ムッシュKの日々の便り

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「ワレサ・連帯の男」

 詩游会の6月の映画鑑賞会では、同じくアンジェイ・ワイダ監督の「マレサ、連帯の男」(2013年公開、124分)を見た。
 前回の「灰とダイヤモンド」が扱っていた1950年代以後、ポーランドでは統一労働者党(共産主義)が政権を握った。冷戦下にあって、ポーランドは西側のNATO〔北大西洋条約機構〕に対抗する「ワルシャワ条約機構」の中心的存在であり、多くのソビエト軍が駐留していた。
 そして1970年代のポーランドは、共産主義体制のもとで、経済の停滞、言論の自由の剥奪など共産主義政権への不満が高まっていた。
 そんな中、1980年8月、グダニスクのレーニン造船所の労働者が政府の食肉値上げなどに抗議してストライキに突入。労働者代表のレフ・ワレサが政府と交渉して、統一労働者党の統制を受けない労働組合として「独立自主管理労組」を結成し、スト権、経済政策への発言権などを認めさせた。
 同年10月、全国の独立自主管理労組が結集して「連帯」(ソリダルノスチ)が結成され、ワレサが議長に就任した。政府側はこの大幅な譲歩の責任をとって、ギエレク第一書記が辞任した。
 その後を継いだヤルゼルスキー政権は、1981年以後、一定の経済改革を推し進めながら、その一方で「連帯」などの民主化運動は押さえつけた。
 しかし、沈黙を余儀なくされた反体制側は、1988年になると、消費者物価平均36%のアップと、賃金一律引揚げをセットとして、4月からは各地でストに突入した。ヤルゼルスキーは、与党であるポーランド統一労働者党(共産主義)の保守派を抑えて改革路線をとることにして、「連帯」との円卓会議を約束した。こうしたポーランド民主改革の動きは、当時、社会的停滞が目立っていたソ連にも影響をあたえずにはおかなかった。
翌1989年4月に、ヤルゼルスキー政権は「政治的複数主義」と「労働組合の複数主義」を認め、自主管理労組「連帯」を再度合法化した。「連帯」は1980年に結成されたが、81年のヤルゼルスキ政権の戒厳令施行によって弾圧されて事実上非公認とされ、活動家は地下に潜っていたからである。
 4月に開催された円卓会議での合意に基づいて、6月4日、複数政党による自由選挙が行われたが、これは東欧の社会主義圏では最初のことであり、特筆される出来事だった。
 選挙では政党としての「連帯」が圧勝し、政権をめぐる駆け引きがしばらく続いた後、改革を主導した統一労働者党のヤルゼルスキーが大統領となり、9月には、「連帯」に属するカトリック系知識人マゾビエツキが首相をつとめる連立政権が成立した。
 そして1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパの社会主義国の民主化が次々に起こった。
 ポーランドでも、12月30日には、憲法から「党の指導性」条項を削除し、国名をポーランド人民共和国からポーランド共和国に変更、国旗も戦前のものに戻した。
 ヤルゼルスキー大統領、マゾビエツキ首相という連立政権の成立によって出番を奪われた形となった「連帯」の指導者ワレサは、次第に政権への意欲を持つようになる。この背景には「連帯」内のワレサに近い労働者グループと、マゾビエツキに近い知識人グループの対立があった。連帯は二派に分裂し、1990年11月の大統領選挙では、ワレサ、マゾビエツキがともに立候補、他に第三の候補もあって票が分散して、いずれも過半数をとれず、決選投票でワレサがようやく大統領に選出された。
 映画「ワレサ 連帯の男」は、1980年代のはじめ、イタリアの女性ジャーナリストがレーニン造船所で働くワレサの家を訪れ、「連帯」の委員長として戦った彼を取材するところから始まる。ワレサは1970年12月に起きた食糧暴動の悲劇からはじまった自分の抵抗運動を語りだす。映画はワレサを主人公にして、ポーランドの現代史を描きだす。なお、レフ・ワレサは1943年9月29日生まれ。1967年にレーニン造船所で電気工として働き、1980年に「連帯」の初代委員長に就任。1983年にノーバル平和賞受賞。1990年にポーランド共和国初代大統領に就任。1995年まで任期をつとめた。
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 映画鑑賞会のあと、会員の一人、川瀬藤典氏から以下のような感想が寄せられた。氏の了解を得られたので、掲載させていただく。
  
先日は映画鑑賞会ワイダ監督作品「ワレサ 連帯の男」を見せていただきました。この映画に感動いたしました。そこで、いろいろと思いついた感想をメールさせていただきたくなりました。映画「ワレサ 連帯の男」は、ポーランドの労働者の抵抗による共産主義政治体制から民主化への道を描いた映画でした。それは奇跡的とも思える粘り強い運動による暴力のない方法です。それを表現する為、大筋はノンフィクションであっても、細かい場面はワイダ監督によるフィクションを含んだ手法により芸術的作品に仕上げられた映画と思いました。記憶に残った場面を順序が不正確ですが、いくつかあげて見ます。

①イタリア人女性記者がタクシーでインタビュー会場に行く場面当局らしき人達の尾行と盗聴、盗撮が行われていました。
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この導入部で推理映画を見るような緊張感とわくわく感を与えられ、まず映画に引きこまれました。

②ワレサがインタビューを受ける前に家庭で準備する場面。奥さんがよそ行きの白いシャツを準備したのにそれを着ずネクタイをしてあげようとすると、最初は受け入れても最後はノーネクタイで出かけた。
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なぜそうしたのだろうか?と思いました。これはワレサの世間的な型に嵌まる事を嫌う人柄を表し、また夫婦の機微を感じました。監督はここでワレサの人柄の一面を表すとともに、家庭とのあり様を示しているのかと思いました。

③映画は80年初頭、ワレサの自宅で、イタリアの女流ジャーナリスト、オリアナ・ファラチがインタビューを行う形で始まります。そこに、ただの電気工が労働者のトップになるまでの経緯がカット・バックで挿入される手法が用いられています。インタビューの最初では、ワレサは警戒して話したがらない様子です。タバコをふかし、足を組んでふんぞり返り、まるで記者の値踏みをしているように見えました。
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監督はなぜこういうふうに描いたのか?映画を見終わってから、よくわかりました。それはまとめの部分に書きました。

④回想場面で妊娠した奥さんの足を洗う場面
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ワレサの奥さんに対する深い愛を表現していると思いました。この場面の構図からなぜか、ふと受胎告知の絵画を連想いたしました。この事を友人に話すとマグダナのマリアがイエスの足を洗うというエピソードが聖書にあると教えてくれました。調べると、その他にも、最後の晩餐の後にイエスが弟子の足を洗うエピソードなど、足を洗うという事がキリスト教に深く関連付けされていると理解できました。そう考えると、まさに聖母マリアのイメージです。

⑤家庭から当局との暴動衝突、ストライキ突入・団体交渉や当局に出頭にあたって腕時計と指輪を奥さんに託す場面(何回も出て来きます)
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特に腕時計と指輪を置いた時の音が、ワレサの心の区切りをつける意味を感じさせられました。と同時にそれがお金に変えられる腕時計と指輪から労働者の暮らしぶりを思いました。

⑥ワレサとその仲間が体制側の集会で体制の提案に賛成し体制の犬となった労働者をその家庭に訪ねた場面で労働者のおかれた貧しく厳しい現実を表現し、そして体制の犬となった弱い労働者を赦す場面。
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ワレサの労働者をまとめていく方法を見たような気がしました。リンチされるかと怯える弱い労働者に対して、制裁を加えて怒るのではなく、まずは話を聞いて、自分のできること「電気の事なら俺にまかせろ」と言い困っていることを解決=労働者にとっては一種の奇跡を起こす力を示したのでした。弱い労働者の味方である事を示し、解決する力を示し信頼を得る方法でした。

⑦インタビューで当局に投獄された時の事を聞かれて、投獄への不満や抗議はせず、意外にも静かで周りの騒ぎに邪魔されず深く考えられると返答する場面。
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強がりかも知れないが、どんな窮状に陥ってもプラス思考で考えている強さを知りました。窮状こそが信念を強くしていくようにも思えました。

⑧当局が家宅捜査にやって来て奥さんが慌てて証拠を隠そうとしている場面でキリスト教ミサのテレビ放送が始まると奥さんが全てを投げ出してテレビにかじりつく場面。当局の助手までもがミサのテレビ放送に心を奪われ膝をついて祈ろうとした。
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ポーランド人にどれだけ深くキリスト教が沁み込んでいるかを象徴している画面ではないかと感じました。

⑨ストライキが長期となり膠着状態で労働者達が分散してしまいそうになった時、ミサを企画しストライキを維持した場面。
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ポーランド人にとってキリスト教が深く生活に根ざしていることを、ワレサは良く理解し、賢くキリスト教を利用して労働者の分散を防ぎ人々をまとめたと思いました。

⑩インタビューでリーダー論を述べている場面。ワレサは自分の事を「5ページも本を読んではいられないが、しかし5秒で決断できる能力がある」と述べる。
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ワレサは知識人ではないと宣言し、しかし現実に対処できる自信を示しています。⑪若い学生達が自分達は青二才と見られているのじゃないかと悩み、ワレサに協力を求める場面。
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知識人の実践へのかかわりへの限界性と自信の無さを表していると思いました。

⑫家庭に多くの闘争の同志が入り込み、奥さんが怒りを爆発させた時「チフス発生の札」を扉にかけて和解する場面、またチフス発生の札は映画の最後のハッピーエンドの場面でも登場します。
    ↓
シリアスな場面をユーモアあるいは皮肉で切り抜けるワレサの聡明さを感じ取れます。それを描く事により映画全体の薬味としている、ワイダ監督の凄さを感じました。何故「ペスト」でなく「チフス」なのだと考えると、「チフス菌」という言葉に何か伏線がありそうな気がしました。調べると関係があるかどうか分かりませんが、同じポーランドのアンジェイ・ズラウスキ 監督「夜の第三部分」というチフス菌実験 の恐ろしい映画がありました。その他にもこんなエピソードがみつかりました。(映画と直接関係ないかもしれませんが知って良かったと思えた話なので書きます)ワイダ監督は大の日本好きで有名です。1920年に、孤児を助けた体験が、ポーランド人の間で語り継がれているそうです。ロシア革命の内戦中に多くのポーランド人がシベリアに抑留されて命を落とし、孤児が増えました。子どもたちを助けてもらうため、ポーランドはアメリカやイギリスに救命嘆願書を送りました。返事がきたのは唯一日本だけだったそうです。1920年から22年にかけて、計5回765人の孤児が日本で想像もつかない温かいもてなしを受けたそうです。たとえばそのひとつがチフスです。到着直後の子どもたちはチフスにかかり最悪の健康状態でしたが、日本赤十字の看護師たちや医師たち、さらに全国の日本人から寄付も集まり、子どもたちは2年後に全員が元気でポーランドの戻れました。その子たちは生涯にわたり「日本はとても良い国、日本人の精神がすばらしい」と伝え、いまもそれは語り継がれているそうです。
ワレサは、1981年に「ポーランドを第二の日本にしたい」と語っています。これはポーランドでは誰もが知っている名言となっているそうです。

⑬ワレサが当局のお偉方二人に連行される場面で、覚悟を決めたワレサが家族全員小さな子供達も連行の現場に立ち会わせた。
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親は子供に何を伝えるべきか、現実をしっかりと見ることなど深く教えてくれる場面ではないかと思いました。

⑭政治犯収容所での食事の場面で向かいの人の皿と交換して毒を盛られていないか警戒する場面。
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ワレサのあらゆる事に油断せず警戒を怠らない性格を表しているのかと思いました。

⑮政治犯収容所で情報統制の中でラジオを改造して世界の情報を獲得している場面。
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ワレサの電気工学への実践的な知識が実際に役に立っているとわかりました。

  「まとめ」
モノクロの記録映像とワイダ監督が創作したワレサの数々のエピソードがカラーの場面で散りばめられた映画でした。この手法をとることでこの映画においてワイダ監督は、ワレサという人物を英雄的存在ではなく、実際に存在した生き生きとした人物として描きました。⑩の場面ではインテリを痛烈に批判する人間であり、また③の場面での態度から傲慢不遜な性格、⑤や⑬の場面から妻を大事にする子煩悩な(現実に6人の子沢山)よき家庭人で、ここでは饒舌な自信家でもあるというように、さまざまな場面から、矛盾をかかえたワレサという人物像(人間そのもの)が浮かび上がってきます。ワイダ監督は「連帯」から立候補し上院議員も務めました。実際にワレサに会い、ワレサと行動を共にしていたのです。当時のポーランドは経済は破綻状態で政治的にも共産党体制は行き詰まっていました。ポーランドを救ったワレサはまさに救世主でした。これは言い過ぎかもしれませんが、①の聖母マリアのイメージがワレサ=救世主に繋がります。⑥の場面で示される体制側の犬となった労働者に赦しを与え、「俺にまかせろ」と奇跡の言葉を発する場面など救世主イエスキリストと重なります。英雄でない、特別な人でないワレサが救世主になり得た事、そしてこのようにワレサを表現する事でワレサが見る人にとって身近なものとなる事で、この映画が芸術作品として我々に感動を与えてくれる理由に思えました。2013年のワイダ監督87歳の晩年作品は、ポーランドの英雄を、あえて英雄化せずに人間としてのワレサを描き、混迷する現代に於いて「次なるワレサ」の出現を期待し願い、そして更に、特別な人でない普通の人が「次なるワレサ」になれるとも言っているようにも思えます。
充分にまとめきれてはいませんが、映画「ワレサ 連帯の男」を見て、沢山の事を感じさせていただけた事は、お伝えできたかと思っています。(川瀬藤典)

 一つ書き添えれば、ポーランドの民主化の動きを陰で支えたのは、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(在位1978年10月~2006年4月)だった。教皇は就任すると8カ月後には、祖国ポーランドを訪問して、首都ワルシャワの中心にある広場に集まった群衆に向って、「恐れるな」と訴えた。この4カ月後、「連帯」が主導するストライキが起り、民主化へ大きく動きだした。ポーランドは国民の98%がカトリック教徒といわれる国である。
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# by monsieurk | 2017-07-17 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

詩游会の映画鑑賞「灰とダイヤモンド」

 前回のブログで紹介した、放送大学神奈川学習センターでの詩游会では、ときどき映画会も開いている。5月の第2回目は、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」(1958年。103分)以下は、その観賞用に書いた背景説明の文章である、

 第二次世界大戦が終結した、1945年5月8日。ポーランドの地方都市。教会の前で二人の若者が暗殺を目的に待ち伏せをしている。相手は県の労働者統一党(共産党)書記シュチューカである。
 ポーランドは第二次大戦中の5年間、ナチス・ドイツの占領下にあり、国内の抵抗勢力は親ソビエト的な共産主義者(人民軍)と、愛国的な反共主義者(国内軍)に大きく二分されていた。両者は首都ワルシャワに迫るソビエト軍に呼応して、1944年8月1日に、凡そ7万人のポーランド人がワルシャワで蜂起した。しかし圧倒的兵力を残していたドイツ軍の反撃をうけて殲滅され、古都ワルシャワは破壊されてしまう。
 この結果、国内軍と共産党系の人民軍は分裂し、国内軍は共産党系に吸収されるのを恐れて、1945年11月には配下の軍隊に解散を命じた。
 映画の冒頭で待ち伏せしている二人の若者、マチェックとアンジェイは、この国内軍の残党で、解散させられた後は、地方の森を拠点にして、ソ連軍やポーランド統一労働党(共産党系)にたいしてゲリラ活動を行なっている。
 1945年5月8日、ナチス・ドイツが降伏して、共産党系のポーランド労働者統一党が国内の覇権を握った。するとかつて国内軍に属していたゲリラ・グループは、共産主義政権の樹立を阻止しようとして抵抗し、国内は内戦状態に陥った。映画の冒頭でも、テロ・グループは中央の指令で、県の指導者である共産主義者の暗殺をこころみるが、殺したのは人違いで、普通の労働者だった。
 こうした歴史的転換期を舞台にした映画「灰とダイヤモンド」は、二人の主要人物、狙われた労働者党の地方書記シュチューカと、テロをくわだてた国内軍系のゲリラ、マチェクを軸に展開する。シュチューカは、かつてスペイン内戦に参加して負傷し、第二次大戦ではソ連軍に加わってドイツ軍と戦った経歴の持ち主である。いまは地方共産党の責任者として、地方の行政まで握ろうとしている。
 一方のマチェクは、ワルシャワ蜂起に参加したが、追い詰められて地下水道を逃げまわった(これが映画「地下水道」のテーマである)体験を持つ。いまはワルシャワから地方に来て、共産党系の勢力にたいするテロ活動を行っている。これもワルシャワに残る国内軍の生き残りの組織からの命令で行動している。
 いまは立場の異なる二人だが、かつては共に祖国を解放するため、ナチスと勇敢に戦った過去があり、そのころを良き時代として思い出している。それがナチス・ドイツという敵がいなくなると、またちまち対立する関係になってしまうのだ。
 映画では、こうした当時の複雑な政治状況を背景に、上からの命令でテロを実行してきた若者が、人を愛することで過去の自分を捨てて、新たな生き方を選択しようとした瞬間に悲劇が起こる。
 マチェクと恋人が教会の廃墟で、十字架のキリストが逆吊りになっているところで語り合うシーンは、映画史上最高のものといわれる。
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原作はイエジー・アンジェイェフスキの『灰とダイヤモンド』(岩波文庫)
脚本は原作者とアンジェイ・ワイダ(ポーランド語ではヴァイダ)
原作では、1945年5月5日から8日までの4日間にわたる物語を、映画では約24時間の出来事に圧縮して展開している。
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# by monsieurk | 2017-07-14 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

詩游会「秋刀魚の歌」

 放送大学の神奈川学習センターで、毎月一度、日本の近現代の詩を読む「詩游会」を開いている。毎回一人の詩人を取り上げ、輪読しながら楽しむ会はもう二年続いている。六月は佐藤春夫がテーマだった。
佐藤の膨大な詩業から十数編を選んで鑑賞したが、有名な「秋刀魚の歌」について、彼と同じく新宮出身で、同じ県立新宮高校(佐藤の時は新宮中学)の後輩の植地勢作さんから興味深い指摘がなされた。
 まずは「秋刀魚の歌」の全文を掲げる。

秋刀魚の歌

あわれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がする里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証(あかし)せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

あわれ
秋風よ
情あらは伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児(をさなご)とに伝えてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩(しよ)つぱいか。
その上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいずこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。(詩集「我が一九二二年」、大正十二年刊)

 『西班牙犬の家』や『病める薔薇』(のち続編を加えて『田園の憂鬱』となる)を発表した佐藤春夫は、六歳年上の谷崎潤一郎に認められ、谷崎家に出入りするようになる。このころ谷崎は夫人千代の妹せい子(『痴人の愛』のモデル)と結婚しようとしていて、千代は疎んじられていた。そんな千代に同情した佐藤はやがて彼女を恋するようになる。佐藤がその気持を谷崎に打ち明けると、一度はこれを認めた谷崎は、せい子に結婚を断られたこともあり、千代との生活をやり直すと言い出した。これによって佐藤は、大正十年三月谷崎との交わりを絶った。「秋刀魚の歌」はこうした複雑な関係のなかから生まれたもので、大正十年十月に雑誌「人間」に発表された。
 詩の第二連は、佐藤と千代が心を通わせていたときの回想で、「人に捨てられんとする人妻」は千代であり、「妻にそむかれたる男」は佐藤自身。彼は大正六年に米谷香代子と結婚したが、三年後には離婚していた。
 この詩が人口に膾炙したのは、庶民的な匂いのする秋刀魚を主題として、侘しい生活と恋の未練を自嘲をこめて詠ったことによる。問題は「夕餉に食うさんま」が、はたしてどんなものかという点である。
 私たち関東に住む者には、秋の初めに北海道や東北の海で獲れた生のサンマを炭火で焼いて食べる習慣がある。去年の「目黒のサンマ」祭りは九月十八日に行われ、岩手の宮古港から送られてきた六千匹のサンマが焼かれて、もうもうとした煙のなかで集まった人たちに振舞われた。
 サンマは毎年、北海道から東北へ下り、静岡沖を通って紀伊半島の熊野灘にたどりつくが、このときはすっかり脂が抜けている。熊野灘のサンマ漁の解禁は毎年十月下旬。獲れたサンマを開いて塩漬けにし、食べるとき塩抜するのが紀州名物「サンマ寿司」である。その他は、はらわたを取らずに丸干しにする。植地氏によると、丸干しのサンマは脂が落ちていて、焼いてもそれほど煙がたたず、これに特産の青い蜜柑のしぼり汁をたらして食べるのが故郷新宮の味だという。
 詩の第一連は序章で、丸干しのサンマをひとり食べる孤独な男(佐藤自身)が描かれる。その男が思い出している情景が第二連で、小田原にあった谷崎の家で、男と人妻(千代)とその子(鮎子)は夕食の膳を囲んでいる。第三連はその一年後の、男の淋しい心を詠っている。かつて三人で食膳を囲んだ「世のつねならぬ団欒(まどい)」が夢ではなかったことを、秋風に証明してほしいと願うのである。
 そして第四連。時制はまた現在にもどり、第五連にいたって一人暮らしの我が身を振り返る。かつて女とともに「青き蜜柑の酢をしたたらせて」食べたサンマに、いまは一人「熱き涙をしたたらせ」るのである。そして最後は、そんな自分を「あわれ / げに問はまほしくをかし」、おろかしく滑稽だと突き放して終わる。
 谷崎と佐藤は事件の七年後に和解し、佐藤は昭和五年(一九三〇年)八月千代と結婚した。このとき谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫の三人の名で挨拶状が知人に配られた。瀬戸内寂聴は小説『つれなかりせばなかなかに』で、「小田原事件」と呼ばれるこの出来事の事実を掘り起こしている。
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# by monsieurk | 2017-07-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(22)

 三人は一日も早く吉祥寺の自宅に帰りたかったが、交通を初めとしてすべてが混乱していて、切符も手に入らず、しばらくは平野村に留まることにした。
 八月十五日に鈴木貫太郎内閣が総辞職し、十七日には東久邇内閣が成立した。二十八日には連合軍の先遺部隊が到着し、三十日には最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に降りたった。そして九月二日、アメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書の調印が行われた。
 金子は知らなかったが、九月四日、いわゆる「横浜事件」で逮捕されていた畑中繁雄に対して、懲役二年執行猶予三年の判決が言い渡され、即日釈放された。敗戦のどさくさのなかで下された異常な判決だった。「横浜事件」に関しては、その後も再審請求が幾度もなされ、二〇〇八年に免訴が確定する。
 九月二十一日、金子と乾が上京した。吉祥寺の家は幸い類焼をまぬがれたが、家を失った四家族の人たちが住みついていた。しかも東京の治安は極端に悪く、すぐに帰京することはできないと判断した。ただ隣の河野一家は間もなく東京に帰っていった。
 平野村での生活を続けるためには、何よりも食料を確保する必要があり、十月には育ててきた玉蜀黍の収穫をした。二斗ほどの収穫があった。
 十一月十七日には、三千代が乾とともに上京した。そして本郷森川町の徳田秋声の息子徳田一穂の家で、秋声の年忌のために疎開先の山梨県冨河村から上京した武田麟太郎と会った。武田は坊主頭に古びた国民服を着ていて元気そうだった。仏壇を前で秋声をしのんだあと、武田と焼け跡の街を二人で歩いた。
 「瓦礫が積重なり、夏中生ひ茂った雑草が、末枯れて赤くなった焼原に、ぶつ切れてねじまがつた水道管の口から流れ出すままになつた水が、秋陽にきらきら光つてゐた。ぽつんと焼残つた土蔵の、のれんにした荒筵の隙間から、住んでる人のすさんだ目がぎょろりとのぞゐた。」(森三千代「最後に会った日のこと」)
 これが三千代が武田に会った最後だった。武田麟太郎が亡くなったのは、四カ月余りのちの翌一九四六年(昭和二十一年)三月三十一日で、肝硬変だった。
 金子、三千代、乾の三人は、この直前の三月十五日に上京する決心をした。乾の進学のための受験が迫っていたのが主な理由だが、金子は一月に上京した際、若いときの未発表の詩集『香爐』の出版を稲葉健吉に一任して、代金五百円を受け取っていた。詩集は五月十五日に、香園草舎から定価三円五十銭で発売されことになるが、そのほか手元には、河邨文一郎にあずけた「疎開詩集」や平野村でノートに書きためた詩があった。平野村を訪ねて来た岡本潤は、これらの詩篇が出版される日が来るのだろうかと心配したが、そのときが意外に早く来たのである。これらを出版するためにも上京する必要があった。
 持って帰るものとしては、まずは膨大な本だったが、東京の煖房事情を考えて炭を二十俵ほど買い込み、調達できた食料品と一緒にトラックに積んだ。
 乾がトラックの助手席に座り、金子は山のような荷物とともに荷台に乗り込んだ。三千代と美代は、翌日の汽車で帰京することにした。こうして足かけ二年におよんだ平野村の疎開生活に終止符をうったのだった。
 金子の詩は、戦後、『落下傘』(日本未来派発行所(北海道)、昭和二十三年四月一日)、『蛾』(北斗書院、昭和二十三年九月一日)、『女たちへのエレジー』(創元社、昭和二十四年五月十五日)、『鬼の児の唄』(十字屋書店、昭和二十四年十二月十五日)と、たて続けに出版される。
 三千代は東京へ戻ったあと八月には小説集『街の童女』(飛鳥書房)を、十月には中編小説「おしろい花」(九州書房部)から出版して作家活動を再スタートさせた。
 だが疎開先の寒いなかでの慣れない農作業の疲れと、敗戦直後に自宅近くの医師に打ってもらった砒素の注射で、体調に異変をきたした。三千代はもともと健康な女性だったが、四十代には一種の皮膚疾患に悩むようになった。首や両腕に水泡状の痂(かさぶた)が生じ、夏でも長袖を着なければならなかった。東京へ戻るとこれがぶり返したのである。
 自分の容姿に気を使う彼女は、近所の医者に二、三回砒素の注射を打ってもらったのだが、それが原因で高熱を発し、全身に痛みが生じた。これがゆくゆく彼女を苦しめる原因となる。一九四九年(昭和二十四年)には過労と風邪のため急性関節リューマチを発症して、やがて寝たきりの生活を余儀なくされることになる。
 金子光晴と森三千代の相棒が、戦後にたどるこうした第二幕は、また稿をあらためて書くことにする。(完)
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# by monsieurk | 2017-07-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(21)

 三千代の日記の記述では、彼女たちが平野村に戻ったのは夜になってからで、家に残っていた金子と乾は、正午に放送された玉音放送を河野の家のラジオで聞いた。山間の平野村では電波の状態はよくなかったが、詔勅の内容はたいたい理解できた。
 金子は一九六五年(昭和四十年)に出版した『絶望の精神史』では、「いじめつけられていた時間があまり長すぎたので、「よかった。よかった。」と家人と手をとって、はしゃいでみせたわりに、そのとき湧いてくる格別の感動はなかった」と述べている。ただ三千代が、帰宅した時間が夜十時だったとしているのに、金子は午後四時には戻ってきて、富士吉田や帰り道での様子を聞いたとしている。
 金子の記憶にあいまいな点はあるが、彼はその後しばらくして、一人で湖畔へ携帯式の蓄音機を持って行き、レコードをかけたという。かつて北京で手に入れた程艶秋の「紅払伝」で、「すこしざらざらしたかすれた音が、とぎれようとしては続き、絶えることのない哀傷にみちた独特のかん高い歌声をあげていた。はじめて、はりつめどおしていた心のゆるみから、甘さからは遠い、きしむような悲しみがながれだしてきはじめたが、そんなとき手放しで心ゆくばかり嗚咽をかみしめることなど、すでに忘れてしまっている僕なのであった」(『絶望の精神史』)という。
 三千代はその後も変わらずに日記をつけた。
 「八月十六日
 十二時にラヂオを聞きにゆく。
 宮城前へ人が集ってゐる。
 米英軍は空軍、地上軍へ停戦を命じた。新型爆弾の恐しさを知らせた。
 朝敵機が空を通った。千葉で警報が報じられた。
 ラヂオで敵機が空をとぶが、それは監視のためだと知らせた。
 ラヂオでは国民が聖旨を無にして軽挙妄動しないやうにとしきりにいましめている。(中略) 
 新型爆弾(原子爆弾)が遂に戦争の帰趨を支配した。
 投爆の状況についていふ。
 投爆後たちまち六千メートルの高空風に強度な熱光がみなぎった。地上いちめんに火災が起った。発明に成功したのはウィスラー・グローブ。
 村の一つの流言。
 米兵が上陸して婦女子を辱めるといって戦々兢々としてゐる。(そんなことはあり得ないと説いて聞かせる)

 バーナードショーの言葉。(ラヂオ)
 神でない人間に原子爆弾の残虐を敢えて犯す権利はない。

 汽車の切符は大制限。」
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# by monsieurk | 2017-07-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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