フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第八部(6)

 この年の八月、彼女が以前「婦人画報」に載せた「嘘みたいだ」が、文学報国会発行の『辻小説集』(八紘社杉山書店)に再掲された。この短編集には二百七名が執筆していて、三千代の作品は十行ほどのもので、仏印へ向かう飛行機から、香港上空で目撃した情景を伝えるものである。
 「(前略)十年後、昭和十七年一月十五日、陥落直後の香港の空を翔びながら私は、おやと眼をこすった。真青な海面に檣だけ突出たり赤腹を返したりして沈んでいる。あの英国の船共だ。そっくり置換った日章旗の船。嘘みたいだ。私は佐藤〔英麿〕に手紙で知らせてやりたい。――因業な家主のいない香港は、住みいゝ所になりました。南方の港はみなそうなりますよ。ああそれには、たくさんの、たくさんの、日章旗を立てた船が必要ですよ。」
 そして十月に出された『辻馬車』には、詩「ふねをつくれ」を寄稿した。
  
「ふねをつくれ ふねをつくれ。
うなり出す無数の蜂をのせて海に浮く鋼鉄の巣。航空母艦。それは一隻でも多い方がいゝ
 のだ。
幻の整列。たちまち海を白泡にし 聖なる憤りで空と海を引つ裂く。天から降りて来た艦 
 隊。戦艦。駆逐艦。水雷艇。それは一隻でも多い方がいゝのだ。
新鮮な果物をいっぱい盛った果物皿のやうな満腹の輸送船は、往き かへり 擦れちがふ。
 それは一隻でも多い方がいゝのだ。
ふねをつくれ ふねをつくれ。」
 
 これは当時世間で叫ばれたスローガン、「戦艦献納愛国運動」に乗ったもので、三千代の文章はまさに文学報国会の方針に沿うものだった。このときのアンソロジー『辻詩集』に収録されたのは二百八篇で、すべてが戦争詩だった。詩部会の会員三百三十九名のうちの三分の二が寄稿したことになる。しかし金子光晴の名前はそこにはなかった。
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# by monsieurk | 2017-04-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(5)

 「小説和泉式部」は、彼女のこうした調査や執筆の過程と、主人公の和泉式部の生涯がないまぜに描かれる。これは森鷗外が『渋江抽斉』などの歴史物を書いた際に用いた形式で、三千代はこれを意識していた。それに加えて、ルポルタージュ『晴れ渡る仏印』を書いたことで、現在と過去を自在に行き来する手法を会得したのである。
 「小説和泉式部」は一九四三年前半には書き終え、八月に協力出版社から出版された。三千代の和泉式部への思いは次のようなものだった。
 「明日のことも、身の行末をも考えないほど人を愛し、人の心の醜さ、辛さ、冷たさをも、こころゆくまで味わいつくしたではないか。世の中の有為転変に身をまかせて、生きるがままに生きてきたこの人の人生に、いまさら思いのこすことは一つもないように思われてくるのだった。いずれは罪業からのがれられない人生の生き身のしるしに、からだ一つに罪業の泥を塗り、あやまちのしみをつけながら、猶、彼女の心だけは、彼女の素肌のように純潔で、よごれを知らず、咲に咲いて来たのだ。彼女の身のうちも外も、なにもかも燃えて、それが彼女の歌になったのだった。(中略)私は和泉式部の悲しみや不運が、彼女の千数百首の歌の身を以ってする装飾のように思われたし、その歌がまた、彼女の肉身を飾る血と涙の装飾のようにも思われるのだ。」
 この一節には、これまでの三千代自身の遍歴が重ねあわされている。彼女自身それを十分に意識していた。だからこそ和泉式部を主人公に小説を書こうとしたのである。
 「いま和泉式部を書き上げたあとで、ふりかえって考えると、私は、やはりほんとうの和泉式部を書かないで、自分を書いてしまったのではないかという気がされる。しかし、たとえ私の自叙伝に終わったとしても、私自身決して辿らなかった道筋を辿っている別の自叙伝なのだ。そういう自叙伝を、誰しも、三つ四つは持つことが出来るわけだ。」
 彼女は、自分が辿らなかった道をどのように思い描いていたのか。愛人を次々に替えながら情熱的な式部の生涯を考えれば、それはいまの金子との関係とは別のものである。だから三千代は式部の女盛ではなく、あえて彼女の晩年を取り上げたのである。三千代はこの先で、こうも述べている。
 「和泉式部を書いてしまった時、一つの心残りが、どうしてもあとに残った。和泉式部の燃えさかる業火のほとぼりの時代しか書かなかったことだった。若さ、奔放さ、得意さ、天馬空をゆくような花盛りの時代の彼女を書かずに、しずかな散華だけを書いたこの小説は、決して和泉式部の全貌ではない。
 「私、いつか和泉式部のいちばん華やかな時代を書こうと思います。弾正宮、帥宮との恋愛時代・・・」
 「つづけてすぐお書きになるの」
 私は、笑って首を横に振った。
 「多分、私がもっと年をとってから書けるだろうと思うのです。その小説が出来たら、両方の、まあ一人の和泉式部が書き上げられるかと思うのです。中年過ぎの和泉式部を先へ書いてしまいましたけど、若い和泉式部は、却ってあとになった方がよく書けるような気がするのです。・・・和泉式部だって、若い頃の帥宮との事件は、よほど晩年になってから書いてるようですものね。」
 奥付によれば、『小説和泉式部』初版は五千部印刷され、文壇でも話題となった。そして翌年には第七回新潮文化賞を授賞した。三千代が若いときの土方定一や台湾の青年将校、紐先銘との熱烈な恋愛を赤裸々に書くのは、先に引用した通り、戦後になってのことである。この言のとおり、三千代自身も歳を重ねたあとで、自らの華やかだった体験を筆に載せることになる。
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# by monsieurk | 2017-04-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(4)

 「小説和泉式部」

 四十二歳になった三千代は、「どんどん火」を雑誌「むらさき」一月号に発表し、さらに「南方文化交作への協力」という座談会に出席して、仏印旅行の体験に基づいて、文化交流の面で作家が積極的に役割をは果たすべきだとの持論を展開した。この座談会の内容は「文化映画」に掲載された。
 彼女の創作意欲は旺盛で、「早春」を雑誌「オール読物」三月号に、五月には「婦人画報」に「嘘みたいだ」を掲載した。そしてこの間、前年から取りかかった和泉式部を主人公にした中編小説の執筆を続けた。
 女高師在学中から和泉式部の歌に惹かれていた三千代は、前年には、製薬会社「ミノファーゲン」の責任者として大阪にいる義弟の菊地克己が調べてくれた和泉式部の遺跡を訪ねて歩いた。
 小説は京都の盛り場、新京極にある華岳山誠心院(通称式部寺)を訪ねるところから始まり、彼女自身の行動と心の動きを通して、中年をすぎた式部の生き方を甦らせる。そこには彼女自身の波乱の半生が色濃く投影されている。
 「私が和泉式部の遺跡をたずねたのは、かりそめの好奇心や、単なる好学の気持からではなかった。それはただ、このなま身の肉体をもって、じかに式部のゆかりある地、ゆかりあるものに触れてみたいという切ない願望にほかならないのであった。それというのも、さきにも言った通り、私がいつのまにか心のなかに、式部の肉身をわがものとしてかい抱いでいたためであった」、「日本の女達の誰の乳房の下にも和泉式部が持ったような、純粋にあこがれ、夢を夢見る心が、脈々とほとばしり、鼓動をうっているのを感じる。」と執筆の動機を語っている。
 構想が芽生えたの一九四二年の秋のことである。前年の秋は仏印行の準備でゆっくりと武蔵野の秋を愛でる余裕がなく、この年の関西行でも秋の情緒を味わえないまま、和泉式関連の資料を少しずつ読みはじめた。
 そんなある日、「書物から目をはなして庭を眺めているうちに私は、歓楽や愛執の季節も過ぎ落葉するものはことごとく落葉しつくして、静謐にかえった境地を、しみじみと味わった。
 和泉式部の生涯のうちのこの季節を書いてみたらと、私は考えついた。式部の奔放な情熱時代を書くよりも、その方がいまの私には、ずっと自然にはいりこむことができそうであった。
 その時期の式部といえば、書物によって四五年のひらきはあるが、天延二年に式部が生まれたものとして、寛弘八年宮仕えを止めた彼女が、藤原保昌と結婚して、相携えて丹後に下った三十六歳の頃からはじまるのではないかと思う。保昌と結婚して、摂津に下り、後、丹後に下るという説もある。万延二年愛娘の小式部内侍に先立たれた時、式部の年は五十三歳を数える。落葉するものが落葉しつくして、見る限りまったく冬景色にかえったのは、その年であろう。」
 こうして狙いをさだめた三千代は、執筆を後押ししてくれる書店主の紹介で、歴史ものを得意とする作家と、平安文学に造詣の深い作家の二人に、赤坂の料亭で話を聞くこと機会をえる。その際に聞きだした事項をメモにするが、それは丹後路での式部の事績、保昌と一緒に住んだ場所、二人が別れた理由、保昌の性格などであった。二人には、「やあ、これをみんなわかったら博士になれますよ」と言われるが、それでも彼らは読むべきものを教えてくれ、所蔵している本を借してくれて、三千代の下調べは進んでいった。
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# by monsieurk | 2017-04-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(3)

 一九四二年に陸軍報道班員としてシンガポールに送られた詩人の神保光太郎は、同じ年に報道班員として徴用された中島健蔵たちと、現地の人に日本語を教育するための「昭南日本学園」を創設した。
中島健蔵は『昭和時代』(岩波文庫)で、この徴用について、「徴用令状を受け取って最初に東京都庁〔正確には東京市庁〕に出頭したとき、はじめて自分たちのなかまには三木清、清水幾太郎がいることがわかった。われわれは当時の軍部には受けがいいはずがなかった。そこで、この徴用は、実は徴の字の下に「心」がついた『懲用』であろうといううわささえ飛んでいたし、多少の不安を抱いたまま四十人のなかまと一しょに輸送船に乗り込んだのである。」(『昭和時代』)
 シンガポールでは、中島は神保、作家井伏鱒二の三人で、ナッシムロードの大きな屋敷に一緒に住んだ。井伏は第一次徴用で、戦闘する部隊に同行してシンガポールに入り、第二次徴用の神保と中島は、戦闘が一応終息した後にシンガポールに到着した。
 神保光太郎は学校設立の体験を、『昭南日本学園』(愛之事業社、一九四三年)のなかで、次のように書いている。
 「私は新しき日本の占領地を、大東亜共栄圏のひとつとして更生しようとする平和建設の一翼である日本語の学校の責任者なのである。(中略)支配者の精神、日本の心を積極的に現地住民に識らしめんとするところにすべてが出発する。そして、これは当然、日本の植民地教育、又は、日本語学校の精神でもある。」(『昭和時代』)
 中島健蔵は神保より、この事業に積極的だったように見える。一九四二年四月二十九日の「陣中新聞」に寄稿した文章では、軍部に同調する、さらに言えば、阿る姿勢を鮮明にしている。
 「天長の佳節に方り、馬来及びスマトラ島住民の行くべき道は明らかになった。軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
 大日本帝国の有難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍将士にとって尊き責務である。そのためには、先ず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ、日本語を使わなければならない。天長の佳節を期し、軍司令官閣下の談話に趣旨に基き、我等は此処に国語普及運動を起さんとなすものである。」(「日本語普及運動宣言」)
 占領地での日本語普及の動きに呼応するのが、宮崎嶺雄が持ってきた日本語の教科書の作成事業だった。金子は帰国する船中での義理もあって会合には出席したが、なにも話すことはなかった。
 金子の思いは、「日本学芸新聞」十一月一日号に書いた、「大東亜文学者大会に就いて」という記事に示されている。
 「大東亜の文学者を一堂に聚めるという日本文学報国会の企ては、政治的意義をのぞいても、糧を与えるという本質的意義がのこることなるとおもう。(中略)殆ど最初の経験としての日本の文学者は、与えるべき糧について慎重に考えて欲しい。与える方法にも相当技術を必要とするようにおもう。衝にあたる日本の文学者は、先ず共栄圏の他民族を出来うる限り知ってほしい。あくまでもその客観性に基づいて、ほんとうの糧となるものを考えてほしい。いくらでも言いたいことはあるが要約すれば、これは一つの危惧に外ならない。自分に重大なものは必ずしも他人に重大ではない。以上
――大東亜文学者会第一回は、事情によって中華、満洲、蒙古方面に限られてしまった。南方各地の人達は参加出来なかったことは残念である。南方の人達が来るに就いて御手つだいしようと思った私は、そんなわけで、何の役にも立たなかったことをお詫びし、幹事会(準備委員会)も御辞退するわけである。」
 南方の文学者たちが出席するならば手伝いたいというのは金子の本心であり、同時にこの企画自体に対しては、「自分に重大なものは必ずしも他人に重大ではない」というのが彼の真の思いだった。
 金子はこの年一九四二年(昭和十七年)の「中央公論」七月号に、詩「海」を発表したのを最後に、主要な雑誌に作品を発表できなくなった。
 「新潮」の編集者と会って、どの辺までなら発表可能かを探るために、新作の発表を打診すると尻込みされた。他の雑誌の編集者も同じような反応だった。詩人としての金子の存在自体が、雑誌にとって危険なものになっていたのである。日本放送協会から依頼されて、十篇ほどの唄が入ったマレー案内をつくったが、放送寸前に中止になった。
 中河与一が多くの文学者を、共産主義者、自由主義者、国家に忠実な者の三種類に分けたリストをつくって警視庁に提出したという噂が聞こえてきた。
 翌一九四三年五月、金子の唯一の弟子を自認する河邨文一郎が、北海道大学医学部を卒業して、東京帝国大学医学部の整形外科へ入局して上京した。赤門前の通称落第横丁に下宿した彼は、毎週のように吉祥寺の金子の家を訪問した。このころの金子の様子を以下のように語っている。
 「時局を論じ、文壇を罵倒し、私の詩作品に批評を乞い、そしてなによりも嬉しいことに金子さんの書き上げたばかりの新作をしばしば見せていただいた。しかし当時の金子さんには逼塞状況が迫っていた。反語や多義句をあやつって偽装を凝らした詩を発表しつづけることにも限界が近づいたといえる。特高が金子詩の本質をいつまで見破らずにいるか、第一、金子さんの作品を出版社が引受けなくなってきた。「海」を中央公論に発表したのが昭和十七年七月で、その後はジャーナリズムから急速に遠ざけられた。挫折感、敗北感が金子さんをさいなむようになったのを私は感じた。ヒステリックに、さあ、つかまえてくれ、と叫ぶか、後退しながらギリギリの線を絞りつつ抵抗を続けるか。とにかく言いたくは言わない、言えと強いられることはなおさら、いや絶対に言わないぞ、となれば、もはや黙るほかはない。ある晩、金子さんが突然言い出した。
「もう、これからはね、詩の発表はやめようかと思うんだ。発表はしないで、ただ書く。書いておく」と。」(河邨文一郎「体験的金子光晴抵抗詩論」、「こがね蟲」第四号)
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# by monsieurk | 2017-04-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(2)

この年十一月三日、明治節の日、「戦時の秋に捧げる文報の催し」として、第一回大東亜文学者大会が幕をあけ、満・蒙・華の代表が出席して、東京、大阪と会場を移しながら十日まで開催された。大会の議題は「大東亜戦争の目的完遂のため共栄圏内文学者の協力方法」と「大東亜文学建設」の二つだった。
 十一月一日に東京に着いた代表たちは、その日に参拝のために皇居と明治神宮に連れていかれた。翌日は、靖国神社を参拝したあと宮内庁へまわり、戦時下をたくましく生き抜く国民の見本として、明治神宮で行われている国民錬成大会を見物し、さらに朝日新聞社を訪問した。そして翌三日の午前十時から、一五〇〇名が参加した大東亜文学者大会が帝国劇場で開かれたのである。
 「大東亜戦争まさに熾烈なる日、東洋全民族の文学者ここに会し、団結一致永くわが東洋を蠹毒侵害せるいっさいの思想に戦いを宣し、新しき世界の黎明をもたらさんとす。実に史上未曽有の挙なり。われら精神の選士として深く思いをここにいたし、この大事に挺身し、東洋悠久の生命を世界に顕揚せんとす。時あかたも明治節の佳日をもって門出とする吾人の光栄なり。固き決意と勇猛心をもって本大会を全うせん、右宣誓す。」
 歌人土屋文明の司会のもとで、まず斉藤瀏がこう宣誓を述べ、島崎藤村の音頭で万歳を三唱した。この開会式で自作を朗読した川路柳虹は、「新しい朝の言葉」と題して、「ようこそ親しい隣邦の友だち・・・」という詩を朗読した。
 会議での発言はすべて日本語で行われ、他の国語は日本語に翻訳されたが、日本語の発言はいっさい翻訳されなかった。代表の多くはこれに不満を持ったが、なかには、「いまに日本語が東亜語となり、東亜文学、就中日本文学が世界に光彩をなたつだろう」(満州代表)、「日本語を知ることによって、はじめて大東亜の指導原理というべき八紘一宇の大精神にふれることができる」(台湾代表)といった阿(おもね)りの発言もあった。ただ中国の著名な作家、郭沫若や老舎、林悟堂などは瞑目して沈黙をつらぬいた。
 大会は、「東洋新生のための礎石は置かれたり、われらが心魂固く一致せり。今や大無畏の精神をもって邁進することをいっさいの敵国に告げん」云々という大袈裟な宣言を採択して幕をとじた。
 これからしばらくして、かつてマルセイユから帰国の折、シンガポールまで同船した宮崎嶺雄(船酔いに苦しみながらプルーストを読んでいた)から金子のもとに連絡があった。宮崎は岸田國士の門下生で、報国会の幹事をしているということだった。
 宮崎からは、インドネシア人向けの日本語の教科書をつくる相談会があるので、ぜひ出席してほしいという。宮崎からは帰国の途中、日本の文壇についていろいろ教えてもらった義理もあって出かけて行った。
 「出かけてみると、こんどはおおぜいで、知っている顔も二、三見うけた。このときは、高見順の独壇場であった。
 べつに、しゃべることもないので、黙っていると、インドネシアの事情について話してくれと、M(宮崎)が言った。むかしのインドネシアの話をすこし話した。それから尾崎喜八が芋の詩を朗読して、真杉静枝が感激して泣いたシーンをおぼえている。消極的であるうえに、頼みになりそうもない僕は、その後なにがあっても呼ばれず、こちらから出向くこともなく、やれ戦争賛美の詩を書けとか、ポスターを手伝えとか、なんとかかんとか言ってきたが、すっぽらかして返事も出さないので、そのまま、報国会とは縁のない存在となってしまった。
 文士たちも、内心はいやいややっていたのだろうとおもうが、そういう連中は張り切った連中におされて、引きもならず、進むにも気がすすまずで、ずいぶんいやなおもいをしたろう。みそぎだとか、ことあげだとか、それまでは、なんともなかった古語が、彼らの口から飛び出すと、とても場ちがいな、押しつけがましいいやな言葉になった。下地の反対な気持をもっているせいもあろうが、僕には、感覚的にやりきれないものに響いた。日本の文士はひよわだから、暴力に弱いのはしかたがないとあきらめた。」(『絶望の精神史』)
 積極的であったか否かは個々人によって多少の違いはあったにせよ、知識人の体制協力はいたるところで行われた。その一つの例が、占領下に置かれたシンガポール(昭南島)での日本語教育である。
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# by monsieurk | 2017-04-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)