フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第八部(1)

 文学報国会

 三千代が帰国した一カ月後の一九四二年五月、日本文芸家協会を解散して、文学者の戦争協力を目的とする「日本文学報国会」が結成された。岸田國士が部長をつとめる大政翼賛会文化部が斡旋して二月初めに作家たちが準備会をつくり、名称などを検討したものであった。その後、時流を考慮して「日本文学報国会」とすることを決め、五月二十六日に設立総会を開いた。
 会長は徳富蘇峰、常務理事、久米正雄と中村武羅夫という体制で、六月十八日には、東条英機首相、谷正之情報局総裁を招いて発会式を行った。日本文学報国会のなかには詩部会も設けられ、部会長に高村光太郎、理事には川路柳虹と佐藤春夫がなり、会員は三百三十九名でを数えた。この国のほとんどの詩人が所属し、金子も会員になった。こうして文学者を国家に協力させる体制が確立された。
 六月には中山省三郎編集のアンソロジー『国民詩』第一輯(第一書房)が刊行された。河井酔茗の「赤道祭」のほか、川路柳虹、百田宗治、田中冬二などの五十九篇が掲載された。開戦直後の勝利で、戦争の前途に疑問をもたない民衆の高揚感を代弁する作品がほとんどだった。
 七月二十一日、文学報国会から金子の許に、南方の事情を知っているという理由で、「大東亜文学者大会の準備委員会」に出席しろという手紙が届いた。大会の目的は、「大東亜戦争のもと、文化の建設という共通の任務を負う共栄圏各地の文学者が一堂に会し共にその抱負を分かち互いに胸襟を開いて語ろう」というものだった。準備委員は、三浦逸雄、春山行夫、川端康成、奥野信太郎、河盛好蔵、林房雄、飯島正、一戸務、吉屋信子、細田民樹、中山省三郎、木村毅、草野心平、高橋広江、張赫宙、それに金子光晴の十六人だった。
 金子はこの準備会の様子を克明に覚えていて、戦後に書いた『絶望の精神史』のなかで次のように述べている。
 「もともと僕は、いつ文学報国会というものができたかも知らなかった。まして、それがどんなものか、内容を知るはずはなかった。その報国会から出席しろという手紙が来たので、とにかく出かけてみた。行ってみると、十人ぐらいの人が集まっていた。つきあいのわるい僕には、どれも新顔で、わずかに細田民樹の顔だけがわかっていたので、挨拶した。十年以上まえに、借金にいったことがあったのだ。塩田良平という人の顔もあったようだ。
 その日の会議は、中国、タイ、安南、インドネシアなどのいわゆる大東亜共栄圏の文化人を日本に呼んで、文学者大会をやることについて、そのスケジュールを相談することであった。内実は、日本の軍の威力を誇示しようという、当局の意図らしかった。まわりの人の空気で、僕は、自分の来る場所ではなかった、とおもった。文学報国会の会長である久米正雄(実際は常務)は、軍の報道部のなんとか大佐のところへ呼ばれて、遅れて来るというのだった。
 やがて会長が顔をあらわすと、会議が進行しはじめ、各国の文化人を引きつれて、日光とか、京都とかのほかに、戸山学校だとか、霞ヶ浦だとか、軍の威容を見聞させようというプランが立てられた。それは、報道部の大佐から久米会長が、いましがた注ぎこまれてきたもので、軍としては、その軍の威容を誇ることのほうが主眼らしかった。
 僕には、いずれも、どうでもよいことばかりだったが、アジア諸国の文化人が到着すると、まず最初に、宮城前に連れていって遥拝させ、同時にすりものにして八紘一宇の精神の説明書を朗読させ、日本精神を徹底してたたきこむというところにきて、僕は当惑した。
「その精神は、日本人には、かえがたいものかもしれないが、他国の文化人には、なんのかかわりもないもので、おそらく理解できないであろう。その部分は削除すべきではないか。」
と、ひと言口にすると、騒然として、なかでも、そこで初対面の中山省三郎という男が隣席からむき直り、けわしい目つきで僕をとがめ、「他国の文化人ではない。天皇の御稜威(みいつ)のもとに集まる、共栄圏の人たちだ。」
と、食ってかかるのであった。
 名は知らないが、中国研究家という一人の男が、
「それは、このかたの言うとおりで、中国人にも通じないことです。やめたほうがいいですね。」と、ひとりだけ僕に賛成してくれた。
 中山という男は、僕がヨーロッパを放浪しているあいだの日本で売り出した、文士の一人らしく、どんな人間で、どういう仕事をしている人間かすこしも知らなかった。その態度は傲慢で、おもいあがりで、まことに肚に据えかねるものがあったが、もともと気の弱い僕のことであるから、それ以上逆らわず、退散した。帰り道、細田さんといっしょだった。
 細田さんは、「僕なんか、もう老朽で、なにも口出しできませんよ。」と言った。おそらく、ばかなことに盾ついて、ばかな目をみないようにと、年長者の親切で、忠告をしてくれたつもりらしかった。僕もそれに感謝した。」(『絶望の精神史』)



 
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# by monsieurk | 2017-04-12 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(31)

 三千代は帰国後、『晴れ渡る仏印』や詩集『インドシナ詩集』のほかに、安南の伝説を十六篇蒐集した『金色の伝説』を協力出版社から出版した。初版は五千部で、日本での仏印ブームを象徴する出来事だった。
 三千代が安南の伝説に魅せられたのは、ハノイ滞在中に作家の小牧近江(本名は近江谷駉)と出会って話を聞いたのがきっかけだった。小牧はこのときハノイにある国策会社「台湾殖産」の子会社である「印度支那産業」の調査課長・副参事だった。
 小牧は一八九四年五月に秋田県の土地崎港に生まれた。小学校を卒業後、父の意向で東京の暁星中学校に進学し、二年生のとき父に連れられてフランスへ行った。父の栄治は秋田港の築港や火力発電などの事業を手がけた土地の名士で、やがて衆議院議員になった。このときの渡欧は第一回の万国議員会議に出席するためだった。
 小牧は一九一〇年十月にパリの名門アンリ四世校に編入し、年下の小学生に交って勉学を続けた。だが二年後に父が事業に失敗して送金が途絶え、学校を放校されてしまった。その後は、フランスの会社で働きながら、苦学してパリ大学法学部を卒業した。
 第二次大戦をパリで体験した小牧は、戦後世界の平和を説く作家アンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴し、その一員となって帰国した。一九二一年二月、二十六歳のとき、故郷土崎港の小学校で同級だった、金子洋文、今野賢三たちと、一九二一年に雑誌「種蒔く人」を創刊し、日本のプロレタリア運動のさきがけとなった。
 その後も精力的に左翼運動を進めたが、日本が中国大陸へ進出すると同時に、特高につけまわされる生活を余儀なくされ、トルコ大使館勤務をへて、一九三九年八月、フランス時代の外務省の伝手を頼って仏印へ渡ったのである。
 「印度支那産業」は、仏印の鉱産物、米、綿花、南京袋つくるジュート(綱麻)を現地の農民に栽培させて、それを日本に輸入する仕事をしていた。社員は支店長以下四十四人いたが、フランス生活の長い小牧は抜群の語学力と知識でフランス人や安南の人にも信頼が厚かった。
 そんな小牧近江が三千代に教えてくれたのは、民衆のあいだに伝えられてきた安陽王をめぐる物語だった。
 安陽王は長年覇権を競う雄王朝を倒して蜀を建国し、ハノイの北方の地古螺社(コーロア)に城を築いた。しかし何度やっても城は途中で崩れてしまう。そんなある日、金色の亀があらわれて、城には雄王朝の呪いがかけられていると告げる。王は亀の助けを借りて悪霊を退治し、城はようやく完成した。三年後、亀は南へ帰って行くが、城の守りとして自らの爪を一つ残してくれた。王はそれを引金にした弩(いしゆみ)をつくり、これがある限り城は安泰だった。
 だがこれを知った雄国の王は、息子の仲始(トンチュイ)をコーロアの城へ行かせ、安陽王の一人娘媚珠(ミイチョウ)と結婚させる。二人は幸せに暮らしたが、父の言いつけに背くことが出来ない仲始は、妻をだまして弩を受け取ると、帰国して父王に渡してしまう。さしもの安陽王も落城を覚悟し、娘の媚珠を馬に乗せて、二人で海まで落ちのびるが、そこに金の亀があらわれて、事の顛末を語って聞かせる。
 娘に裏切られたと思った父は、彼女の首を刎ようとする。媚珠の「私は何も知りません。もし私が罪人なら死んだあと塵となり、潔白ならその証に真珠となるでしょう」との言葉が終わらぬうちに、王は刀を一閃しては首を刎ねてしまう。海に流れた彼女の血を吸った牡蠣は見事な真珠を宿した。
 誤ちを悟った王は亀に導かれて海に入り、二度と地上へは戻らなかった。のちに悲劇を知った仲始は後悔と悲歎のあまり、井戸に身を投げて死んだ。
 史実をもとにしたこの伝説に興味をもった三千代は、関係する本を集め、悲劇の地コーロアを二度も訪ねて、帰国後これを作品にした。
 折からの南方ブームもあって、この物語は宝塚歌劇団の手で舞台化されることになった。歌劇は十月二十七日から十一月二十四まで、有楽町の宝塚劇場で上演され、看板には、「森三千代作、〈大東亜共栄圏 仏印の巻〉安南伝説・歌劇(雪組)「コーロア物語」(全十八景)」とあった。宇津秀男構成、内海重典演出で、出演は雪組の看板スター、春日野八千代、月丘夢路、千村克子そのほかだった。
 宝塚に肩入れしていたモンココ本舗は、金子が劇場ロビーの飾りつけやデザインを担当し、一日全館を借り切って社員全員に観劇させた。舞台は好評で、翌月一月元旦から二十七日まで続演となった。
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# by monsieurk | 2017-04-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(30)

 「シエムレアップの夜(LA NUIT DE SIEMRĒAP)」

今夜は十七番目の名月の夜だ。

いま私はやってきた
アンコール・ワットの遺跡にすぐそばに。
私の視線の彼方では、
月明かりの夜のなか、遺跡の周りが
静かに沈みこんでいくように見える。

遺跡を訪れるのは明日
宝石箱のように、遠い霧のなかの真っ盛りの花々のように
目の前にやがて開かれる未知のものを楽しむのだ。
まだ見たことのない
私の心の秘密に
はじめて出会うかのように。

でも周囲のこの単調さは何だろう?
月は高くのぼりこんなにも小さく見える。

シエムレアップの街の小さな劇場からは
仏陀に似た様子で踊るカンボジア娘たちの
赤に染めた掌と曲げた指とで踊る
音楽は聞こえない。
私を取り囲むのは
虫の声ばかり。

この私が、咲き誇る夢を探すのは
ただ心の廃墟のかなだけ。
あなたに手紙を書くが
この手紙は決してあなたに届きはすまい。

今宵は歎きつつ
いまの私の生きざまを愛しむ
そして、それを誰かに聞いてほしいのだ。

 「アンコール・トム(ANGKOR THOM)」

感覚を失うほどの
長い時のほほえみ!

恋、嫉妬、そして歎きを経めぐり
最後に帰ってくるほほえみ。

破壊のあとでさえ
青空に幻影のごときものを残すそのほほえみ。

巨大で、複雑な世界の終りの
名残の味がするほほえみ。

雷鳴のようなそのほほえみ、
大嵐の瞬間のほほえみ、
永遠の凍りついたかのようなそのほほえみで、
おお、アンコール・トム! お前は私の生をすっかり虜にする。
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# by monsieurk | 2017-04-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(29)

 「旅支度(TENUE DE VOYAGE)」

ああ! もう一度、
トランクに新しいラベルを加え、
私は旅立つ。

ある朝、私は人力車で遠くへ運ばれていった
霧雨に湿ったハノイから、
私を眠らせてくれた
パゴダの伝説よりも甘く悲しい胸から離れて。

ハノイ、
祖国よりも親しい名前、
それは気まぐれな空爆の下で
慌ただしい日々を生きるハノイだった・・・

のどかに流れる紅河の水に
自分の血の一滴を
私は落とした。
そのときからハノイは私と不可分なものとなった。

私がトランクに詰めるのは、
哀しげな竹藪を映す水田の
はるかな縁へ持っていくのは、
服でもなく、ノートでもなく、
化粧品でも、缶詰でもない、
それはプロペラの爆音の下で咲く一輪の花、
私の姿に似た悲しい花だ。

 「星座(LA CONSTELLATION)」

マンゴーの大枝の上の、
長柄を下にした大熊座、
隣には北極星
バルコンの左には南十字星。

今宵はなんという夢見る夜!
なんと深い郷愁に充ちた夜!
白いバルコンの上には、主人と招待客が
夜遅くまでグラスを空にしながら語り合う。

甘美な酒、《コワントロー》のなかに
空が身を傾けている
心地よく、甘やかに、爽やかに
星々が私の舌の上ではじける。

頭上では
星座が知らぬ間に半周していた。
いや、バルコンが一晩中歩きまわったのだ
空の周囲を。

長柄を横にした大熊座、
北極星が天空を
半周して滑りこみ
南十字星は、いまバルコンの右にある。
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# by monsieurk | 2017-04-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(28)

 フランス語で書かれた『インドシナ詩集』には、三千代が旅した仏印各地で見聞した風景や文化風土、そこに生きる人びとの印象を主にうたった詩が、ハノイにはじまり、巡った順に並んでいる。

 「夜の樹々(LES ARBRES DE NUIT)」

ガンベッタ大通りの黄昏に
月が昇る、
オレンジ色の細い月が。

夜の樹々
身をよじらせ
闇の底から塊をなして立ちあがる、
空に祈るために手を合わせながら。

  ――ああ! この夜、
  私たちは眠れずに、苦しんでいる、
  私たちは呻く力も息をはずませる力もない。
  
そして樹々はかすかにざわめき、
やがて静かになる。
ひとりの安南女が両膝を抱えて、
黒い影の足元にいる。

夢もなく歌もなく、
夜霧の底なしの深さのなか、
無意味な眠りに
まどろみながら・・・

 「花々(LES FLEURS)」

幸せな日に
花を買いたくなるように!

少し曇った人生に、
不意に薄日がさす。

花々が萎れてしまうまで、それを撫でていよう。
「小湖」のさざ波のうえで
短い命の光を拾い集めよう。

水を渡る風に吹かれながら
私は黒髪を梳かそう。

 「桃の花(FLEUR DE PÊCHER)」

静かなたたずまいの安南で、
香しい風に運ばれた桃の花が
私の頬をそっと撫ぜた。
そしてすべてが火を燃えた・・・
おまえ!
昼の白い月の下、
静かに燃えるその火の歌に
身を委ねよう。

 「美しい土地(BELLE TERRE)」

私は飛行機でやってきた。
飛行機は富士山をかすめ、
多彩な色の雲のなかに
突込み、通りすぎる。

眼下には壮麗なパノラマが展ける。
突然、私は尺蛾のように落下する、
花粉をまき散らしながら。
ここはインドシナだ!

あなたたちに何をもたらすことができよう?
フランス語も安南語も話せず、
交易の品も面白い話もない私は。
私は、何ももたない蝶だ。

微風のなかには、パゴダ
そして緑の水田。
私は降り立つ、真摯なままの心を抱いて、
それをあなた方に捧げよう。
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# by monsieurk | 2017-04-01 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)