人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

マラルメの死Ⅰ

『マラルメの火曜会――世紀末パリの芸術家たち』は「丸善ブックス」の一冊として19949月に刊行し、その後20197月に丸善出版社から電子書籍として刊行された。そのなかのマラルメの死を扱った部分を若干修正して以下に再録する。


189898日の午後、マラルメは激しい息切れの発作に襲われた。彼は3日前から咽頭炎にかかっていた。この日ヴァルヴァンの仕事部屋で書きものをしている最中に、突然喉がつまって息ができなくなってしまったのである。助けを呼ぶ声を聞きつけて夫人と娘のジュヌヴィエーヴが駆けつけたが、なす術がなかった。だが次の瞬間まるで奇跡が起こったように、空気が通った。苦痛に歪んだ顔に生気がもどり、呼吸ができるようになった。発作は治まったのだった。

 マラルメは隣の部屋で数時間休息をとると、午後遅くふたたび仕事部屋にもどった。机の上には、取りかかっていた長編詩『エロディアードの結婚』の原稿と、ブリュッセルの出版者ドゥマンからの手紙がのっていた。ドゥマンはこの手紙で、印刷に付すばかりの彼の詩集のことを知らせてきていた。妻と娘は休むようにしきりに勧めたが、マラルメは二人を安心させると、しばらく一人にしておいて欲しいと言って机に向かった。身体には熱があり、手は震え、字は乱れがちだった。


 「わたしの書類に関する指示(わが愛する者たちが読む場合のために。)

 母さん、ヴェーヴ、

 さきほど起こった恐ろしい窒息の痙攣が、夜のうちにまた起こることはあり得るので、わたしがこうするのは正しいのだ。わたしが半世紀にわたって山積みにした覚え書のことを考えたとしても、お前たちが驚くことはないだろう。この堆積はお前たちを大いに困惑させるばかりだろうし、その内の一枚たりと、なにかの役にたたないのだから。ただ一人、わたしだけがそこから何かしらを引き出すことができるだろうが・・・ついに手にすることができない最後の数年がわたしを裏切らなかったならば、わたしはそれをしただろうが。だから燃やしてしまいなさい。可哀そうな子どもたちよ、ここには文学的遺産などないのだ。誰かの判断にゆだねることはありません。好奇心からだろうと、友情からであろうと、お節介はすべて断りなさい。そこからは何も読み取れないのだから、と言いなさい。事実そうなのだよ。そして可哀そうに、お前たちはさぞ気落ちするだろう、でもこの世ではお前たちだけが、誠実な芸術家の一生を重んずることができるのです。彼の一生が実に美しいものになるはずだったことを信じてください。

 こうしてお前たちの目にとまるはずの印刷された幾つかの断片と、『賽の一振り』と、運がよければ完結するはずの『エロディアードの結婚』を除いて、未刊のものは一枚も残さない。

 わたしの詩、ここではファスケルに、そしてベルギーに限るならドゥマンに渡す詩句は、

『詩篇』と『折おりの詩句』それに『牧神の午後』と

『エロディアードの結婚』

           神秘劇です。」

 

 このマラルメの遺書はアンリ・モンドールの『マラルメ伝』 (1942年)で初めて公表された。


なお『マラルメの火曜会』のなかの以下の2か所を次のように訂正する。

38ページ、最後から4行目:「隣国ドイツ」→「隣国スイス」

43ページ、最後から4行目:「『ヴァテック』を翻訳している」→「『ヴァテック』の序文を書いている」


# by monsieurk | 2023-11-25 09:00 | マラルメ

パスカル「小品と手紙」

ブレーズ・パスカル(1623-62)ば、パスカルの定理や「人間は考える葦である」などの名句で知られる『パンセ』の著者で、今年は生誕400周年にあたる。フランスでは年間をつうじて講演会やイベントが開催されてきた。
 とくに生地クレルモン=フェランでは、数学のノーベル賞といわれる「フィールズ賞」を受賞した著名な数学者で元国民議会議員のセドリック・ヴィラニ氏が「パスカル年」の責任者となり、講演会や展覧会、家族向けの科学実験などさまざまなイベントが、市とクレルモン=オーヴェルニュ大学が中心となって行われている。

 日本もパスカル研究が盛んだが、生誕400年を記念する特別のイベントは行われなかった。その代り岩波文庫から、550ページをこす『パスカル「小品と手紙」』が刊行された。編訳者は同じ岩波文庫から、3巻本の『パンセ』(20158月~2016年7月)を刊行した塩川哲也氏と武蔵大学教授でパスカルやジャンセニスムが専門の望月ゆか氏である。

同書の「あとがき」には、「本書は、二人の訳者の共同作業から生まれた。・・・訳者の一人、塩川哲也が2018年初めからほぼ三年を費やして、本書に収めたすべての作品の訳文と訳注そして「解題」の初稿を作成した。次いで、もう一人の訳者である望月ゆかが2021年春から丸一年かけてそれを閲読し、詳細なコメントを加えた。それを受けて、塩川はすべてのコメントに応答し、場合によっては数回の意見交換を経て草稿を改訂した。望月は改訂稿を再度点検して新たな指摘を行い、それを踏まえて、塩川が最終稿を作成した。」(本書、541ページ)とある。

 かくてわたくしたちは、『パンセ』(当ブログ、「塩川哲也編訳『パンセ』の出版」2015831)を参照)につづき、パスカルの残した主要な著作と書簡を詳細な注釈と解題つきで読むことができるようになった。

ブレーズ・パスカルは幼くした母親を亡くし、姉のジルベルト、妹ジャクリーヌとともに租税裁判官であった父から熱心な教育を受けた。ブレーズの早熟な才能を見抜いた父親は、1631年にパリに移住して、自然科学の研究とともに子どもたちの教育に専念し、息子を数学者や科学者が集うサロンに積極的に連れて行った。

1639年、父が北フランスのノルマンディー総徴税管区担当特任官に任命されると、一家は中心都市のルーアンへ移った。ブレーズは17歳で「パスカルの定理」を含む『円錐曲線試論』を刊行し、164219歳のときには、父の税務の仕事の計算を助けるために機械式計算機の試作を開始、3年後には計算機の改良版を完成してセギエ大法官に献呈した。この頃一家は同地の修道士との交流から、カトリックの一派であるジャンセニスムに改宗した。

1651年に父が亡くなった後は、妹ジャクリーヌはパリ郊外のポール・ロワイヤル修道院に入り、ブレーズはパリの社交界に出入りし、多くの科学者たちと盛んに交流した。だが、この年の1123日から24日にかけての深夜、神との神秘的な出会いを体験し、それを「メモリアル」を一枚の紙片と羊皮紙に書き留めて、胴衣の裏地に縫い込み、衣替えをするたびに、縫い目を解いてはまた縫い込み、肌身離さず持ち歩いた。この体験が一つのきっかけとなり、社交界から遠ざかって、パリの南郊にあるポール・ロワイヤル・デ・シャンに滞在して、ルメート・ド・サシの霊的指導を受けて数回の対話を交わし、ジャンセニスムに傾倒していったのである。

ジャンセニストの知人アントワーヌ・アルノーが異端として弾圧されると、1656年から18通の公開書簡を書いて擁護した。これらは翌16577月、一本にまとめられ、ルイ・ド・モンタルトという偽名を冠して刊行された。これが『プロヴァンシアル』として知られるものである。

パスカルは後年、「キリスト教の真理性を、信仰を受け入れようとしない人間的理性に向けて、キリスト教が審理であることを証明し説得しようとする書」のための草稿を書き溜めていく。だがパスカルは妹ジャクリーヌの死の翌年1662819日、姉ジルベルトに看取られパリに没した。39歳だった。

本書の「解説」のなかで塩川氏が、「「小品と手紙」に収められたテクスト群は、パスカルの生涯についてさまざまな情報をもたらすと同時に、彼の人となりを伝える貴重な資料でもあれば証言でもある。それらをひも解くことを通じて、読者は人間パスカルにじかに触れあう思いを味わう。しかもそれ以上に、これらのテクストは、パスカルが、科学、哲学、宗教の重要問題について巡らせた思索、そして何より彼の信仰を、ある意味で『パンセ』よりも明瞭かつ直接的に読者に開示してくれる」(同、518ページ)と述べているとおり、パスカルという人物を理解する上で恰好の書物である。

本書の特徴をもう一つあげれば、パスカルが残し手紙を含むテクストの時代配列は、ジャン・メナールの未刊に終わった『パスカル全集』に依拠しつつ、一部独自の推定が取り入られている。本書の「目次」は以下のようになっている。


Ⅰ 青年時代のパスカル


1姉ジルベルト宛手紙

2計算機 大法官セギエへの献呈書簡

3第一回の回心期 姉ジルベルト宛の手紙

4真空論序言

5父の死についての手紙


Ⅱ 「世俗時代」から第二の回心へ


6スウェーデン女王クリスティーナへの献呈書簡

7ジャクリーヌの修道誓願をめぐる手紙の断片

8パリ数学アカデミーへの献呈状

9メモリアム

10サシ氏との対話


Ⅲ 信仰改革運動への参画と霊性の変化


11幾何学的精神について

12ロアネーズ嬢宛の手紙

13ペリエ夫妻宛の手紙の断片

14罪人の回心について

15初期のキリスト教徒と今日のキリスト教徒との比較

16ペリエ夫人宛の手紙の断片

17ホイヘンス宛の手紙

18フェルマとの往復書簡

19病の善用を神に求める祈り

20大貴族の身分に関する講話

21サブレ夫人宛の手紙


本書を通して、日本におけるパスカルの読者がさらに増えることを期待したい。


パスカルについてもう一冊、好著を紹介したい。アントワーヌ・コンパニョン著、廣田昌義・北原ルミ訳『寝るまえ5分のパスカル』(白水社、2021)である。

原書はフランスで、「パスカルと過ごすひと夏」というラジオ放送で、毎朝5分ずつ35回放送されたものに6回分を加え、全41章として出版された。いわばパスカル入門の書だが、毎回(毎章)取り上げられるテーマは、パスカルの思想の核心をなすもので、これらを通してパスカルの思想を深く知ることができる。

訳者の一人廣田昌義氏は塩川氏と並ぶ代表的なパスカル研究者で、『メナール版』(白水社)」の共訳者の一人である。

「訳者あとがき」によれば、「北原が本書全体を訳した後、『パンセ』の引用に廣田訳を入れ込み、二人で何度も話し合いながら修正を重ね、完成させていった」とある。この本で引用されている「パンセ」の廣田氏の訳は、メナール版全集『パンセ』の巻が出版されていれば、そのベースとなるはずの翻訳であり、それがこうした形で公にされた点で大変意義深いものといえる。




# by monsieurk | 2023-11-20 08:57 |

絵本「パリのおばあさんの物語」

岸恵子さんが翻訳した絵本をいまになって読んだ。NHKが本格的に衛星放送を始める以前の1987年から、当時勤務していたパリ総局のスタジオから、毎週土曜日に1時間、衛星放送で「ウィークエンド パリ」を放送し、そのキャスターを岸さんにお願いした。

1998113日文化の日には、「特集・世界の名画100点」という特別番組では、岸さんがルーブル美術館、わたくしがオルセー美術館を担当して、8時間にわたって生中継をしたこともあった。懐かしい思い出である。


ところで遅ればせながら読んだ絵本は、『パリのおばあさんの物語』で、帯には「フランスで子供から大人まで読みつがれている絵本を岸恵子さんが初めて翻訳」とある。初版は200810月に千倉書房から出版された。Susie Morgensternimage de Serge Bloch、“Une vielle histoire”éditions Messidor / La Farandole, 1985)の翻訳で、原題は「あるおばあさんの話」といったニュアンスである。

絵本ではパリの小さなアパルトマンで暮らすおばあさんの日々が、モノローグで綴られる。夫は他界し、子どもは独立。孫もいるが、一人で静かに生活している。マルシェ(市場)の買い物から帰ってきても、歳のせいで鍵穴に鍵がうまく差し込めない。薬を飲み忘れたり、好きだった山歩きもできず、大好物の玉ねぎとニンニクを炒めた料理も胃が受けつけなくなった。それでもおばあさんはこう思う。

「良かったわ。これでもう玉ねぎを切って眼を泣きはらすこともなくなったわ」。年寄った彼女の信条は、「やりたいこと全部ができないのなら、できることだけでもやっていくことだわ」。

「おばあさんは鏡をのぞきます。

「なんて美しいの」とつぶやきます。

顔はたくさんの歴史を物語っているものですもの。

眼のまわりには楽しく笑い興じたしわ。

口のまわりには歯をくいしばって悲しみに耐えた無数のしわ。

しわ、しわ、しわ、いとおしいしわ。

四分の三世紀のあいだに味わったわたしの人生の苦楽が刻まれた顔。」


彼女にはつらい過去があった。ユダヤ人であるがゆえに戦時下にはひどい迫害を受け、逃げまどい、家族はちりぢりになった。戦争が終わり命からがら再会した家族は、悲しい運命と折り合いをつけながら、静かに日々を送り、長いときがすぎた。絵本の最後にはこう書かれている。


「おばあさん、もういちど、若くなってみたいと思いませんか?」

おばあさんは、驚いて、ためらうことなく答えます。

「いいえ」

その答えはやさしいけれど、決然としていました。

「わたしにも、若いときがあったのよ。わたしの分の若さはもうもらったの。今は年をとるのがわたしの番」

彼女は人生の道のりの美しかったことや、山積みの苦難も知りました。

彼女の旅は厳しかった。彼女の旅はこころ優しくもあった。

「もういちど、同じ道をたどってどうするの? だってわたしに用意された道は、今通ってきたこの道ひとつなのよ」」


テクストに寄り添うセルジュ・ブロックの絵もいい。

岸恵子さんは「あとがき」でこう述べている。


「人間がもつ一つの平等なさだめは、年老いていくことです。老いをどう生きるかという大事なテーマのなかで人はその人となりを完成していくものだと思います。

若いときのはじけるような情熱や、ときには無鉄砲な決断力や行動力がまぶしいほどの成果を生んでいた輝かしい時代・・・それらが遠のき、老いの身の孤独をどう生きてゆけるのか・・・愚痴っぽくて自分勝手な頑固者になるか、感謝の気持ちで他人にも自分にも優しくなれるのか、そこが人間としての勝負どころです。」


著者のスージー・モルゲンステルヌは1945年にアメリカのニュージャージで生まれ、アメリカ、イスラエルで育ち、22歳でフランスに来た。

比較文学で学位を取り、1967年にユダヤ系フランス人の数学者ジャック・モルゲンステルヌと結婚し、以後は南仏のニースで過ごしている。

1994年に夫は亡くなるが、ニースのソフィア=アンティポリス大学の学部で英語を教え、作家活動を開始し沢山の本を出している。詳しくは彼女の公式サイトhttps:/susiemorgestern.comを参照してほしい。

.


# by monsieurk | 2023-11-15 09:00 |

岩田シゲの回想

折りに触れ、取り出して聴くCDに《長岡輝子・宮沢賢治を読む》(KING RECORDS)がある。 

1908年に岩手県の盛岡に生まれた故長岡輝子さんは、「幼いころお国言葉で語りかけてくれた祖母の言葉が遺されていて、それで故郷の詩人宮澤賢治に惹かれることになった」と述べている。長い俳優生活の晩年は賢治の詩の朗読を精力的に行った。

東北特有の言葉遣いとイントネーションは耳に快く、賢治が日常用いていたであろう言葉のニュアンスを伝えてくれる。

賢治の多くの詩のなかの代表作の一つである「永訣の朝」は、賢治の2歳年下の妹とし子(戸籍名はトシ)の死を詠った絶唱で、長岡さんも繰り返し朗読した作品である。

とし子は大正11年(1922年)11月下旬、冷たい霙(みぞれ)の降る日に亡くなったが、「永訣の朝」はその朝の出来事を描いたもので、やがて「無声慟哭」、「松の針」とともに「とし子挽歌」として詩集『春と修羅』に収められた。

彼女は日本女子大出の才媛で、母校である岩手県立花巻高等女学校の教諭になったが、やがて結核を発病。一年あまりの闘病生活のすえに亡くなった。浄土真宗を信仰する宮澤家にあって法華経を信じる兄賢治のただ一人の理解者、共感者でもあった。

「永訣の朝」は次のような詩である。現代仮名遣いに直し、読みやすくするために途中に適宜空白を入れて引用してみる。


「永訣の朝」


きょうのうちに

とおくへいってしまう わたくしのいもうとよ

みぞれがふって おもては へんにあかるいのだ

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかく いつそう陰惨な雲から

みぞれは びちょびちょふってくる

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜のもようのついた

これらふたつのかけた陶椀に

おまえがたべる あめゆきをとろうとして

わたくしは まがったてっぽうだまのように

このくらい みぞれのなかに飛びだした

   (あめゆじとてちてけんじや)

蒼鉛いろの暗い雲から

みぞれは びちょびちょ沈んでくる

ああ とし子

死ぬといういまごろになって

わたくしを いっしようあかるくするために

こんなさっぱりした雪のひとわんを

おまへは わたくしにたのんだのだ

ありがとう わたくしのけなげないもうとよ

わたくしも まっすぐにすすんでいくから

(あめゆじとてちてけんじや)

はげしい はげしい熱や あえぎのあいだから

おまへは わたくしにたのんだのだ

銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・

・・・ふたきれのみかげせきざいに

みぞれは さびしくたまっている

わたくしは そのうえにあぶなくたち

雪と水との まっしろな二相系をたもち

すきとおる つめたい雫にみちた

このつややかな松のえだから

わたくしの やさしいいもうとの

さいごのたべものを もらっていこう

わたしたちが いっしょにそだってきたあいだ

みなれたちゃわんの この藍のもようにも

もう きょう おまえはわかれてしまう

Ora OradeShitori egumo

ほんとうに きょう おまえはわかれてしまう

ああ あのとざされた病室の

くらい びょうぶや かやのなかに

やさしく あおじろく燃えている

わたくしの けなげないもうとよ

この雪は どこをえらぼうにも

あんまり どこもまっしろなのだ

あんなおそろしい みだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

(うまれてくるたて

こんどはこたにわりやのごとばかりで

くるしまなあようにうまれてくる)

おまえがたべる このふたわんのゆきに

わたくしは いま こころからいのる

どうかこれが兜卒の天の食に変って

やがては おまえとみんなに

聖い資糧をもたらすことを

わたくしのすべてのさいわいをかけて ねがう


手元にある筑摩版『校本宮澤賢治全集』第1巻に、2017121日付けの「読売新聞」の切り抜きがはさんである。記事は「賢治 妹が見た『永訣』」というタイトルで、次のように書きだされている。


「詩人で童話作家の宮澤賢治(1896-1933年)の妹、岩田シゲ(1901-1987年)が賢治や宮澤家にまつわる出来事をつづった回想録が存在することがわかった。「あめゆじとてちてけんじや(雨雪を取ってきてください)」という言葉で知られる賢治の詩「永訣の朝」につづられた、上の妹トシ(1898-1922年)の臨終の様子も詳細に描いている。これまで公になっていなかった回想録は、賢治の実像を身近な家族の視点で伝える貴重な資料といえる。」


シゲは70歳をすぎたころから記憶をたよりに思い出を書き、それを家族がまとめて冊子にしたものが2008年に親族だけに配布されたという。冊子はその後、2017年に蒼丘書林から出版された。

トシが24歳で亡くなったとき、賢治は28歳、シゲは19歳だった。

シゲの思い出――


「大正11年の1127日、花巻はみぞれでした。

急いで病室を出て、賢さんについて、私も下駄をはいて台所口から庭に出ました。ビチョビチョと降る雨雪にぬれる兄に傘をさしかけながら、そこに並べてあるみかげ土台石にのって緑の松の葉に積もった雨雪を両手で大事に取るのを茶碗に受けて、そして松の小枝も折って、病室に入りました。

ほんとうにあの病室は何と貧弱だったでしょう。

高い所に明かり取りにつけた窓は素通しのガラス戸一重で、外の冷たい空気は遠慮なく部屋に入り込みます。

赤くおこした炭火を火鉢に入れて、部屋の隅々においたって、天井は高いし室内が暖まる訳には行きません。

空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。

少しでも空気の動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。

賢治兄さんは何か言いながら採ってきた松を枕元に飾り、お茶碗の雪を少しづつすくって食べさせてあげましたっけ。いつの間にかお昼になったと見えて、関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などをみて行かれました。

父がお医者様とお話ししてこられたのか、静かにかやの中に入ってから脈を調べながら泣きたいのをこらえた顔で、

「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんな苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」と言いました。

としさんは少しほほえんで、

「生まれて来るったって、こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」と甘えたように言いました。

私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎつちり堅くしていたら、父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。

気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。

そして、とし子姉さんはなくなったのです。」(『宮澤賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』、蒼丘書林)


シゲの回想によると、賢治は「永訣の朝」で、この日の朝に起こった事実をほぼそのまま詩にしたことがわかる。ただ霙を一緒に取りに行った妹シゲや「お題目を唱えてあげろ」と促した父の存在は消し去った。信仰で結ばれた同志ともいえるトシが最後にみせた健気な心遣いを際立たせるための文学的措置である。

その夜、市シゲは広い野原で一人花をつんでいる袴姿の姉の夢をみた。賢治は夜中じゅうお題目を唱えていたという。


敬愛する詩人の八木幹夫さんから、メールで連絡をいただいた。「先日、俳人協会で講演し、それを録画したものが「第三回俳句講座 八木幹夫「私と季語」」で検索可能です」とのこと。さっそく拝見した。(https://www.youtube.com/watch?v=SNKxboZnWzs)。俳人はもとより詩の愛好家にも興味深い講演で、ご覧になることをお勧めする。八木さんについては当ブログで、「ライト・ヴァース」(2011・9・25)、「八木幹夫ふたたびⅠ」(2013・10・7)、「八木幹夫ふたたびⅡ」(2013・10・10)として取り上げている。


# by monsieurk | 2023-11-10 09:00 |

堀口大學、晩年のエロス(2)

佐藤正二氏はまた、晩年の大學の詩について次のように書いている。


「晩年の詩で気づくのは、若き日の女性たちとの思い出に浸るばかりでなく、エロスを性愛そのものとして直截的に歌った詩をいくつも書いていることだ。なかには驚くような詩もあり、戦後、ようやく自由な表現が許される世になったことで、残り少ない日々の中で気ままにそして楽しげに、あたかも羽化登仙の境地に至ったかのような詩を書きつづける。こういった表現の自由が許される時代の到来を、大學はおそらく若いころよりずっと待ち望んでいたのであろうし、それだけに死を目前にした日々の中で思い残すことのないようにと、エロティックな詩をつぎつぎに書きつづけたのだろう。」


それらの詩とは次のようなものである。


「病床痴夢」


女あり

ほぞさやか

ほとるつぼ

事に泣く

声や縷々


「至福の時」


八十八年生きて来た

もも度(たび)ち度(たび)まだ飽きぬ

至福の時はあれだった

顔を埋めるほとのへや

枝のわれめの舌ざわり


至福の時はあれだった

八十八まで生きて来て


「愛のあかし」


あれ以外

愛のあかしはないものか

霊長類の人間に

男と女のなしように


身を寄せ合って

さしいれる

吸いうけて

包みこむ

息はずませて

突きたてる

緩 急 徐

移し露交わし合う

霊長類の人間に

愛のあかしはないものか

あれ以外!


「彼女の実印」


惚れました

わきまえもなく

惚れました

あとさきもない

もの狂い

羽化して登仙

無我夢中

火になった肉の実印

あなたのあそこに捺しました

朱肉たっぷり きっぱりと


「その夕」


得をしたのは左の手

春浅い日の

その夕


許されて

神秘の扉おし開き

あなたの胸のやわ肌の

奥深く

紅い嘴(くちばし)とがらせて

棲む「徳」の

一羽に

そっと触れました

二羽で棲む「徳」の一羽に

左の手

天まで昇る心地して

許されて

極楽の春

その夕


佐藤正二氏がいう通り、大學は「最晩年にはこのように誰に憚ることなくエロティックな詩を書きつづけた」のだった。これらの詩は金子光晴の詩集『愛情 69』(筑摩書房、1968 年刊。当ブログ2015 1117)と並んで、老境の詩人が性愛を直截扱ったものだが、それゆえの酷評も聞こえてきた。

ただ、国は『月下の一群』以来の詩業に対して、197911月に文化勲章を授与して顕彰した。


# by monsieurk | 2023-11-05 09:00 |
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31