしまうことが何を意味するのか、分かっていなかった。死刑囚が水たまりを避けて、脇によけたのを見たとき、わたしは盛りのときに命を縮めることの秘密、その言いあらわせない誤りを知った。この男は死んでいないし、わたしたちが生き生きとしているように、彼も生きているのだ。」
 この痛切な体験がオーウェルの原点にあって、その後の作品が生み出されていく。このエッセイを読んだとき、数分後には命を落とす運命にもかかわらず、足元の水たまりを、思わず避ける人間の行動に、思わず考え込んでしまった。
「不安の夜」_d0238372_1022164.jpg アルブレヒト・ゲースの短篇『不安の夜』は、ドイツ語の原本が出版された3年後の昭和28年(1953)年に、田中次郎による翻訳が「出版東京」から出て、それを読んだ。本郷通りから少し入った、通称「落第横丁」にあったペリカン書房で見つけたのだと思う。
 これは第二次大戦下のドイツで、脱走兵として捕まった兵士の死刑執行に立ち会う牧師の物語で、プロテスタントの牧師として従軍したゲース自身の体験にもとづいている。「不安の夜」_d0238372_10201697.jpg
 ゲースは1908年、南ドイツ・シュワーベン地方の牧師の家に生まれ、彼も長じて牧師となった。一方、彼は若いときから詩を書き、1934年に詩集『牧人』を出版して注目された。その優れた自然観察や、深い宗教性に裏打ちされた抒情は現代のモーリケとも称せられた。そんなゲースは、第2次大戦が起こると従軍牧師として東部戦線に配属され、戦争による多くの死を目撃し、死刑囚の死にも立ち会った。『不安の夜』はそのときの体験を書いたものである。この短篇が出版されると、英、米、仏をはじめ18カ国語に翻訳されて大きな反響を呼んだ。
 田中次郎訳の読後も、「みすず書房」から刊行された、佐野利勝・岩橋保訳(昭和41年、1966) や、Pierre Bertauxによるフランス語訳(Librio、1976)、さらには辞書を片手にドイツ語の原作を読み、その度に感動を新たにした。
 以来、自分が得た感銘をなんらかの形にしたいと念じてきたが、最近これをラジオ・ドラマにつくり直すことを思いたった。次回以降、このラジオ・ドラマを6回にわけてお読みいただくことにする。
「不安の夜」_d0238372_1045219.jpg
 
 写真は左から、田中次郎訳、Pierre Bertaux訳(タイトルは「夜明けまで」)、佐野利勝・岩橋保訳である。
# by monsieurk | 2014-07-02 22:30 | 芸術

新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅱ

 詩集は、マラルメが自らテクストを確定した生前唯一の総合詩集であって、本文批判の上でもっとも重要なものだが、市販された40部のほかに著者用など7部の非売品が印刷されただけという稀覯本であった。筆者の知る限り、この10年間で古書市場に出たのはただ一度、1977年4月22日にピエール・クレティアン氏により、パリの競売所ドゥルオで競売に付されたのが唯一の機会である。このときの評価額が6万3000フラン、落札価格は10万フラン(日本円で700万円)をこえた。
 この幻の著者自筆写真石版『ステファヌ・マラルメ詩集』が、昨1981年の暮れに、パリの書肆ラムセーから復刻され、出版されたのである。
 ラムセー版の製作者ジャン・ギシャール=メイリたちが目指したのは、1887年版の単なる復刻ではなく、当時マラルメが望んだままの姿を完璧に実現することだった。というのも、マラルメはデュジャルダンが達成した成果に、内心では不満を抱いていたと信じられるからである。温厚な詩人は、不満をさりげない言葉の端々に漏らしている。「〔詩集は〕大変良い出来栄えだと思います。ただ、石版刷りは十分〔読者を〕惹きつけるとは思えません・・・
 しかしこれは大したことではありません。原版を破棄してください。」(9月28日、デュジャルダン宛)
 では、マラルメが理想と考え、実現を望んだのは一体どんな形態のものだったのか。それを解く鍵は、ラムセー版の責任者ギシャール=メイリが、後書きのなかで指摘しているように、デュジャルダン宛の5月24日付書簡の一節に示されている。
 「・・・幾つかの文字が石版複写の校正刷では〔うまく〕出ていません。インクをもっと濃くしてはいかがですか。縮小した方が一層好ましい効果が得られると思います。・・・貴方のアイディアは素晴しい、その結果テクストは自筆〔複写〕と活字の両方で示されることになるのですから。」
 つまり、マラルメは『詩集』において、テクストが自筆原稿の複写とそれを活字に組んだものとの両方が共存する形を望んでいたのである。しかし、結果的にはなぜか活字によるテクストはの割愛され、夢は実現されずに終わった。しかも、自筆原稿の複写も石版印刷という技術の限界から、試し刷りの段階では詩人の望んだ黒さを十分に得ることが出来なかった。そのため紙面の白と文字の黒の対照の妙を愛でるマラルメは、複写に際して自費地原稿をあえて縮小するように頼んだのである。
 ラムセー版は、この一節からヒントを得た、マラルメの本当の意図を実現しようとした。つまり、見開きの左ページに現代の印刷技術を駆使して、自筆原稿を寸分違わず再現し、右ページにはそれに見合うテクストを活字化したのである。
新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅱ_d0238372_142659100.jpg

 こうして自筆原稿のファクシミレは、1887年版と比較して25パーセント拡大して複写された。この数字はジャック・デゥーセ文学文庫に現存するオリジナル原稿と比較検討の結果、割り出されたものだという。
 また活字についてもマラルメの希望が生かされた。詩人は生前、好みの活字について、しばしば希望を語っているが、それは当時のパリの印刷所シモン・ランソンが使っていたものに似たもので、イタリック体ではないが、「限りなく手書きの文字に近いもの」である。ラムセー版では、このマラルメの希望に沿って、ランソン活字を参考にしつつ新たな活字体が考案された。ただ用紙だけは、日本鳥子紙を見つけることはもはや不可能で、特別に漉いたラナの網目紙(ヴェラン)が用いられた。
 こうして詩人が抱いた夢は、94年を経た今日、ほぼ完璧な姿で実現されたのである。
# by monsieurk | 2014-06-29 22:30 | マラルメ

新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅰ

 筑摩書房が出している雑誌「ちくま」の1982年3月号に、「新版・著者自筆『ステファヌ・マラルメ詩集』」と題する文章を書いた。一部は『生成するマラルメ』(青土社)に引用したが、マラルメ研究に少しでも資するために全文をここに再録しおく。

 いまでもパリは稀覯本の宝庫である。左岸に多く店を構える老舗の古書店の書庫をのぞかせてもらえば、書棚には愛書家(ビブリオフィル)垂涎の書物がぎっしりと並んでいる。パリ滞在中は、薄暗い書庫のなかでモロッコ革装幀の本を手にとって、矯めつ眇めつしている愛書家をよく見かけたものであった。その姿はいかにも書物に淫するといった感じで、シャルル・ノディエやデュマが描いたビブリオマニアそのままである。
 だが稀覯本といっても、こうした愛書家の蒐集対象となる骨董的書物とは別に、その著者の文学を研究する上で、どうしても参照したい古書がある。19世紀フランス文学のなかでは、さしずめボードレールの『悪の華』や、1887年にわずか47部だけ印刷された、「著者自筆写真石版刷『ステファヌ・マラルメ詩集』」などがその代表的なものであろう。新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅰ_d0238372_15133820.jpg 
 初版本『悪の華』は、言うまでもなく6篇の禁断詩篇のゆえに、ナポレオン3世治下の軽犯罪裁判所から発禁命令が下され、その多くが押収された。そのため今日では滅多に手にすることのできない稀覯本となってしまった。しかし幸いにも、『悪の華』初版のテクストは、クレペ、ブラン両碩学の努力によって、詳細な注がほどこされて1942年に出版され、1968年にはジュネーブのスラトキン社から、初版のファクシミレ版が刊行されるに及んで、こと研究に関しては不便を感じることはなくなった。
 一方、この世に47部しか存在しないマラルメの『詩集』の方は、文字通り幻の存在であった。もちろんパリの国立図書館には、『詩集』の出版を計画したエドゥアール・デュジャルダン自身の献呈本と、他にもう1冊が収蔵されており、特別の許可を得た研究者に限って閲覧が許されるし、マイクロフィルムからの写真複製を入手することもできる。だが奇妙なことに、マイクロフィルムには、本来、『苦悩(Angoisse)』と『鐘撞く人(Le Sonneur)』の間にあるはずの詩篇『――ほろ苦き無為に倦じて(Las de l'amer repos où ma praresse offense)』一篇が欠落しており、せめて写真版で研究を進めようとする人々にとって悩みの種であった。
 マラルメの最初の総合詩集「著者自筆写真石版刷『ステファヌ・マラルメ詩集』」が、「独立評論」社から刊行されたのは、1887年5月から10月にかけてのことである。この年マラルメは45歳。絶唱「エロディヤード」や「半獣神の午後」をはじめ、象徴詩の真髄とされる数々の美しい小曲(ソネ)を発表し、ヴェルレーヌと並ぶ象徴派の総帥として、その文名は詩壇の枠をこえて世間一般に広がりつつあった。マラルメに心酔するデュジャルダンは、この機会にマラルメの詩業の全貌を見わたせるような詩集の編纂を思いたったのである。それまでマラルメの詩は、発行部数の少ない前衛雑誌に発表されたために、読者もごく限られていた。
 自作の詩篇を集大成した総合詩集をつくるというアイディアは、マラルメにとっても望むところで、二人の間で構想はすぐにまとまった。デュジャルダンが主宰する雑誌「独立評論」の第2号(1886年9月)の表紙に、次のような案内広告が掲載された。新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅰ_d0238372_1517982.jpg
 「作品の筆写はステファヌ・マラルメ氏自身の手になり、最高の石版技術によって大型の高級紙に複写されるはずである。―― 詩は一篇ずつ制作され、ごく少部数に限って印刷される。発行部数は前もって予告され、凸版は印刷後破棄される。―― シリーズは先ず詩から開始の予定である。・・・・」
 収録される作品は、20年前に創作された初期詩篇から最新作にいたる33篇。マラルメはこの機会に徹底的に改訂の筆を加えるともに、1篇ずつ入念に筆写していった。
 「・・・昨日から筆写をはじめました。ただ、『不遇の魔(Le Guignon)』の数々の欠点が、しばし私の筆の動きをとめてしまいました。昔の嗜好を残しつつ訂正を加えるのは大変です。内容見本はお手許にありますか。」(デュジャルダン宛、1887年4月27日付書簡)
 手紙のように、マラルメはこのとき、初期の詩篇に思い切った改稿の筆を加えたのだった。そのため全64行、545の単語からなる『不遇の魔』などは、そのうち217語が変更され、雑誌に発表された当初は、詩を色濃くおおっていたボードレールの影響は払拭されて、まさしくマラルメ自身の詩に生まれ変わった。マラルメはこうした推敲を、採録する33篇のすべてに加えたあと、美しい筆跡で清書していったのである。
 デュジャルダンは、詩人の自筆原稿をそのまま石版印刷したが、その際33篇を創作順に9輯に分けて順次出版した。各輯は33×26cmの二折型、用紙には日本鳥子紙が使われ、第1輯『初期詩篇』の冒頭には、フェリシアン・ロップスの「竪琴を持つ女」の銅版画2葉が挿まれた。(続)
# by monsieurk | 2014-06-26 22:30 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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