フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第七部(22)

 アンコール・ワット

 サイゴンを朝六時に出発してアンコール・ワットに向けて出発したのは、三月になってからである。
 「近頃はガソリンの入手が非常に困難なので、サイゴンからアンコール・ワットまでの往復千三百キロの自動車旅は、よほどよい機会でもないと果されなかった。軍のトラックにお願して便乗させていたゞくつもりでいたがフランスのツーリスト・ビュローのハイヤーをサイゴンのA商会が斡旋してくれて、同行五人で出掛ける事になったわけだった。サイゴン大使府の佐藤領事からA商会に話があつたからだった。同行者は、芳澤大使の息子さん、A商会のI社員さん、軍属の人二人、それに私、五人とは、そうした顔ぶれである。
 時節柄手荷物は出来るだけ少なくして、小鞄一個づつだった。私は、水筒の水と、ボンボンを用意して来た。ボンボンを皆にまわして分けあつたり、水筒のなまぬるい水でのどをうるおしたりして、ほこりっぽい、のどのいらいらをしづめた。」(「アンコール・ワットへの道」)
 出発して五時間、メコン川の渡しにさしかかった。雨季には氾濫する大川に橋はなく、人も車も船橋にのせて川をわたす。その船橋は発動機船が引っ張って行くのだが、燃料は薪で、両岸に薪が一杯積み上げられていた。カンボジア人の労働者が薪を船に積み込むのに時間がかかり、その間、肌は太陽に焼かれ、汗が絶え間なくふきだしてきた。ようやく川を渡ると、やがてコンポン・チャムの街にはいった。
 ここは緑の芝生や美しい花壇に囲まれた、フランス風の卵黄色に塗られた瀟洒な家並が続く、清潔で閑散とした街だった。ちょうど午睡の時間で人通りもまれだった。
 街中のホテルに車を乗りつけて遅い昼食をとった。太ったマダムが出してくれたフランス料理は、思いがけず美味しかった。ここでガソリンを調達し、コンポン・トムを経て、サイゴンからおよそ十二時間でアンコール・ワットの遺跡の門前町シェムレアプに到着した。かつてピエール・ロチはメコン川のジャングルを遡り、サイゴンから五日かかった道のりを、坦々としたアスファルトの道を車を走らせて、十二時間で着くことができた。
 「シェムレアプは、森の中の静かな町だ。
 まったくフランス風なホテル・グランドで一泊した翌朝、いよいよ待望のアンコール見物をすることになった。前の晩、ホテルのテラスから、ジャングルを越えて菫色に五つの塔を夕闇の中に望見した。金色の星さえきらめき出してそれは、なにか神秘な宝石箱が、遠くかすんだ真盛りの花盛のように思われた。
 数年前、私は、巴里に居た頃、ヴァンサンヌ〔ママ〕公園で開催された植民博覧会を見に行った。植民博覧会のみものは、アンコール・ワットの原寸大の一部の模型だった。コンクリでつくった浮彫りの型が、まだ一部分出来上らずに、草のなかに投げ出されてあった。ほこりっぽい博覧会場の空高く、その夢のような石の宮殿が浮上っているのを見て、生涯に一度は、アンコールを訪ねてみたいという、あこがれに似た願望にかられたものだった。(中略)
 胸をときめかすアンコールの五つの塔が、朝日に染まって、行手の空に乗り出しながら、こちらへ向って近づいてくるように見える。それは、大きな牡竹筒に似た形をしている。この五の塔の建物は、即ちアンコール・ワットで、このアンコールの廃墟のうちで、いちばん構成の整った一画である。」(「アンコールを見る」)
 三千代はハノイを発つ前に、観光局長のラクロンジュからアンコール遺跡保存局長セデス宛ての紹介の名刺をもらってきていたが、早朝のことであり、彼を煩わすことなく、フランス語と英語ができるという利口そうなカンボジア少年を案内に雇って遺跡を見てまわった。
アンコール・ワットもアンコール・トムも、その他の散在する多くの石の建造物も、かつて大森林の侵蝕をうけて森林の中に埋もれていた。これを植物の下から掘り出したのはフランスの極東学院の仕事で、フランスが誇るに足りる業績だった。植物の生育する力は想像を絶していて、いまでもしばらく放置すると、堂塔伽藍はたちまち森林に埋もれてしまい、絶えず手入れをしなくてはならない。三千代は金子とともにジャバのボルブドールの石の曼荼羅を見たことがあったが、結構の雄大さにおいて、アンコール・ワットは遙かにそれをしのいでいた。
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# by monsieurk | 2017-03-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(21)

 サイゴン

 三千代が乗った汽車は三月一日にフエを発って、予定より四十分遅れてサイゴン駅に着いた。サイゴンのホテルはどこも満員だったが、佐藤領事がカチナ通りのホテル・コンチネンタルを予約しておいてくれた。ホテルへ行ってみると、前夜の宿泊客の荷物がまだ部屋に残っていたが、そこへ鞄を入れて食堂で食事をとった。三月のサイゴンは真夏の暑さだった。
 滞在は四、五日の予定で、そのあとアンコール・ワットに行く計画だった。さっそく大使府へ行き、内山公使や蓑田総領事に挨拶し、アンコール・ワット訪問について助言を頼んだ。陥落間もない昭南島(占領後シンガポールはこう呼ばれた)へもぜひ行きたいので、援助してほしいと伝えた。
 昭南島行きを強く望んだのは、第十六軍の宣伝班員として南方に来ている武田麟太郎との再会を期待してのことだったかもしれない。二人は知るよしもなかったが、武田は二月十一日の紀元節を洋上で迎え、間もなく仏印中南部のカムラン湾に入港し、そこで時間待ちをした。これが二人が一番接近したときだった。
 武田が乗船していた輸送船団は、十五日のシンガポール陥落の報を聞いたあと、十八日未明、カムラン湾を出航して南下し、月末には目的地であるジャワ島に着いた。
 三千代が大使府での挨拶を終えてホテルへ戻ってくると、午後三時すぎのカチナ通りは人出が多くなっていた。熱暑のサイゴンでは、フランス人も安南人も中国人も、みな午睡(シエスタ)をとるから、午後の初めは人通りがなくなるのである。
 この日の午後は、アンコール・ワットに同行する芳澤大使の息子と打ち合わせ、夕方には、ポワン・ド・ラ・ブラーグル(おしゃべり岬)で観光局の山口と会い、月を見ながら歓談した。ここはサイゴン川がショロン運河へ分かれていく地点にある三角州で、船の形をした酒場があった。対岸の椰子林から上った月が、大小の船が川面に影を落としていた。
 船の多くはショロンの精米所から米を積むサンパンで、米はショロンの華僑が一手ににぎっていた。後日、サイゴンの中心から西におよそ六キロのところにあるショロンの精米所を、三菱商事支店長の鈴木や社員の西方に案内を頼んで見学した。
 ショロンは人口からいえば仏印第一の地域で、人口は二百万だが、人頭税を逃れている者を含めれば三百万はいるといわれていた。

 「ショロンの米蔵(Magazin de riz à Cholon)」

米は蔵を一杯に満たし
ごうごうと音をたてている。
精米機にかけられた米は
粒にされ、
選別され、
走り、崩れ落ち、噴出し
そして白く輝く
山となって現れる。

ショロン、それは
米の山
米の谷、
米の奔流、
米の洪水だ。

東方の民を太らせる
食糧
沢山の子どもたちが
大きくなるために
小雲雀のように
丸い口をあけて
米をほしがる。
沖合でも
山の彼方でも

メコンのデルタの残りの米は
アジアを太らせ、
アジアの様相を変え、
アジアの心を輝かせ
アジアの人びとの頬をつやつやと光らせる。

苦力に運ばれた米袋の
腹に鏝を差しこみ、
私は米を手に取り
掌のくぼみにのせる。

私は一粒一粒のエネルギーを
ぎゅっと握りしめる、
米粒は不思議な力をもっている、
それは人びとや、投資家を走らせ
考えさせ、創造者にする。(原文はフランス語、”POĒSIES INDOCHINOISES")

 ショロンとは安南語で大市場の意味で、メコン・デルタで生産される米は、みなここに運ばれてきた。仏印全体の米の収穫高は六百万トンで、そのうち輸出されるのは百五十万トンないし百八十万トンといわれ、仏印の米は三井が、タイの米は三菱が取り扱っていた。これらは日本をはじめ東南アジア諸国に輸出されて、アジアの人たちを養っていたのである。
 三千代は風物や自らの心情だけでなく、こうした現実を見逃さずに詩によんだ。彼女のうちには、かつて旅した各地で目にしたアジアの民衆の姿が浮かんでいたに違いない。 
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# by monsieurk | 2017-03-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(20)

 別の日の小雨がそぼ降る夕暮、小説『安南の愛』の著者の阮進朗(グエンチュンラン)やヴィエアン中学校の若い校長で、『若い安南』の著者、陶登偉(ダオダンビイ)の招待で、香河に舟を浮かべて語りあった。後日、文部大臣兼宮内大臣の芒瓊(ファンキン)とも会う機会があり、教養ある安南貴族の奥ゆかしさを知ることができた。
 三千代にとって香河での舟遊びはじつに感慨深いものだった。詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)に、詩篇「香河の夜の舟遊び(Canotage nocturne sur la Rivière des Parfums)」を載せている。

香河のうえを
舢板(サンパン)が滑っていくのも
感じない。

この静けさを破るのは
風景をきり拓いて進む魯の音と、
小舟の腹を打つ水音ばかり。

小舟にかかげられた茣蓙の下、ひそかに心を打ち明ける、
秘密の逢引きでもするように。

・・・・・・

黒いターバンを被った安南詩人が
今宵は、月が出ないと嘆く。
落花生油のランプの光を揺らしながら、
国のやるせなく悲しい歌をなぞりながら、

彼は私に描いてみせた
――私の肩に重くのしかかる悲しみを。
私が愛する男は、去り
戻ってこない。

舟腹に出ると、
霧雨が顔を打つ。
王城近くの
岸辺はただただ暗く
龍のかたちをした
雨雲がたなびいている。

 中国風の教養を身につけた文士たちとの交遊は興味深かったが、三千代は安南の若い作家や評論家たちの仕事に強い関心を抱いた。
 「漢詩漢文が縁遠くなった今日、新しい安南文学の中心地は、フランス政府の政治機関、文化機関の中心地ハノイにうつっていることは、当然のこととして考えられよう。(中略)安南文学は、それまで韻文学であった。ようやくここに散文小説の新しい誕生を見た。若い文士達は、安南語で、またフランス語で創作する。しかしまだ、文学専門雑誌を見ないようだ。主な発表機関は、仏字雑誌「印度支那」「エコー」安南語雑誌「チュン・バック」その他新聞等である。著名な少数の作家を除いては、作品を以って生計を立ててゆくことは困難だ。(中略)
 新しい安南小説家が、どんな欲求で、どんな動機で、何を手材にして文学をやるか。言うまでもなく、それは若い安南が持っている多くの悲しみと悩みである。手材として取上げられるものは、主として、迷信深い道教、仏教と、儒教精神でつくりあげられた因習的な古い家庭内に、フランス風な新しい思想が流れこみ、古い世代と新しい世代のまじりあう悩み、苦しみである。」(「仏印の文学」)
 古都フエに滞在中、阮王朝歴代皇帝の墓を訪ねたが、とりわけ明命陵の印象は強烈だった。「明命の墓の松や茨でおおわれた盛土の背後は、荒涼とした原野につゞいていて、薄明の時刻には餓虎が彷徨するという話だった。風の音にも、そんな気配が感じられて、思わず身がひきしまる思いがした。」(「ユエの印象」)
さらにフエから少し南へ行ったところにあるツーラン近くの会舗(ヘイホー)には、かつて日本人町があった。徳川の鎖国時代、山田長政たちが南方に飛躍したころのことで、仏印にも多くの日本人が進出したのだった。異国の地に没した日本人たちの墓がいまも残っているとのことだった。
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# by monsieurk | 2017-03-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(19)

 南部への旅

 南部仏印の旅行に出たのは、二月末か三月初めのことである。午後六時半に、ハノイ発サイゴン行の列車に乗った。
 汽車は速力は早いがよく揺れて、中年のフランス女性と同室だった。窓外の水田と竹藪が続くトンキン・デルタの風景は、灰色からやがて暮色に変わっていった。王宮のある古都フエ(三千代はフランス読みで「ユエ」と表記)には、翌日の午前十時半に到着した。
 駅には、啓定(カイデン)博物館長のソニー、理事官秘書コンパンの代理のルパージュ、それにユエ唯一の日本人で、写真館を営む中山の夫人が出迎えてくれた。
 フエの城外を流れる香河(リヴィエール・ド・パルファン)にかかるクレマンソー橋のたもとにある、立派なホテル・モーランに投宿した。滞在は五日の予定だったが、滞在中は博物館長のソニーが行動計画をつくってくれ厚遇をうけた。
 二月二十七日には、有職大臣で現皇帝バオダイ帝の叔父にあたるプータク(寶石)宅に、ソニーや中山夫妻とともに招かれ、格式高い安南料理のもてなしを受けた。
 三月初めに理事館長のダランジャンを訪問し、翌日には阮王朝十二代の当主バオダイ(保大)帝に拝謁することになった。
 「阮王朝の始祖阮福映(嘉隆・ジャロン帝)が、フランスの司教ピニョー・ドベーヌの義勇軍の助けを得て、紛乱していた安南を統一してから百四十年。現在はフランスの保護領となっているが、王朝は昔のまゝに残存している。一八八五年にフランスと支那との間で結ばれた天津条約まで、まだ支那が安南の宗主権を主張していたもので、古来安南はほとんど支那文化の影響下にあった。支那をそのまゝ見るような宮廷の外観、大官達の礼服を見ても、それはすぐうなづけるのだ。(中略)
 保大帝に謁見したのは、その支那式の宮殿ではなく、宮殿のうしろにつゞいて建て増された新式な洋風の大広間であった。
 皇帝はまだ二十七歳の、巴里にも留学されてフランス式な教養を身につけた、瀟洒な青年紳士であった。オール・バックに撫でつけた髪は無帽で、藍色紋織のゆったりした安南服を身につけていられていた。傍らに椅子を賜って少時雑談したが、皇帝は、別れ際に、三年に一度のユエの大祭、南郊(ナンジャオ)の祭がもうすぐだからそれまで滞在してはどうかといわれた。」(「ユエの印象」)皇帝のせっかくの勧めだったが、南郊が行われるのは月末で、南郊の祭を見学することはできなかった。
 フエは王城にふさわしい、典雅で、物静かな街だった。数日の滞在中に安南のもっとも高い心情にふれることができた。三千代は仏印の旅の様子を、旅行記『晴れ渡る仏印』のほかに、次章で紹介するフランス語の詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)で、詩にしている。
 「フエ(Hué)」と題した詩篇は、バオダイ陛下に捧ぐとの前書きがついている。

私は忘れない、
この平安な時のなかで
私が忘れ
そして人びとが私を忘れることを。

いつの日か
私がすべてを忘れたとしても、
私は決して忘れまい
この静謐な古の都を。

この静けさ
この心の透明さは
私がいつの日からか探してきた
幻影に似ている。

私は決して忘れまい
古びた屋根、龍の石像、
印度ケイソウが匂う
人気のない黄昏を。

丸い空に、
四角い大地に、
そこに見出される月日が
やすみなく続いていく。

私は決して忘れまい
《クリソクロア クレガンス*》が住んでいる
街路樹を、
伝説と恋が咲き誇る
香気にみちたこの都を。

私は決して忘れまい
小舟の唄を、
夜の鳥が飛び交う
水面の上の際限のない呪いを。   *ルリタマムシの一種.
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# by monsieurk | 2017-03-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(18)

 ハノイの名所といえば、中心地にある小湖、北西郊外にある大湖、市民劇場、紅河にかかる東洋一長いドーメル橋、コットン(木綿)通りの角にある大伽藍、翡翠の寺、大仏寺、蓮寺、鴉寺などだった。三千代はそれらを見物し、有名な「金の亀物語」の舞台となったハノイ北方のコーロワ城址を二度も訪問した。
 彼女が訪れたハノイ市内のマッチ工場では九百人ほどが働いていたが、七百人は女性で、箱作り、軸の詰め込み、薬付け、上紙の張りつけなど、細かい仕事をみな女性がやっていた。一日の労働時間は十八時間で九時間交代、一日の労賃は三十銭から四十銭だということだった。
 その一方、フランス語を教える学校を出た安南のインテリ女性は、日本の役所や軍関係の事務所でタイピストや電話交換手としてきびきびと働いていた。仏領印度支那でも、ペタン元帥が提唱する「新フランス運動」に呼応して、フランス革命以来の「自由、博愛、平等」に代えて、「勤労、家庭。祖国」のスローガンが掲げられていた。その結果、ダンスなど娯楽は禁じられ、女性の華美な姿は見られなくなっていた。
日本の仏印進駐のあと、語学力を活かして、役所や商社で働くために日本からやってきた若い女性をよく見かけた。三千代は若い世代の活躍を目にしてうれしかった。
 ハノイに来て二十日あまり経った二月四日と五日に、空襲警報が続けて鳴った。彼女は中華料理店やホテルで食事中だったが、どちらもフランス軍機の音を聞きあやまった誤報とわかった。
 二月十日、明日からサイゴンへ出張するという小川総領事から、ハイフォン行きの手筈について指示をうけた。
 翌十一日の紀元節は、九時半に大使公邸に行き、御真影に拝礼し、異郷の戦時下に集まった在留邦人とともに慶事を寿いだ。帰り際、芳澤謙吉大使にハイフォン行の計画を話すと、翌日の晩餐に招かれ、その席で日本軍がシンガポールの一部を占領したというニュースを聞かされた。かつて金子とともに長く滞在したところだけに、感慨もひとしおだった。
 十四日、ハイフォンに向けて、オートライ(ガソリン・カー)で出発した。十五日は安南の正月(テト)にあたり、停車場は故郷へ帰る人たちでごったがえしていた。
 バスはそのなかを出発し、東洋一長いドーメル橋を渡り、二時間かかってハイフォンに到着した。ハイフォンは中国国境に近い港町で、日本からの船はみなこの港に着く。ホテルは、能見領事が予約してくれたコンチネンタルだった。この日は港や街を見物し、翌日は一人で街を歩きまわり、次の日はもうハノイへ戻る日程だった。
 ハイフォンでは日露戦争直後に仏印へ来たという古老の横山や、同じく長い滞在経験がある保田洋行(商社)の竹内から、それぞれの仏印観や将来の抱負を聞いた。竹内が経営している富士ホテルでご馳走になっているとき、ホテルの女将が部屋をまわって、シンガポール陥落のニュースを伝えくれた。
 十八日、ハノイへ戻ると、細かい雨が降っていた。数日留守にしたハノイが故郷のように思われ、三輪車のシクロを乗りまわして、雨に濡れた美しい並木の街を心ゆくまで満喫した。正月(テト)四日目の街は、三分の一ほどの店が扉を閉じたままで、軒下にはフランスの三色旗、赤字に星の中華民国の旗、それに日の丸の三本の国旗が出されていた。日の丸は、丸が大きさがまちまちだった。国旗掲揚はシンガポール陥落を祝うものだということだった。
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# by monsieurk | 2017-03-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)