ムッシュKの日々の便り

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男と女――第九部(20)

 八月十一日、モンココから為替と家屋税の通知が届いた。この日は少量のいかの塩辛と、主食として米二キロ、玉蜀黍八キロが四人の九日分として配給があった。
 四日後、敗戦が突然やってきた。金子光晴はこの日の記憶を幾つかの著作で書き残しているが、戦後もっとも早く出版された『詩人』の記述では、次のように簡単に書かれいる。
 「富士吉田まで行った女連中がかえってくると、吉田の町は粛然(ひっそり)として、ふだんと様子がちがうので、きいてみると終戦とわかった。天皇のかなしげな声がラジオできこえたといった。河野の家からもそのことを知らせてきた。
 僕らは、蓄音機でセントルイス・ブルースをかけて、狂喜のあまり踊りまわった。なにごとかと、宿屋の人達がのそきにきた。
 村人たちは頑迷で、なかなか敗戦の事実が信じられない様子だった。」(『詩人』)
 この日、女たちが富士吉田まで行ったというのは、三千代と美代が日用品の調達に行ったのである。三千代のもう一つの目的は、前年十月から富士吉田に学童疎開に来ていた武田麟太郎の二人の子どもに会うことだった。
 「八月十五日 晴
 五時起き。吉田へ出る。七時空襲警報のためバスが早く出て間に合はす。十一時頃やっと二番に乗る。駅で遺骨の迎に出会はす。町の様子が変ってゐて人通りがなく各家の中で人々はお通夜のやうに静かにかたまってゐる。
 ラヂオが悲しげな曲を送ってゐる。立ち止まってラヂオに耳を傾け、共同宣言受諾、聖旨による戦争中止を知った。時局の激変に茫然となる。方途のつかない気持だ。
 みよやを相手にむやみに喋りながら目的の松風荘をたづねた。武田氏の坊っちゃんはもう御両親のもとへ縁故疎開されたときいた。疎開先を教はり持ってきた牡丹杏を先生にといっておいて出る。
 もう空襲は来ない。さう思ふらくな気持で町を歩いてゐる。人の通ってゐない町。家々ではどの家でもラヂオに集ってゐる人の姿だ。
 塩野屋へ寄る。――くやしいぢゃありませんかと、小母さんは慨嘆する。お茶をもらってもろこしだんごのべんとうを使ふ。この間の大月の空襲で息子が手首をやけどしてきた話を聞く。八月のお盆で奥に仏壇をまつってあるのがみえる。いゝ花もないし、まんだらも飾ったが焼けるといけないのでよそへ預けたといふ。バスの故障で帰のバスの切符を買ひそこねる。
 運転手、女車掌、切符買いの若い娘達が今日の出来事にさまざまな感想をもらしてゐる。
「日本人ってこんなだらしないものなのか」
「最後までがんばりゃよかった」
 大衆はいつでも無責任なことしか言はない。
「――日本が印度になることですよ。」
 と壮士風な青年が話しかける。
 梨ケ原をさして帰途につく。自転車の武ちゃんに会って手の荷物をつけてもらふ。山中へ帰る百姓のおかみさんと道づれになる。
 長池の道は長かった。四日位の月が出たり入ったりする。朝鮮人の酔払ひの群とあちこしで出会ふ。
 吉田では警備についてゐた兵隊はもう毛布をまいて鍋釜をはこんでどこかの本隊へ帰っていってしまったといふ。闇の湖上で兵隊が舟を出して釣をしてゐる。
 十時に帰宅。
 食事、入浴の後、捨子さんの家でかんてんをごちそうになる。」
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# by monsieurk | 2017-07-02 22:00 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(19)

 三千代はもともと身体が丈夫で活力にあふれていた。疎開先ではやがて書こうとしていた小説の構想を練るほかに、家事や農作業を精力的にこなした。乾が書いているとおり、三人は呼吸のあったチームだった。
 「八月八日 晴
 胸掛式のズボンのミシン掛けをしてくる。捨子さんのところで。
 光晴とみよやとでそばかきをほゞ了へる。うちにゐて風呂を焚きつける。
 三時半頃空襲警報で編隊が空を翔ぶ。こんな時間に空襲はめずらしいことだ。いままでにあまりないことだった。
 今日来た新聞が言ってゐる。敵、制空へ野望露骨と。沖縄の航空基地強化に狂奔する敵は同方面にB29を主力として約六百機内外の航空力を保有し、九州に連日の二、三百機戦爆連合の攻撃。これに呼応してマリアナ基地のB29、硫黄島のP51は中部以南に対して殆んど連日来襲、執拗な中小都市の焼夷攻撃を始め、軍事施設、飛行場、交通機関の破壊を狙ふと共に市街地に対して機銃掃射をなす言々。(八月八日新聞)(中略)
 もう一つの新聞の記事。
 B29少数機広島へ来襲、新爆弾を投下して、相当の被害を生じたと。新型爆弾とはどんなものだらう。(中略)
 夜、平野屋一家を湯によぶ。明日の義勇隊の式にゆく胸の標章の字をたのまれて書く。」
 翌九日、朝七時に戦闘義勇隊の発会式が天満宮の境内であった。みよやが出掛けて行った。お三時に芋粥を食べていると、隣の捨子が来て、ソビエトが宣戦布告し、満州の北方と東方に機動部隊を動かし、主要都市を空爆したとラジオが報じたと知らせてくれた。
 「八月九日
 胃痛と肩凝と腕のいたみで昨夜は眠れず。眠れないので蚤で悩んだ。
 八畳はもう一週間も掃除しないでほこりがかたまりになってゐる。蚤がゐるのもそのためだ。掃除をと言ひ出すと光晴と坊やが反対した。言ひ争ひになる。
 隠者のやうに暮してゐる坊やは部屋を千年でもそのまゝにそっとしてゐたいのだ。その気持がわからないのではないがこっちもそれでは困るので、なにしろ狭い家だから坊やの言分ばかりも通してゐられない。光晴は坊やの肩を持ち、二人が敵で型の如き喧嘩だ。みなの気分がうっくつしてゐるので一寸きっかけがあるとたちまち火花が散る。その火花はあらぬ方へまでいってはぢく。
 このやうな生活では絶対の忍耐が必要なのだ。
 いたはること、許すこと、慰めてやること、これを持って暮してゆくことが出来るやうに自分にかたく言ひきかせる。」
 「八月十日
 ソビエットの今度の宣戦布告については一般への打撃が大きかった。どんなに我国の人達がソビエットに期待してゐたかゞ今更わかったやうな有様だ。
 もううまいものをなんでも食っておくのだと言ふ人達。
 百姓したってつまらないといふ百姓達。
 新型爆弾に対する恐怖が大きい。
 爆風が横だけでなく垂直圧力を持ってゐて爆発力がひどく強い。高熱度で皮膚などふらんしてしまふと新聞で報じてゐる。
 以上の二つの話題が人々の語り草になってゐる。」
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# by monsieurk | 2017-06-29 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(18)

 七月二十九日には河野が借りている家で句会が開かれた。三千代は一等賞を獲得して、龍渓の硯一つをもらった。彼女が詠んだ句は次のようなものである。

  祭
夏草に獅子の腹這ふ村祭     三点
隣の子笛吹きにゆく夏祭      二点
遠太鼓               二点

  茄子
初茄子のつや新しき朝の土      一点
しぎ焼きの茄子ほっかりと夕餉かな 一点
茄子紺の茄子に止まれりきりぎりす 一点

  夏の雲
敵機一つたちまち夏の雲の中    一点
夏草の野は静かにて雲の峯     三点
湖べりを木の間木の間の夏の雲   二点

湖と赤い別荘夏の雲        乾

 八月になった。山中湖畔でもようやく夏らしい暑さが感じられるようになった。三千代の日記。
 「八月三日
 起きて六畳の部屋掃除。光晴と乾の洋服類を出して縁先の綱に虫干しする。食事。四個の防空頭巾をほどいて洗濯。
 畑を見まはる。風呂の水汲を手伝ひ、漬物桶の蓋をつくる。木片を集めてのこでひき、八角形の蓋をつくり上げた。少々読書。
 そば畑の木を切りにゆく。稍々完成。
 四時頃の日暮時前をめがけてかぼちゃに追肥する。食事。
 先日つくったこたつ蒲団の裏布(火のあたるところ)をつけ、白シーツのボロボロを繕って、二つを一つにして役立てる。
 夜中三時就寝。」
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# by monsieurk | 2017-06-26 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(17)

敗戦

 体調が悪く東京にとどまっている須美が、六月十八日に亡くなったという知らせが届いた。
 「義母が死んだと言うので、僕は、そのあと始末をするつもりで上京してみると、もはや夏にかかろうという季節で、屍体を幾日も置いておくわけにはゆかないということで、となり組の秋月という、世話役の中年婦人が、どういう手蔓か、義母を焼いて骨になって、大きな骨壺に入って床の間に置いてあった。骨壺のふたをあけてみると、日頃大柄な人だったが、馬の骨のように大きな骨がいっぱい入っていた。」(『鳥は巣に』)
 幼くして養子となって以来、義母との関係は紆余曲折があっただけに、感慨もひとしをだった。金子はかなり重い骨壺を抱いて平野村に戻った。
これ以降の平野村での生活ぶりを三千代の日記を中心に追ってみることにする。
 「七月十八日
 しばらく日記を怠けてゐるうちに、世相は慌しく移り人々の上にもいろいろな変化があった。
 昨日で田舎のお盆がすんだ。
 ながいうっとうしい雨だった。雨もりになやんだ。毎夜の鼠さわぎ。(中略)十一日に捨子さん達が河口から移転して来た。
 この日の朝、村へ憲兵が米を調べに来たといふので大さわぎだった。(中略)今日七時のラジオの報導〔ママ〕を捨子さんが話しにきてくれた。
 今日は戦爆連合で五〇〇機が茨城、群馬、栃木方面を空爆。二五〇機が横須賀を襲った。昨夜十一時から一時間水戸市が艦砲射撃をうけた。
 昨夜ははじめてドロドロといふ爆音が聞え、障子や建具が振動した。そのあとドーンドーンといふ大砲らしい音が地ひびきして聞えた。それだったのだ。関東海域に機動部隊が来てゐるさうだ。この前北海道方面へ行ってゐたのがこっちへやって来たのだ。
 今日は朝から東海地区の海岸方面は空襲警報で、あとで聞くと昨夜は国府津、平塚が時限爆弾でやられたともいふ。」
 東京を離れて河口に疎開していた河野密、捨子夫妻が、最初の予定通り平野屋のもう一つの貸家にやってきた。河野は古株の議員だったし、議会は戦時でも開かれていたから、その度に上京しなければならなかった。金子は河野に、命がけで終戦を提案してみるように勧めた。すると隣の家から捨子が飛んできて、「兄さんは、うちの主人を殺すつもりか」と凄い剣幕で文句をいった。戦局は一段と厳しくなっていたが、空襲のない平野村では、毎年のような日常が続いていた。
 「七月二十三日
 村祭。
 ゆうべは宵宮で天満宮では今年おかぐらをかつぐのを若い衆が躍起となって主張してゐることをその朝聞いてゐたので、出掛けて景気をみようと思ひ立って外へ出たが、空にはおぼろ月があるのに時雨がやってきた。一寸考へて止めにした。(中略)
 本日十一時頃、警戒警報のサイレン聞こえる。一度消した電灯を光晴はすぐつけた。その途端に爆音らしい音が聞えてまた消した。爆音はつづけて鳴ったがそのあと静かになった。へんに近い爆音だった。電灯をつけるつけないで言い争ふ。
 灯火がもれていないか光晴が外へ出て見まわりにいってさかんに大丈夫だという。
 私も外へ出てみた。富士の方に稲光りがして雷鳴がとゞろいてゐるのだ。捨子さんが寝巻のまゝやって来た。甲府の時丁度こんなだった。稲光りのやうだったのは焼夷弾だった。でも若しさうなら空が赤い筈だといふ。しばらく暗やみの草の中で三人で様子をうかゞったが、やはりかみなりらしいといふことになった。
 寝つこうとすると今度は鼠がどこかをかじり出した。米の箱らしい。一騒動の後、やっとほんとうに眠る。」
 この夜の騒動のことだろうか、乾が「金鳳鳥」のなかで、こんな逸話を披露している。
 「夜中に例によってコタツで裕〔乾〕が読書していると、上空に編隊の轟音がきこえた。
 「敵の飛行機よ。電燈に風呂敷ぐらいかぶせなさいよ。敵の目標になるわ」
  と初美〔三千代〕が声をあげた。すると晴久〔光晴〕は、癇癪玉を破裂させてどなった。
 「そんなことどうでもいいじゃないか!」
 「そうだよ。どうせ死ぬんだもの、アメリカの飛行機に爆撃されて死んだほうがはるかに気持が助かる」
 と裕は父親の肩をもった。
 「いやよ、あたしそんな考えかた。それじゃ何のために疎開して、こんな苦労しているのかわからないじゃないの」
 初美にも晴久父子の言うことが理解できないわけではなかった。しかし感傷にふけってばかりはいられなかった。ともかく一日一日何とか生きてゆく以外ないし、そのためのこの苦労なのだからと思った。」(「金鳳鳥」)
 乾によると、珍しく激昂した金子が炬燵の上の台を拳で叩いた拍子に、乾が鉛筆を削るのに使った肥後守が開いたままになっていて、それで小指を深く切ってしまった。三千代が血止めの薬を塗って事なきを得たが、傷痕が残った。三千代も日記に、「夜、光晴小指を過って深く切る。手当に大さわぎする。深夜敵機の通過さかんなり」と記している。
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# by monsieurk | 2017-06-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(16)

 金子が戦後に出版される詩集『落下傘』に発表する絶唱「寂しさの歌」を書いたのは、五月五日、端午の節句の日である。

    一

どこからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出したやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

糸のやうにほそぼそしたこゝろからか。
そのこゝをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。
・・・・・・・・・

    二

寂しさに蔽はれたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

山のいたゞき、峡間を消し、
湖のうへにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしてゐる。

あとから、あとから湧きあがり、閉す雲煙とともに、
この国では、
さびしさ丈がいつも新鮮だ。

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。
・・・・・・

うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠歎をこめて、
いまになほ、自然の寂しさを、詩に小説に書きつゞる人々。
ほんたうに君の言ふとほり、寂しさこそこの国土者の悲しい宿命で、寂しさより他になにものこさない無一物。

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあわせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗膳に坐ることだ。

そして、やがて老、先祖からうけたこの寂寥を、
子らにゆづり、
樒(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。
そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恒の末の末までも寂しさがつゞき、
地のそこ、海のまわり、列島のはてからはてにかけて、
十重に二十重に雲霧こめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐(わか)れに、
いつもみづみづしい山や水の傷心をおもふとき、
僕は、茫然とする。僕はなえしぼむ。
・・・・・・・

小学校では、おなじ字を教はつた。僕らは互ひに日本人だつたので、
日本人であるより幸はないと教へられた。
(それは結構なことだ、が、少々僕らは正直すぎる。)

僕らのうへには同じやうに、万世一系の天皇がいます。

あゝ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いに似てゐることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。

     四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさが釣出しあつて、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさとなつて。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まつくらになつて、腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまい酒で酔つてすごさうとする。
エゴイスムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のやうに、
つながつて配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになつてゆく人人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまつた、ふかい寂しさを僕はまだ、生れてからみたことはなかつたのだ。
しかし、もうどうでもいゝ。僕にとつて、そんな寂しさなんか、今は何でもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界おいつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。

                    昭和二〇・五・五 端午の日

 金子はひと月に一度ほどの割合で上京した。体調のよくない義母須美が残っていたからである。雪がとけ、木炭バスが通るようになって、金子と乾は一度だけ名古屋まで旅行した。目的は次兄にあって、彼が社長をつとめる飛行機工場に、乾を名目だけの事務員に登録してもらうためだった。徴兵は免れたものの、いつ徴用されるかわからず、それを防ぐためだった。
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# by monsieurk | 2017-06-20 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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