折りに触れ、取り出して聴くCDに《長岡輝子・宮沢賢治を読む》(KING RECORDS)がある。
1908年に岩手県の盛岡に生まれた故長岡輝子さんは、「幼いころお国言葉で語りかけてくれた祖母の言葉が遺されていて、それで故郷の詩人宮澤賢治に惹かれることになった」と述べている。長い俳優生活の晩年は賢治の詩の朗読を精力的に行った。
東北特有の言葉遣いとイントネーションは耳に快く、賢治が日常用いていたであろう言葉のニュアンスを伝えてくれる。
賢治の多くの詩のなかの代表作の一つである「永訣の朝」は、賢治の2歳年下の妹とし子(戸籍名はトシ)の死を詠った絶唱で、長岡さんも繰り返し朗読した作品である。
とし子は大正11年(1922年)11月下旬、冷たい霙(みぞれ)の降る日に亡くなったが、「永訣の朝」はその朝の出来事を描いたもので、やがて「無声慟哭」、「松の針」とともに「とし子挽歌」として詩集『春と修羅』に収められた。
彼女は日本女子大出の才媛で、母校である岩手県立花巻高等女学校の教諭になったが、やがて結核を発病。一年あまりの闘病生活のすえに亡くなった。浄土真宗を信仰する宮澤家にあって法華経を信じる兄賢治のただ一人の理解者、共感者でもあった。
「永訣の朝」は次のような詩である。現代仮名遣いに直し、読みやすくするために途中に適宜空白を入れて引用してみる。
「永訣の朝」
きょうのうちに
とおくへいってしまう わたくしのいもうとよ
みぞれがふって おもては へんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかく いつそう陰惨な雲から
みぞれは びちょびちょふってくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまえがたべる あめゆきをとろうとして
わたくしは まがったてっぽうだまのように
このくらい みぞれのなかに飛びだした
(あめゆじとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれは びちょびちょ沈んでくる
ああ とし子
死ぬといういまごろになって
わたくしを いっしようあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへは わたくしにたのんだのだ
ありがとう わたくしのけなげないもうとよ
わたくしも まっすぐにすすんでいくから
(あめゆじとてちてけんじや)
はげしい はげしい熱や あえぎのあいだから
おまへは わたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・
・・・ふたきれのみかげせきざいに
みぞれは さびしくたまっている
わたくしは そのうえにあぶなくたち
雪と水との まっしろな二相系をたもち
すきとおる つめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしの やさしいいもうとの
さいごのたべものを もらっていこう
わたしたちが いっしょにそだってきたあいだ
みなれたちゃわんの この藍のもようにも
もう きょう おまえはわかれてしまう
(Ora OradeShitori egumo)
ほんとうに きょう おまえはわかれてしまう
ああ あのとざされた病室の
くらい びょうぶや かやのなかに
やさしく あおじろく燃えている
わたくしの けなげないもうとよ
この雪は どこをえらぼうにも
あんまり どこもまっしろなのだ
あんなおそろしい みだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれてくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあようにうまれてくる)
おまえがたべる このふたわんのゆきに
わたくしは いま こころからいのる
どうかこれが兜卒の天の食に変って
やがては おまえとみんなに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいわいをかけて ねがう
手元にある筑摩版『校本宮澤賢治全集』第1巻に、2017年12月1日付けの「読売新聞」の切り抜きがはさんである。記事は「賢治 妹が見た『永訣』」というタイトルで、次のように書きだされている。
「詩人で童話作家の宮澤賢治(1896-1933年)の妹、岩田シゲ(1901-1987年)が賢治や宮澤家にまつわる出来事をつづった回想録が存在することがわかった。「あめゆじとてちてけんじや(雨雪を取ってきてください)」という言葉で知られる賢治の詩「永訣の朝」につづられた、上の妹トシ(1898-1922年)の臨終の様子も詳細に描いている。これまで公になっていなかった回想録は、賢治の実像を身近な家族の視点で伝える貴重な資料といえる。」
シゲは70歳をすぎたころから記憶をたよりに思い出を書き、それを家族がまとめて冊子にしたものが2008年に親族だけに配布されたという。冊子はその後、2017年に蒼丘書林から出版された。
トシが24歳で亡くなったとき、賢治は28歳、シゲは19歳だった。
シゲの思い出――
「大正11年の11月27日、花巻はみぞれでした。
急いで病室を出て、賢さんについて、私も下駄をはいて台所口から庭に出ました。ビチョビチョと降る雨雪にぬれる兄に傘をさしかけながら、そこに並べてあるみかげ土台石にのって緑の松の葉に積もった雨雪を両手で大事に取るのを茶碗に受けて、そして松の小枝も折って、病室に入りました。
ほんとうにあの病室は何と貧弱だったでしょう。
高い所に明かり取りにつけた窓は素通しのガラス戸一重で、外の冷たい空気は遠慮なく部屋に入り込みます。
赤くおこした炭火を火鉢に入れて、部屋の隅々においたって、天井は高いし室内が暖まる訳には行きません。
空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。
少しでも空気の動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。
賢治兄さんは何か言いながら採ってきた松を枕元に飾り、お茶碗の雪を少しづつすくって食べさせてあげましたっけ。いつの間にかお昼になったと見えて、関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などをみて行かれました。
父がお医者様とお話ししてこられたのか、静かにかやの中に入ってから脈を調べながら泣きたいのをこらえた顔で、
「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんな苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」と言いました。
としさんは少しほほえんで、
「生まれて来るったって、こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」と甘えたように言いました。
私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎつちり堅くしていたら、父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。
気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。
そして、とし子姉さんはなくなったのです。」(『宮澤賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』、蒼丘書林)
シゲの回想によると、賢治は「永訣の朝」で、この日の朝に起こった事実をほぼそのまま詩にしたことがわかる。ただ霙を一緒に取りに行った妹シゲや「お題目を唱えてあげろ」と促した父の存在は消し去った。信仰で結ばれた同志ともいえるトシが最後にみせた健気な心遣いを際立たせるための文学的措置である。
その夜、市シゲは広い野原で一人花をつんでいる袴姿の姉の夢をみた。賢治は夜中じゅうお題目を唱えていたという。
敬愛する詩人の八木幹夫さんから、メールで連絡をいただいた。「先日、俳人協会で講演し、それを録画したものが「第三回俳句講座 八木幹夫「私と季語」」で検索可能です」とのこと。さっそく拝見した。(https://www.youtube.com/watch?v=SNKxboZnWzs)。俳人はもとより詩の愛好家にも興味深い講演で、ご覧になることをお勧めする。八木さんについては当ブログで、「ライト・ヴァース」(2011・9・25)、「八木幹夫ふたたびⅠ」(2013・10・7)、「八木幹夫ふたたびⅡ」(2013・10・10)として取り上げている。