瀧口修造の蒐集家で研究者の土渕信彦氏から、「瀧口修造―東京ローズ・セラヴィ」展の図録と、展覧会の記念に瀧口の随筆を再編集した『ローズ・セラヴィに』(ともに意匠は林哲夫氏)を送っていただいた。
士渕氏は今年2025年1月に、京都市東山区石泉院町の京町屋を改装して、「ギャラリー点」をオープンした。その開店記念の第二弾として、4月12日から7月27日まで展覧会を開いた。
その際につくられたカタログの冒頭に、「展覧会のタイトル「東京ローズ・セラヴィ」は、1960年代前半に瀧口が構想した架空のオブジェの店の名前で、命名したのはデュシャンその人です。」とある。
詩人にして画家の瀧口修造は、日本のシュルレアリスム運動を牽引した人物である。土渕氏によれば、瀧口は1958年にヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧し、各地を旅行した際、スペインのダリの家でデュシャンに紹介された。帰国後、瀧口はデュシャンら12名の美術家を論じた著書『幻想画家論』(新潮社、1959年)を献呈するなどして交流が続いた。
瀧口は1963年頃から架空のオブジェの店を開くという構想を抱き、64年1月に書簡を送り、レディ・メードの元祖であるデュシャンに、店の名付け親となってくれるように依頼した。このときデュシャンが用いた有名な女性の変名「ローズ・セラヴィ」を例として挙げたところ、あっさりそのまま使用が許可されのだという。
土渕氏は展覧会の開催を期して、瀧口が抱いていた「オブジェの店」を開く構想や、彼が編纂した『マルセル・デュシャン語録』に関するエッセー「ローズ・セラヴィ」に関して書いた文章13篇を再編集して『瀧口修造 ローズ・セラヴィ』を刊行した。そのなかから1篇、「物々控」を抜粋してみる。
「私は世の蒐集家ではない。ガラクタに近いものから、「芸術作品」にいたるまで、すべてが私のところでは一種の記念品のような様相を呈していて、一見雑然として足許まで押しよせようとしている。
それらは市場価値の有無にかかわらず、そこには無関心な独自の価値体系を、頑なにまもりつづけているように見える。
私はそんな「物」たちに、「本」と同じように触れたり、話しかけたりするだろう。
本の幾冊かは、また私にとって市販されている以上の「物」になっている。
しかし近づいてよく見ると、そこに世間公認のカテゴリーから外れたような物たちの一郡のあることに気づく。(中略)
奇妙な話だが、いつの頃からか、私は「オブジェの店」を出すという観念が醗酵し、それがばかにならない固執であると気づきはじめた。いうまでもなく私は企業家や商人とはまったく異なったシステムで、それを考えていたのだ。
私はまずその店名と、看板の文字を、既知のマルセル・デュシャンに依頼すると、彼は快く応じてくれた。こうして、その店の名は“Rrose Selavy”(ローズ・セラヴィ)ということになった。(中略)
こうして、いまは架空だが、「ローズ・セラヴィ」という店の名が、デュシャン自身の命名によって誕生し、いま私は看板を試作中であり、おそらく近日中には少なくとも看板だけは私の書斎に掲げられるだろう。それがまたひとつの物であり、この看板はいったい何を私に照らしだしてくれることだろう。」
フランスの詩人ステファヌ・マラルメは、一時期、究極の「書物(Livre)」がそなえるべき形態について考察をめぐらし、多くの覚書を残した。「本」は印刷された活字を通じてて何かを伝達する役割以前に先ずは「モノ」として存在する。瀧口にとっても同様で、手許にとどまった本、絵、資料をはじめさまざまなモノ(Objet)は、日常の社会的価値や商品価値を離れて、彼の感性と価値観によって選び取られたモノである。
随筆「白紙の周辺」にはこうある。
「私の部屋にあるものは蒐集品ではない。その連想が私独自のもので結ばれている記念品の貼りまぜである。時間と埃をも含めて、石ころとサージンの空缶とインドのテラコッタ、朽ちた葉、ミシヨーの水彩、あるいは「月の伝説」と命名されたデュシャンからの小包の抜け殻、サイン入りのブルトンの灰皿、ムナーリの灰皿、マッチの棒、宏明という商標のある錐――etc, etc. そのごっちゃなものがどんな次元で結合し、交錯しているかは私だけが知っている。
それらはオブジェであり、言葉である。永遠に閉じられず、丁づけされない本。壁よ、ひらけ!」
瀧口の死後、新宿区西落合の自宅に残された一万点におよぶこれらは、いま多摩美術大学の「瀧口修造文庫」、富山美術館「瀧口修造コレクション」、母校慶應義塾大学の「瀧口修造アーカイヴ」などとして収蔵、公開されている。
土渕氏の「ギャラリー点」もその一つだが、店主の情熱を考えれば、ここは「京都ローズ・セラヴィ」と名づけるのが相応しいのではないか。