フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第九部(3)

 四月十八日には最初の米軍機が、東京、名古屋、神戸に飛来した。その二日後の二十日、乾が徴兵検査を受けることになった。戦局の悪化で、徴兵年齢が一年繰り下げられたためであった。この日金子は、吉祥寺から本籍のある牛込区役所の検査場まで乾について行った。
 不摂生な生活に精神的な煩悶が加わって、乾の健康は極度に悪かったが、結果は第二乙種合格だった。その下の丙種も合格で、不合格は丁種だけだったが、これは身体に障害があるものか、重度の結核患者くらいだった。これで乾に遠からず召集の赤紙が届くことが確実になった。
 金子は五月五日の節句の日に、詩「さくら」を書いた。

    *
戦争がはじまってから男たちは、放蕩ものが生まれかはつたやうに戻つてきた。
敷島のやまとごころへ。

あの弱弱しい女たちは、軍神の母、銃後の妻。

日本はさくらのまつ盛り。

    *
さくらよ。
だまされるな。

あすのたくはえなしといふ
さくらよ。忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるなかれ。
ちり際よしとおだてられて、
女のほこり、女のよろこびを、
かなぐりすてることなかれ、
バケツやはし子〔梯子〕をもつなかれ。
きたないもんぺをはくなかれ。(「さくら」の第二連冒頭と最終連)

 詩にうたわれているように、女たちはもんぺ姿、男は国民服にゲートル、それに座布団をほぐしてつくった防空頭巾をかぶって防空演習に参加した。働き盛りの男はみな徴兵されていたから、近隣の防空演習の団長は退役した海軍大佐で、副団長には金子が推挙された。
 多くの家が雨戸を閉めて疎開していったが、東京に残って人たちは庭に防空壕を掘った。金子もご多分に漏れず、門口のコンクリートを張った下に、大きな穴を掘って防空壕にしようとしたが、いざというときに役にたつかどうか覚束なかった。
 六月十五日、マミアナ群島のサイパンが陥落して守備隊三万人が玉砕し、住民一万人が死んだ。翌十六日には中国の成都から飛び立ったB29が飛来して、北九州の八幡製鉄所を爆撃した。中国大陸からでは航続距離が北九州が限界だった。アメリカ軍はその後占領した南洋諸島で滑走路の建設をいそぎ、ここを足場に日本全土を空爆するようになる。
 六月十九日にはマミアナ沖海戦で海軍は航空母艦と航空機の大半を失った。大本営はインパール作戦の失敗を認め、作戦の中止を命令した。この作戦に参加した将兵十万人のうち三万人が戦死、戦傷病者は四万五千人にのぼったが、国民には知らされなかった。
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# by monsieurk | 2017-05-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(2)

 この出来事は、近い将来の空襲が必至という思いを抱かせた。さっそくデパートなどで、空襲の被害を知らせる展示が行われ、地方に縁者がいる人たちは、家を閉めたり他人に貸したりして疎開する者が急に増えた。
 「僕たち一家も、どこかへ疎開して、当面の危険から身を外そうか、どういうことになるか、このなりゆきを逐一見聞するために、このままうごかずに吉祥寺の家に頑張っていようかということで、毎日相談したものであったが、結局、居すわることに一応こころを決めた。一家三人の他に女中さんが一人、食糧難と、その他日用物資の欠乏がじりじりと、身に食込んでくるなかで、貧乏人のことだから闇物資を買うといっても多寡がしれたものであったが、こちらから求めないのに二、三、そんなルートができて、ときたま「ブウチャンキタ」などと、電報がきて、銀座まででかけて、豚肉五百匁ぐらいを手に入れ、親しい連中を招んで小さな饗宴をひらいた。「こんなインチキな戦争のために死んじゃ駄目だぞ」と、恫喝できたあの頃の僕らはまだ若かった。」(「疎開のあと先」、『鳥は巣に』)
 
 乾

 息子の乾は暁星中学四年終了で中退し、家でぶらぶらしていた。乾は血液型も金子と同じで、喘息が起きやすいアレルギー体質も遺伝しており運動はまったく不得意だった。
 フランス語教育が伝統の暁星でも、語学の時間は軍事教練に割かれ、ゲートルをうまく捲けない彼は配属将校の標的になった。訓練をサボるために、乾が「見学証明書」を書いてくれるように頼むと、金子は同じものを何枚も書いて印を押した。そして、「これ、硯箱の下に置いておくから、必要な時にぼくに言うんだよ。月日を書き入れてやるから。ぼくの字でないとまずいだろうからと言った。」(森乾「金凰鳥」、『父・金子光晴伝』)
 ある日、乾が校庭で行進の演習をやっていると配属将校が近づいてきて、いきなり拍車の金具のついた長靴で脛をけとばした。銃の担ぎ方が教えられた通りでないとか、歩き方がだらしないという理由だった。
 同級生の前での仕打ちに、乾は恐怖や憤怒、さらには屈辱を感じて身体がひとりでにふるえた。彼は二度と教練に出ない決心をして登校をやめた。身体が悪いと嘘を言って自室にこもり、それから半年ほどは万年床にもぐって本ばかり読んでいた。
 そんな一人息子を三千代は叱責した。彼女はそもそもこの戦争の善悪について、態度を決めかねていた。日本が仏印進駐をはじめると、アメリカ、イギリスはA・B・Cラインと呼ばれる石油禁輸の包囲網を敷いて、日本の自滅をはかった。百年前からアジアの国々を植民地化し、搾取している白人の大国に、同じアジア人として日本が挑戦するのは無理からぬことで、彼女が眼にしてきたイギリス領マラヤやオランダ領インドネシアから、白人たちを追放したことは痛快なことに思われた。これは当時の作家の多くが抱いた率直な感想だった。
 そう考えると、昼と夜をとり違えたような生活を送っている息子を見るに不安になり、息子を平気で放っておく金子のやり方に我慢がならなかった。
 「「もともと父ちゃんが悪かったのよ。何でも裕(乾)の言うままに放っておくから、こんな仕様もない子に育ってしまったのよ」
 「いや、あんたがいかん。そういうスパルタ教育はぼくは大きらいだ。こういういやな時代だ。ぼくが若者だったら、やっぱり裕のようにするね」
 と晴久(光晴)は眉間に青筋を立てて、裕をかばった。」(森乾「金凰鳥」、『父・金子光晴伝』)やがて乾は学校へ行かなくなり、卒業まで一年を残した四年修了時終了時で退学して、家で本ばかり読んでいた。
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# by monsieurk | 2017-05-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(1)

山中湖畔の日々

編集者の逮捕

 一九四四年(昭和十九年)になると、戦局は明らかに不利になった。大本営は一月七日、インパール作戦を認可し、十八日の閣議で緊急国民勤労方策要綱を決定。二月になると、アメリカ軍はマーシャル群島のクエゼリンとルオットの二島に上陸し、激戦の末に両島の日本軍守備隊六八〇〇人が玉砕した。
 政府は二月十八日の閣議で緊急国民勤労方策要綱を決定し、言論への締めつけが一層厳しくなった。そのあらわれが、一月二十九日に起きた「横浜事件」だった。これは「東京を中心とする三十余名の言論知識人が横浜地方検事局思想検事の拘引状を携えた神奈川県の特高警察吏によって検挙投獄された事件の総称であり、被検挙者の所属は研究所員や評論家を含めた主として編集者よりなるジャーナリストであったところに特長があった。」(美作太郎「軍国主義とジャーナリズム」、『現代ジャーナリズム論』)である。
 このとき逮捕されたなかに、中央公論社の編集者、畑中繁雄も含まれていていた。畑中は一九四一年には雑誌「中央公論」の編集長に就任したが、四三年には軍部の圧力で辞任し、事件に巻き込まれたときは調査室員だった。
 畑中の逮捕理由は、マルクス主義者細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」(「改造」八・九月号)が共産主義の啓蒙を意図したもので、彼が主宰する共産党再建を話し合う会合に参加したというものだった。被疑者たちは警察で拷問され、虚偽の自白を強要された。
 畑中の逮捕は金子は衝撃をあたえた。弾圧が具体的な姿をとって身近に迫ってきた感じだった。
 二月中旬、東京都はビヤホール、百貨店、大きな喫茶店などを利用した雑炊食堂を開設した。さらに東京と名古屋には、防空法にはもとずく最初の疎開命令が出され、指定された区域内の建物を強制的に接収し、それを壊し防火のための空間をつくる作業がはじまった。
 横浜事件が起こった二月二九日には、東京の歌舞伎座や東京劇場、大阪の歌舞伎座、京都南座など全国十九の劇場に対して休場の命令が出され、三月五日から実施された。
 金子の身辺ではこんなことがあった。三千代が用事で丸の内に出かけたとき、東京の上空に米軍機が飛来した。これは爆撃のための試験飛行だったが、彼女が頭上を通過する米軍機を見上げていると、ハイヒールになにかがぶつかった。よろめいて傍らの並木の柵につかまり、辛うじて倒れるのを免れた。
 家に戻ってハイヒールを見ると、踵に小銃の弾が一つ食い込んでいた。米軍機は爆弾こそ落とさなかったが、機関銃の掃射の小手調べをしたらしかった。この日の米軍機飛来は動揺をおさえるために発表されなかったが、ハイヒールから取り出した弾は金子の家にずっと保存されていたという。
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# by monsieurk | 2017-05-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(8)

 作品発表の場を奪われたにもかかわらず、経済的には比較的安定していた。売れっ子となった三千代の稿料を当てにしなくても、モンココの給与に加え、菊地克己の口利きで宣伝部の嘱託となったミノファーゲン製薬本舗からの収入があった。ミノハーゲンは宇都宮徳馬が一九三八年に設立した会社で、宇都宮は旧制水戸高校時代にマルクス主義に傾倒し、京都大学経済学部では河上肇に師事して社会科学研究会に所属した。一九二九年に治安維持法違反で逮捕され、獄中で転向を表明したが、出獄後は軍需企業の株で大金を握ると、これを元手に製薬会社を設立した。事業に成功した宇都宮は、閉塞を余儀なくされている文化人の支援を惜しまなかった。金子も支援を受けた一人で、それらの金を岡本潤など困窮している詩人にまわした。

 「マライの健ちゃん」

 十二月になって、大阪から上京した小野十三郎とともに、同じく作品発表の機会を奪われた、秋山清、岡本潤、壺井繁治、植村諦が吉祥寺の家を訪ねてきた。
 植村は本名を植村諦聞(たいもん)といい、仏教専門学校の出身で水平社運動や朝鮮独立運動に加わった経験があった。秋山や小野と「弾道」や「詩行動」で活動したが、一九三五年に逮捕されて以降以来十年間も獄中にあった。皆が顔を合せるのは久しぶりで、中野重治にも電報をうったが、中野が来たのは彼らが帰った後だった。
 金子は暮れになって、少年向けの絵物語『マライの健ちゃん』を中村書店から出版した。初版の三万部でよく売れた。戦後、抵抗詩人として金子の評価が高まるなかで、この絵本や、先に触れた翻訳、『馬来』や『エムデン最後の日』をもとに、日本の東南アジア侵攻に反対した金子が、この時期に変節したとの批判がなされた。
 『マライの健ちゃん』は、医師としてジョホールのゴム園から招へいされた父についてマライ〔マレー〕に行った健ちゃんが、現地の少年と親しくなる様子を、その自然や風土を背景に描いたものである。
 櫻本富雄は、「ゴムはみんな大東亜共栄圏でとれるんですね」という健ちゃんの発言を取り上げて、大東亜共栄圏を肯定するものと批判し、鶴岡善久は、日本人学校で学びたがったり、日本語を学ぼうとするマライの子どもを、勤勉な少年だと評価するのは、占領地での日本語の強制を肯定するものだと論じた。
 『マライの健ちゃん』はA5判五十ページの本で、金子の文章とともに七十八点の挿画がついている。最初は挿画も最初は金子が描いたが、出版社の意向とあわず、神保俊子が描きなおしたものである。たとえば冒頭に近い十二頁の、健ちゃんが船着き場に着いた場面では、本文は「船つきばには、ゴム園のをぢさん達や、荷物をもつマライ人の下男たちがむかへにきてをりました。 / お父さんやお母さんは、そのをじさん達と、ごあいさつをしてゐました。
 「よく来たね。これからはをじさんとお友達になるんだよ。」
と、頭をなでてくださるをじさんもあります。」とあり、これに二枚の挿画が添えられている。大きな一枚は、挨拶をかわす父母と出迎えの日本人に交って荷物を下げて、日の丸の旗を持つ現地人が描かれ、もう一枚では、日の丸を持った健ちゃんが出迎えたおじさんと言葉を交わしている。こども向けの絵本では文章以上に、神保俊子の絵が強いインパクトを持っている。
 金子は絵本をつくるにあたって、なぜマレーを選んだのか。彼にはベルギーやパリで感じた疎外感から、西欧列強に収奪されるアジアの人たちへの共闘意識があり、ある種のアジア主義を抱いていたことは前にも述べた通りである。「大東亜共栄圏」が日本の軍国主義が唱える建前であるのを承知のうえで、東南アジアの解放を夢見たのだった。金子は戦後になって、「詩人の僕は、今日でも東南アジア民族の解放と、人種問題と、日本人の封建性の指摘と、戦争反対の四つの課題に創作目的の重点をおくことにしている」(『日本の芸術について』)と述べている。
 金子のなかでは、東南アジア民族の解放は戦前戦後を通して一貫したテーマであった。ただマレーを舞台にした健ちゃんの物語が、挿画とともに子どもたちにどんな影響をあたえるか。戦争に反対する詩の発表を自ら封印した金子が、『マライの健ちゃん』では、時勢に妥協したという指摘には理由があった。
 一九四三年九月以降、すべての出版書籍が日本出版会の審査を通る必要があり、不承認件数が三十パーセントを越えていた。『マライの健ちゃん』と同じ月に出版された『大東亜戦争絵巻 マライの戦ひ』(岡本ノート株式会社出版部)の巻末には、陸軍報道部の山内大尉なる人物が書いた「監修にあたりて」が載っているが、そこでは、「未曽有の決戦下に於いての幼児や児童に対する教育は慎重に考へなければならぬ。特に国家観念の正しい認識は将来帝国の盛衰を左右する重要事項であつて日常の無邪気な生活の内にこれを正純に植付ける事が必要である」と述べられている。『マライの健ちゃん』はこうした時勢のなかで発行された。金子の絵本も結果として、この当局の指針に沿った形で世には出されたのだった。
 金子は「戦争に就いて」(「コスモス」一九五〇年二月号)で、「戦争に協力しなかったということを僕の名誉のように押しつけるのは少々困りものだ。それが僕の不名誉だった日々の長さの無限をしか考えられなかったことを誰もが忘れているわけではないと思うと、白々しさしか感じられない。僕らのうえに英雄のいることも、僕らが英雄になることも望むことではない。僕が、反戦詩を街頭に立って読みあげなかったことで、僕は戦争に協力していたと同じだったのだ。戦争に加担しなければ生きていられなかったのだ」と書くことになる。
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# by monsieurk | 2017-05-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(7)

 第二次「疎開詩集」

 金子が河邨文一郎に、詩集の二度目の疎開を頼んだのはこの年の十一月である。河邨は次のように紹介している。
 「昭和十八年十一月のある夜、吉祥寺で金子さんは私に、第二次の「疎開詩集」をもちかけた。その目次は次の通りである。

 ★詩集「熱帯詩集」
 ニッパ椰子の唄(a) 洗面器(a) おでこのマレイ女に(a) ボイテンゾルフ植物園にて(a) 無題――シンガポールにて 月光不老旗 馬拉加(a) ――シンガポール羅衛門にて ――シンガポール市場にて 映照 MEMO――序詞のための 街 緑喜(改題「のぞみ」) 無題(a) 牛乳入珈琲に献ぐ(a) 女たちへのエレディ 混血論序詩 ボロブドール佛蹟にて 芭蕉 無題 どんげん 雷 エスプラネードの驟雨 孑孑の唄
 ★詩集「真珠湾」
 第一部 真珠湾(a) 湾 天使(b) 落下傘(a) いなづま(b) 洪水(b) 犬(b) 北京(b) 八達嶺で(b) 弾丸(b) 屍の唄 甍 太沽バーの歌(b) 新聞(b)
 第二部 鬼の児誕生(b) 鬼の児放浪 ふく毒なし 疱瘡 風景(b) (でこぼこした心のなかみが・・・欄外メモ) 瘤 地獄 鬼 戀(a) (おぼろめく夕闇に・・・欄外メモ) 海 無題(a) 緘 奇蹟 骸骨の歌(a) 冥府吟
あとがき

 目次にのみあってノートに記載洩れのもの。
 第一次詩篇にすでに書かれ、第二次には記載洩れのもの。」(「こがね蟲」第四号)

 河邨によって筆写された「疎開詩集」は、一九九四年になって、そのファックシミリ版が雑誌「こがね蟲」第八号に発表された。それによると、「真珠湾」の第二部に収められている「鬼の児放浪」は九月三日につくれれたもので、その最後は次のようになっている。

「鬼の児は いま、ひんまがった
じぶんの骨を抱きしめて泣く。
一本の角は外れ
一本の角は笛のやうに
天心を指して嘯く。
「鬼の児は俺ぢやない、
おまへたちだよ。」」

 そして「疱瘡」は――

「――十年のあひだえんぜるはみ下してゐた

十年のあひだ、天地は疱瘡を病んだ。
十年のあひだ、瓦礫がこげ燻るつてゐた。
十年のあひだ、鬼の児をのぞいて 心をもつてゐる
 ものはなかつた。
人と鬼どもからまもるその心を。

鬼の児よ。 はぢけた柘榴(ざくろ)。――十年のあひだ 人
 は殺しあふ夢しかみなかつた。」

 最後の「冥府吟」の日付は十月二十日で、詩集の跋文として用意された「あとがき」は、次のようになっていた。
 「主として戦争中に作られた詩篇をあつめたもの。この時代の困難のために、この詩集は日のめをみないだろう。詩集は朽ちるかもしれない。しかし、詩集にある魂はくちないだろう。それは作者の天稟のためではなく、この魂は人間がみな抱いている真実だからだ。いつかまた人は自分をふりかえる時がくるだろう。それはもはや文学だけの問題ではない。人間の名誉の問題だ。  著者」
 ここには皆が戦争に引きずられていく時代への怒りと、それに一人で立ち向かう覚悟がこめられている。 
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# by monsieurk | 2017-04-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)