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ムッシュKの日々の便り

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30年目のショプロン

 1989118日の「ベルリンの壁」崩壊にいたる事態を取材した経緯は、このブログの2011.10.31日と2011.11.032回に分けて紹介した。

東西冷戦に終止符を打ち、東西ドイツをもたらしたこの歴史的な出来事の発端となったのが、オーストリアと国境を接するハンガリー西部の街、ショプロンの郊外で開かれた「ヨーロッパ・ピクニック計画」であった。

 親睦を装った計画は、ヴァカンスを過ごすためにハンガリーに来ていた東ドイツ市民を、国境を越えてオーストリアに逃がすことが目的に、ハンガリーの民主勢力が巧妙に組織したものだった。当時のハンガリー政府もこれを黙認し、国境を閉ざす柵が1時間にわたって開かれ、600人を超える東ドイツ市民が西側に逃れた。

今年2019819日は、あれから丁度30年に当たり、記念式典がショプロンの教会で行われて、ドイツのメルケル首相とハンガリーのオルバン首相も出席した。

AFPその他の外電によると、メルケル首相は、「『ピクニック』は連帯、自由、人道的なヨーロッパという価値観を反映する世界的なイヴェントとなった」と述べ、30年前ハンガリー政府が国境を開放したことに対して、「分断を克服するために協力してくれたことに感謝する」と語った。

メルケル首相のこの発言には、現在のハンガリー政権の政策を強く牽制する意味が込められている。ベルリン壁崩壊をきっかけに西側に復帰したハンガリーは、経済不況など30年間の社会の変化で、2015年に大量の難民がヨーロッパに押し寄せたときには、今のオルバン政権は国境を封鎖して、難民の受け入れを拒否した。これは信念をもって難民受け入れの政策を取り続けるメルケル首相のドイツとは対照的である。

事実、メルケル首相はこの日の教会でも演説でも、「ショプロンは、わたくしたちヨーロッパの人びとが同じ一つの価値観を支持するなら、どれだけのことを成し遂げられるかを示した偉大な例だ」と、連帯と寛容の必要性を強調した。

だがハンガリーのオルバン首相は、式典後の記者会見で、「当時の行動と今日の政策に矛盾はない。われわれの義務は国境を守ることだ」と反論したという。

30年前、激動するヨーロッパの動向を、ブダペストやベルリン(まだ東西に分かれていた)の現場で取材したわたくしには、この30年でヨーロッパの歴史は確実に一巡りしたように思える。


# by monsieurk | 2019-08-21 07:08 | 取材体験

最初の梶井基次郎論

以下が、前のブログで紹介した、「東大教養学部新聞」(1961年・昭和36120日号、第116号)の第4面に、島直治のペンネームが書いた、最初の梶井基次郎論である。


梶井文学の「今日」的問題~特徴的な意識の転位」

 (一)

 かつて萩原朔太郎は梶井基次郎を評して、「彼は肉食獣の食欲で生活しつつ、一角獣の目をもって世を見て居る、稀にみる真の文学者である」と云った。だが小説家としての梶井には、構成力の弱さや小説技法の点で限界があった。

彼が残した作品は、「ある崖上の感情」を例外として、どれも一人称で書かれている。彼はぎりぎりのところまで煮つめられた珠玉のような短編を完成するまでに膨大な草稿を残したが、決って草稿の方が小説的であって、完成された作品は短編小説というより詩に近い。これは彼が人間存在の底に口をあけた虚無の深淵を覗き見た数少ない一人であり、彼の文学が虚無とそこからの脱出をテーマとしていることを考えると、ある意味で必然的であったとも言えるのである。

 梶井の文学は「闇」をめぐって展開する。京都時代には一種の気分でしかなかった彼の退嬰的な傾向は、第三高等学校へ入るとすぐに発病し、三十二歳の若さで亡くなる原因となった肺結核のために一層助長されることになった。そして病のために、現実生活の外に居なければならなかったことが原因で、彼のうちにいつしか「闇」の観念が定着する。「蒼穹」という作品は、梶井が実感として抱いていた「闇」がいかなるものであるかをよく示している。

 ある日、山から雲が湧き出るのを眺めていた彼は、真昼の蒼空のなかに闇が充満しているのを見る。

「突然私は悟つた。・・・なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちてゐるのだといふことを。私の眼は一時に視力を弱めたかのやうに、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがつたこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覺出来なかつたのである。」(「蒼穹」)

 「意力のある無常感」という言葉が「ある崖上の感情」の締めくくりに出てくるが、この言葉ほど、彼が抱いた闇の観念の内実を的確に表しているものはない。だが注意しなければならないのは、梶井の絶望の本質は、「無常感」といった語から感じられる東洋的な諦念とは別のもの、ほとんど正反対のものである。それは闇のなかに、恐怖や不安でいっぱいになった一歩を踏み出すときに感じる、「裸足で薊を踏んづける!」ような「絶望に駆られた情熱、闇への情熱」なのである。

梶井は「蒼穹」と「闇の絵巻」なかで、この同じ絶望への情熱を感じた体験を語っている。

 ある夜、彼は提灯も持たずに大きな闇の中を歩いていると、街道わきの家からもれる光のなかに、突然一つの人影が現れ、やがて彼はその人影が背に負った光をだんだん失いながら、闇に消えてゆくのをじっと見つめる。

「そのとき私は『何處』というもののない闇に微かな戦慄を感じた。その闇のなかへ同じやうな絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、云ひ知れぬ恐怖と情熱を覺えたのである。」(「蒼穹」)

 最初のうち、内心を圧迫する「不吉な塊」から逃れるために、梶井が用いた常套手段は、「丸善の書棚の上に一顆の檸檬をだまつて置いてくる」といったことであり、草稿「瀬山の話」でのように、夜更けに自分の下宿の前に立って自分の名前を呼び、「瀬山さん、電報」と叫んで逃げ出すといった企みであった。だが漠然とした不安が、闇――それは死の予感に他ならない――という、背をじりじり焼くような絶望感へと深まるにつれて、幻想を意図的によび起すことによって意識の転位を可能にし、これを習慣化することで、一瞬の恍惚感を得るというように変化していった。

 (二)

 梶井の特徴として、その独特の感性に動きを語るとき、決まって引用されるのが、「ある心の風景」の、「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ。」という一節である。

「城のある町にて」では、梶井は純粋に視ることを楽しんでいる。本来「視る」という認識作用は、客体としての視られる対象物の実在性を措定していて、こうした意識状態を保つ限り、外界はもっぱら具体的で感覚的なものとして現前し、視る者の内面はそれと微妙に感応しあう。そしてそこから新鮮な感動が生まれてくる。こうした類の優れた描写は、梶井の作品のいたるところに見られる。

「サヽヽヽと日が翳る。風景の顔色が見る見る變つてゆく。

遠く海岸に沿つて斜に入り込んだ入江が見えた。――峻は此の城跡へ登る度、幾度となくその入江を見るのが癖になつてゐた。

海岸にしては大きい立木が所どころ繁つてゐる。その蔭にちょつぴり人家の屋根が覗いてゐる。そして入江に舟が舫つてゐる氣持。

それはただそれだけの眺めであつた。何處を取りたてて特別心を惹くやうなところはなかつた。それでゐて變に心が惹かれた。

なにかある。本當に何かがそこにある。と云つてその氣持を口に出せば、もう空ぞらしいものになつてしまふ。」(「城のある町にて」)

 だが、梶井の意識がこのように知覚の領域にとどまっていて、対象と平衡を保っている例は稀である。始終心を抑えつける「不吉な塊」、倦怠や理由の分からない焦燥から逃れるためには、意識を対象の束縛から解き放って幻想を生み出さなければならない。

梶井の幻視は、「物質の不可侵性を無視して風景のなかに滲透し」(「闇への書・第二話」)、あるいは「物理学の法則を破壊」して発動する。このとき梶井の眼はもはや対象物を視るのではなく、全的な視像(ヴィジョン)で覆われる。こうした意識の転位の過程を、「筧の話」は鮮やかに描いている。

 心がわけても静かだったある日、「私」は杉林の間の一本の古びた筧の水音に、不思議な魅惑がこもっているのに気づく。

 「この美しい水音を聴いてゐると、その邊りの風景のなかに變な錯誤が感じられて来るのであつた。・・・筧といへばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横へてゐるい過ぎないのだつた。「そのなかかだ」と私の理性が信じてゐても、澄み透つた水音にしばらく耳を傾けてゐると、聴覺と視覺との統一はすぐばらばらになつてしまつて、變な錯誤の感じとともに、訝しい魅惑が私の心を充して来るのだつた。

 ・・・そして深〔ママ〕秘はだんだん深まつてゆくのだつた。私に課せられてゐる暗鬱な周圍のなかで、やがてそれは幻聴にやうに鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあつあつと思つた。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるたまではなかつた。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかつたのである。何といふ錯誤だらう! 私は物體が二つに見える酔つ拂ひのやうに、同じ現實から二つの表象を見なければならなかつたのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負つてゐた。」(「筧の話」)

 さらにまたあるときは、梶井の意識は「束の間の閃光」を求めて、不在の対象物を志向し、自ら進んでイマージュを構想しようとする。

 「彼はよくうつ伏せになつて両手で墻を作りながら(それが牧場の積りであつた)

「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と云ひながら弟をだました。両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上に暗黒のなかに、さう云へばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだつた。」(「城のある町にて)

 このようにして得られる精神の緊張は、一瞬美的光芒を生み出すが、それは決して長くは続かない。事実、「筧の話」の主人公が感じる生命の輝きも束の間のものでしかなく、はっきり見ようとした途端、幻覚はまたもとの退屈な現実に帰ってしまうのである。こうして梶井はまた元ののっぺらぼうな現実世界を前にして絶望を感じる。

 現実とは畢竟、サルトルが「想像力の問題」で検証したように、美しいものではありえず、そこに課せられているのは永遠の退屈、一度、幻暈にも似た陶酔を体験した精神にとっては、一層その度合を深めた倦怠でしかない。そのために梶井は、現実の出来事や対象を前にしていつしか審美的な態度をとるようになる。こうした梶井の性向については、伊藤整が『若い詩人の肖像』で、興味深いエピソードを伝えている。

 梶井は昭和四年ごろから、マルクスの「資本論」を読み、手紙に「その面白さはトルストイ以上だ」と書いている。そして遺作となった「のんきな患者」では、社会性をもった小説を目指そうとした兆候が現れるが、梶井自身は自ら本質を別のものと考えていたように思える。彼は昭和二年十二月の北川冬彦宛ての手紙でこう述べている。

 「僕の観念は愛を拒否しはじめて、社會共存から脱しようとし、日光よりも闇を嬉ばうとしてゐる。・・・然しこんなことは人性の本然に反した矛盾で、對症療法的で、ある特殊な心の状態にしか價値を持たぬことだ。然し僕はそういつた思考を續け、作を書くことを續ける決心をしている。」

ここには不治の病のために、「變轉の多かるべき二十七歳にして」、なにもせずに療養先の湯ヶ島にわが身を埋めてしまっている現状への不安が影を落としている。そうした特別の事情があったにせよ、梶井のこの決意は最後まで変らなかったように思える。

 梶井という人は、おそらく彼が抱いた幾つかのイメージに一生を賭けたのである。彼の文学の唯美的な傾向は、日本の近代文学に先例を見ず、その精神風土は直接フランス象徴主義の文学に連なっている。人は梶井におけるボードレールの影響をうんぬんするが、それは影響というよりは、両者の精神構造の似通っていたことの結果なのである。

 私たちは梶井の作品から戦慄にも似た感動を読みとる。だがそれと私たちが現実を前にして、梶井と同じように美にすべてを賭けるわけにはいかない。恐らくそれは資質の違いを超えた、「今日」という時代の問題なのであろう。(「東大教養学部新聞」、一九六一年(昭和三十六年)一月二十日号)

 最後の段落に、激しかった政治の季節の終わりを迎えていた、当時の感慨がにじんでいる。


# by monsieurk | 2019-08-16 11:08 |

東大教養学部新聞

駒場の教養学部に在学中は、「東大教養学部新聞」に所属して、毎月一回刊行する新聞づくりに熱中した。この時代の「新聞会」については、東京外国語大学名誉教授で、学問論・思想史が専門の上村忠男氏が、『回想の1960年代』(ぷねうら舎、2015年)で次のように書いている。

「新聞会の部屋の扉を叩いたのは〔1960年〕426日の国会デモに出かけた直後ではなかったかとおもう。(中略)

新聞会では、編集長の柏倉康夫を中心に、1959年入学組の2年生10名ばかりが活動していた。・・・これにわたしのほか、・・・1960年入学組10数名が新たに加わって、喧々諤々の議論、部室はいつも活気に満ちていた。

議論は時として激することもめずらしくなかった。なかでも、ブントに所属していた中垣行博が、編集部員の担当する「射影」という一面下のコラムで、日本共産党内の構造的改革派の論客の一人として知られる安東仁兵衛の426デモ当日の行動を批判する記事を書いたさいには、どうやら共産党内で安東らの構造的改革路線に同調する立場をとっていたらしい後藤仁がクレームをつけ、一座の空気が一瞬凍りついてしまったことがあった。1127以降顕著になりつつあった全学連内部における主流派と反主流派の対立は、新聞会の部員たちのあいだでの議論にも折に触れて顔をのぞかせていたのだった。」

1960615日に、新安全保障条約が自然承認された夜、国会を取り巻いて抗議のデモを行っていた私たち学生のなかで、樺美智子さんが警官隊との衝突で犠牲になった。私たちの「東大教養学部新聞」も、6月20日号(第109号)の4面すべてを、6・15当日の行動と樺美智子さんの死に割いた。

第1面では、「血塗られた6・15闘争」、「警棒に倒される学友」、「だがぼくらは民主主義を守る・・・」と3本の4段見出しを並べ、記事は、「6月15日東大教養学部では前日の自治委員会決議にもとづき、約千人が陰うつな天候の中を国会正門前に向い、地方から駆けつけた学生も含めた約1万2千人とともに午後4時ごろより国会でもに入った。」と書き始められている。そして午後6時ごろ、機動隊との衝突のなかで一人の女子学生が亡くなった。それが樺美智子さんだった。

新聞の4面には、東洋史の上原淳道助教授に依頼した記事、「劉和珍さんと樺さんと、樺美智子さんを祈念して」が載っている。

上原さんは記事の最後を、「編集部は樺さんの死のもつ意味、その死のもたらす影響、ないしその死から汲みとるべき教訓などについて私に書いてもらいたいらしい。だが私はそれをやめようと思う。樺さんは明確な目的と尖鋭な意識とをもって行動しているうちに権力によって殺されたのであり、その死は岸政府とアメリカ帝国主義とに大きな打撃を与えた。しかし樺さんを英雄にまつりあげたりしてはなるまい。その死を讃美してはなるまい。その死を讃美したりする動きのなかには、若者を利用しようとする「世間の大人」や「世俗の政治家」のずるさがほのみえる。そのようにずるい大人や政治家んこそ、樺さんはもっとも激しく憎んだにちがいないからである。」

その後夏休みになると、闘争に加わった学生たちは、安保反対運動の経過を地方の人たちに説明するための「帰郷運動」を行った。だが皮肉にも、安保反対闘争の熱は夏休みを境に急速に冷めていった。

 政治一色だった東大教養学部新聞も、反安保の運動の総括をするとともに、文化面にも力を入れることになった。その一弾として、当時京都の同志社大学教授だった矢内原伊作氏に原稿を依頼したのである。矢内原氏は1955年(昭和30年)から足掛け3年間、フランスの彫刻家アルベルト・ジャコメッティのためにポーズをし、その経験をもとに雑誌「みずゑ」の昭和3411月号から翌年1月号にかけて、「ジャコメッティ論」を連載していた。その体験をあらためて書いてもらおうとしたのである。

一度は承諾していただいたが、原稿の締め切り直前になって、どうしても書けないと断りの葉書が舞い込んだ。文化欄を空けたまま新聞を出すわけには行かない。それを埋めるのは編集長の役目だということになり、2日で書き上げたのが私の梶井論である。最後は新橋にあった印刷所の片隅で書いたことを覚えている。このように、私が梶井基次郎について書くことになったのは、まったくの偶然からだった。

この時に書いた「梶井文学の「今日」的問題~特徴的な意識の転位」は、次回のブログに掲載するが、いま読み返してみると、若書きの気負ったものだが、私の梶井理解の枠組みは、「のんきな患者」の評価を別にすれば、ここに提示されていることが分かる。

 梶井の文学を考える上で、私がもっとも影響を受けたのは、昭和34年(1959年)に発表された安東次男氏の「幻視者の文学」であった。安東氏は梶井の本質を、「物質に不可侵性を無視する」という言葉をキーワードに、ボードレール以降の文学に連なる幻視者(ヴィジオネール)と捉えるものであった。

当時、ステファヌ・マラルメについての論文を準備し、そのかたわらウルグアイ生まれの詩人シュペルヴィエールの詩やコントを愛読していた私にとって、わが意を得た思いであった。

 安東次男氏に直接お目にかかったのは、本郷に進んだ昭和364月中旬だったと記憶する。この年の「5月祭」にフランス文学科の有志と講演会を企画して、講師を引き受けてもらうべく世田谷のお宅を訪問した。安東氏は私たちの申し出を承諾してくれ、その後話は梶井のことになった。

私が「幻視者の文学」に感銘を受けたこと、その影響のもとに小論を書いたことを伝え、安東氏の本格的な梶井基次郎論を読みたいと云うと、「一度書いたものを再度取り上げるのは難しいものだ、それほど関心があるなら、君が書いてはどうか」と勧められた。だがそれはなかなか果たせなかった。

 「『青空』の青春」を雑誌「文芸広場」に書き始めたのは、1984(昭和59年)4月号からである。連載は1990年(平成2年)12月号まで82回におよんだ。毎回、400字詰め原稿用紙30枚ほどを毎月かかさず書いた。この間2度目のパリ特派員の勤務があり、198911月にはベルリンの壁が崩壊して、ヨーロッパの大変動が起ったが、このときもベルリンで歴史的転換を取材しつつ、夜はホテルで梶井論を書いてFAXで東京の出版社に送りとどけた。だがこれだけの時間をかけても最後まで書ききることはできなかった。「文芸広場」の連載の最後をこんな言葉で結んでいる。

 「69ヶ月に及んだ連載を一度これで中断することにする。雑誌の紙面縮小による編集部からの要請である。これまでに400字詰めで2000枚をこえたが、梶井の文学生活はまだ終っていない。機会を改めて、この後も梶井を追い続けていく積りである。

 梶井は昭和35月に上京し、飯倉片町の堀口方に落ち着くと、ふたたび創作の筆をとる。昭和7年、32歳の生涯を終えるまで、あと4年の歳月が残されている。」

 「文芸広場」への連載は、梶井が14ヶ月続いた湯ヶ島滞在を切り上げるところで終った。そしてその後この連載の前半部分を切り詰めたものを、「梶井基次郎の青春 『檸檬』の時代」と題して、1995年(平成7年)に丸善出版から上梓し、続いて第2部を出版すべく原稿を丸善出版部に渡していたが、編集者が亡くなったこともあって、出版は実現しなかった。

 一度中断した執筆を再開するのは容易ではなかった。そして私の方にも環境の変化があった。1996年(平成8年)2月にはNHKを退職して、京都大学文学研究科に教授として赴任し、6年間京都に住んだ。

京都で借りた最初の家は北白川西町の京大農学部のそばで、梶井が「檸檬」の草稿である「瀬山の話」を書いた下宿、澤田三五郎宅とは目と鼻の先にあった。早速訪ねてみると、梶井が居た当時の下宿は取り壊されて、学生相手のマンションに変わっていたが、玄関の脇には、「檸檬」を記念するようにレモンの若木が植えられていた。

 梶井がレモンを買った八百卯、丸善、鎰屋、丸山公園下のカフェ「レーヴェン」などはみな姿を消したが、彼が雪のなかを若王子まであるいた疎水の道や、古本を買った寺町の尚文堂は代替わりこそしたものの同じ場所で店を開いていた。

 梶井基次郎の続きを書きはじめたのは、2009 (平成21)3月、その後に転じた放送大学も退いて、しばらくフランスに滞在していたときである。後半の第4部、第5部をおよそ2ヶ月で書き終えることができた。

閣筆は628日。「文芸広場」への連載開始から数えれば、25年目のことである。これは『評伝 梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』として、20108月に左右社から刊行することができた。


なお、1960年の闘争の経緯については、東大教養学部新聞会の仲間だった故小塚直正氏が編纂したCD-ROM『Once upon a Time, Memories of 1960』が詳しい。内容は、0「目次」、1「1960年6月の新聞雑誌」、2「安保闘争それぞれの現場」、3「全学連ブントの証言」、4「安保世代20年後の人生」、5「1960年の学生社会世相」、6「いわゆる文化人たちの安保」、7「訣別」、8「全学連反主流派の60年安保」、9「1960年代の芸術」と豊富で、資料としてはなはだ貴重である。

上に引用した「東大教養学部新聞」1960年6月20日号も全4面が収録されている。


# by monsieurk | 2019-08-13 15:03 |

わがマドンナ

最近、アルベール・カミュの初期のエッセー『結婚(Noces)』を翻訳して、私家版として100部限定で刊行した。その「あとがき」で次のようなことを書いた。


昔から良い作品や文章を読んだとき、感動の証に背筋が震えることがときどきある。その最初の経験が、高等学校のときに読んだアルベール・カミュの『結婚』だった。古文の授業時間に教科書に隠すようにして読んでいて、突然背中がブルッとふるえた。

90ページほどの本には、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」、「砂漠」の4篇の詩的エッセーが収録されていて、冒頭の「ティパサでの結婚」の印象はとくに強烈だった。これらのエッセーに共通するのは、アルジェリアをはじめとする地中海地方に特有の大地、輝く太陽、青い空、吹き渡る風、芳香を放つ色とりどりの花····こうした世界の美しさを肌で感じつつ、今この時を生きることへの讃歌である。

カミュはのちに書く『シーシュポスの神話』のエピグラフに、古代ギリシアの詩人ピンダロスから、「ああ、わが魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、可能なものの領域を汲み尽くせ」という言葉を引用するが、この一行こそ『結婚』の内容を要約している。若かった私が深く感動したのも、こうした生き方に共鳴したからに違いない。

「ティパサでの結婚」を初めて読んでから凡そ65年、窪田啓作、高畠正明両氏の既訳があるが、あえて自分なりの翻訳をこころみた次第である。


この「あとがき」を読んでくれた知人から、「どんな高校生だったのか想像している」というメールが届いた。

古文の時間に「内職」してカミュを読んでいたのは、都立日比谷高校の2年生の春だった。当時の日比谷高校は変わった学校で、1学年は男子300人、女子100人で、これを8つのクラスに分けるのだが、気心が知れた2年生からは、クラス編成はすべて生徒の自由にまかされていた。唯一の条件は、1クラスを男子は38名、女子12名で構成するというものだった。私たちは、野球部とラグビー部を中心に男子38名が集まり、女子12名をスカウトすることにした。

 難航が予想された女子の口説き落としは、始めてみると12名がたちまち集まり、どのクラスよりも早くわが「22ルーム」は出来あがった。わたしが所属していた野球部は、毎年部員が112名しかおらず、旧女子高にも負ける弱小チームだったが、ラグビー部の方は、ラグビーの名門、保善高校に次ぐ東京都の第二代表として花園の全国大会にも出場したほどの実力があった。12名の女子獲得の原動力は、野球部ではなくラグビー部なのは明らかだった。

 日比谷の特徴は学生の自主性が大いに尊重されていたことである。一回100分の授業時間も、学校側から生徒会に諮られて、学生の同意のもとに実行された。授業でも英語は、教科書よりも副読本の講読に重点が置かれ、1年生のときは、イギリス人作家ゴールズワージーの『林檎の樹(The Apple Tree)』、2年はジェームズ・ヒルトンの『チップス先生、さようなら(Goodbye, Mr.Chips)』を一年かけて読み終えた。他の教科も同様で、2年生のときの社会科のテクストは『経済学入門』で、これを「原爆許すまじ」の作曲家、木下航二先生に講義してもらった。いまでも緑色の分厚い本を覚えている。

 だからと言って学生はいわゆる「ガリ勉」ではなく、昼休みには当時流行ったフォークダンスをほぼ全校の生徒が踊り、放課後も遅くまで、テニス、野球、ラグビー、演劇、新聞部などの部活を楽しんだ。フォークダンスといえば、図書館前の大きな樹の下に佇んで、いうも眺めている女生徒がいた。それが後の塩野七生さんだった。

 2年生のとき、授業を二日間休みにして、「君が代」を歌うかどうかで全校集会が開かれたことがあった。さまざまな意見が出るなか、「君が代の君は、僕と君の君だ」と発言して罵倒される者もいた。激論の結果、学校内では「君が代」を歌わないことになったと記憶している。このときも学校側からは何の干渉もなかった。

 高校時代の3年間、力を入れたのはフランス語の修得だった。中学生からフランス映画のファンだったわたしは、日比谷に入学すると英語の授業の他にフランス語(日比谷では希望者に第二外国語としてフランス語とドイツ語を週一回教えた)を履修したが、これでは足りずに、お茶の水の「文化学院」のなかにあった「アテネ・フランセ」に通い、華やかな女性に混じって、一人詰襟の学生服を着てフランス語を習った。最初の先生はフランス大使館の参事官夫人のマダム・レダンジェで、小柄で美しい夫人に見とれながら、フランスの詩を読んだ。授業は一度も欠席しなかった。フランス語さえ出来れば、やがて映画で見るようなフランス女性と知り合えると信じていたのである。

 当時のお気に入りの女優は、ジャン・ドラノア監督の『愛情の瞬間(La Minute de Vérité)』(1952)のミシェル・モルガンだった。映画は医師(ジャン・ギャバン)とその妻(ミシェル・モルガン)、それに若い絵描き(ダニエル・ジェラン)の三角関係の悲劇を描いたもので、3、4回映画館に通った記憶がある。

 スクリーン上のマドンナがミシェル・モルガンだとすれば、生きている「わがマドンナ」は、一学年下の井林愛子さんだった。学年が違うから同じクラスにはなれなかったが、教室の席はあいうえお順で、頭文字が「か」の私の席は2年、3年と窓際だった。古文の時間の内職のほかに、彼女が校庭で運動をしているときはその姿ばかり眺めていた。

 1957(昭和32)3月、こちらが卒業というとき、思い切って写真を撮らせてほしいと頼むと、井林さんは正門の所でポーズをとってくれた。ところが現像してみると、顔のところに何やら他のものが写っている。慌ててシャッターを切ったために、フィルムを巻くのをを忘れた結果だった。いまのデジタル写真とは違って現像に時間がかかり、失敗に気づいたのは卒業式のあとで、時すでに遅し、二度と撮り直しはできなかった。

 ところが最近になって、17歳の井林愛子さんの写真を見ることができたのである。Googleで検索していると、「思い出のアルバム」(akikaneko.sakura.ne.jp/idlezz.himl)というサイトに、17歳の井林さんのポートレートが載っているではないか。

「アルバム」の著者が写真に添えたコメントによれば、彼女は私のみならず、「日比谷の生徒全員のアイドル」だったという。つまり「わがマドンナ」ではなく、「われらがマドンナ」だったわけである。同じサイトでは、2017年に井林さんと同級だった人たちが、彼女の義弟が本所吾妻橋で開いているフランス料理の店「トライアール(TriR)」に集まったときの写真も見ることができた。これが60年数年ぶりに再会した井林愛子さんの写真である。


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# by monsieurk | 2019-08-09 14:57 | 映画

マラルメの肖像作品


 詩人ステファヌ・マラルメの肖像については、多くの画家、彫刻家、写真家が作品を残している。その代表的なものを集めた展覧会『マラルメの肖像~マネからピカソまで~』が、2013年に、「県立マラルメは博物館」で開かれたことは、このブログで紹介したことがある(2014.04.092014.05.21まで15)

これから紹介する3点の肖像は、これとは別に、必要や趣味で独自に制作してもらったもので、1点を除いて披露するのは、これが初めてである。

先ずはすでに発表した1点で、1994年(平成6年)9月に丸善出版社から出版した、『マラルメの火曜会~世紀末パリの芸術家たち~』の表紙絵である。

マラルメの有名な火曜会の様子を扱った一冊で、そこに集った詩人、作家、画家たちとマラルメとの交流を描いたものだが、画家の中地智氏は、1876年にマネが描いた《マラルメの肖像》を参考にした詩人の横顔を、印象的な赤の線で描き、その周囲に、この本に登場する、画家のマネ、作曲家クロード・ドビッシー、女友だちのメリー・ローラン、娘のジュヌヴィエーヴを囲む娘たち等々の絵や写真をコラージュして制作してくれた(21.7cm×17.5cm)。

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この本は有名な「マラルメの火曜会」の実態を初めて詳しく紹介したものとして好評だったが、出版社の都合でながらく絶版だったが、今年20197月、丸善出版から25年ぶりに電子本として刊行された。この際に誤字などを若干修正して、今後はいつまでも読んでいただけることになった。中路氏制作の表紙絵もそのまま再現されている。といった

2点目は切り絵作家、浜田夏子さんに依頼して特別に制作してもらった作品で、黒く浮き出した線はすべてつながっている。浜田さんと出会ったのは、千葉の幕張ベイタウンにある画廊「KiKi」の展覧会であった。当時は幕張に本部がある放送大学に勤務していて、自宅から通うのには片道2時間以上かかり、大学にも近い幕張ベイタウンにマンションを借り、週末に自宅へ戻るといった生活だった。

高層マンションが幾棟も立ち並ぶ幕張ベイタウンは、学校、幼稚園、さまざまな飲食店などもあり、快適な居住空間だった。わたしたちのマンションがあったパティオス20番街の1階には、「ヴァン・ウタセ(打瀬20)」と地名をそのまま店の名前にしたフランス料理屋があり、夕食前には階段を降りて、アペリティフとお好みの前菜を頼むといった贅沢もできた。

画廊「キキ」は3ブロック先のパティオス17番街にあり、若手の作家の作品を紹介することに力を入れていた。2005年の春だったと記憶しているが、画廊をのぞくと、切り絵の作品が展示されていた。1.5メートル×2メートルはある大作で、さまざまの表情をした人物50人ほどの半身像が、どれも同じ大きさに切り出されたものが連ねられた作品だった。登場人物はすべて作者が出会った人たちだという。画廊の経営者にきくと、作者はまだ若い女性の切り絵作家とのことだった。早速紹介してもらい、数日後に画廊でお目にかかった。

浜田さんは当時、京葉線の二駅先の稲毛海岸に住んでいて、何回か打合せをしたあとで、写真家ナダールが1895年に撮影したマラルメの肖像写真をもとに、この《切り絵、マラルメの肖像》(15.6cm×10.6cm)を作ってくれたのである。晩年を迎えたマラルメだが、ナダールの写真以上に鋭さがこもっていて、大変気に入っている。

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その後、放送大学を退職し、幕張からは離れたこともあって、浜田夏子さんとは連絡が取れていないが、切り絵作品の制作を続けておられるだろうか。

3点目は京都の「三楽会」で篆刻まねごとを習っていたとき(ブログ「京都三楽会」2019.07.12参照)の師匠である中尾滋男さんに頼んで彫ってもらぅた《マラルメの横顔》(5.6cm×7.3cm)である。これも1895年ころのナダールの写真をもとに制作していただいた。これもマラルメの特徴がよく出ていている上に、マラルメの肖像の篆刻はおそらく世の中にこれ1点だと思う。

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# by monsieurk | 2019-08-05 21:35 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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