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ムッシュKの日々の便り

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浜口陽三作品

 「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」の学芸員、神林菜穂子さんから新刊の一冊を紹介された。デンマークのキュレーターで、日本版画の研究者であるマレーヌ・ワーグナー(Malene Wagner)さんの近著、《Modern JapanesePrintmakers: New Waves and Eruptions》(Prestel PubLondon2026)》(「現代日本の版画作家たち 新しい波と噴出」)である。
 ワーグナーさんは2歳のときに両親に連れられて、日本、韓国、中国を旅行した経験があり、8歳のときには父から日本の茶碗をもらい、それを壊してしまったが、金つぎをしていまも大切にしているという。
 長じてコペンハーゲン大学で日本美術史を学び、大学院のときに研究テーマを版画にしぼり、浮世絵をはじめ日本版画のコレクションをはじめた。
 ワーグナーさんが特に関心を抱いたのは、195年に渡辺省三郎が提唱した「新版画」とよばれるジャンルで、吉田博や川瀬巴水などが代表的な作家である。20世紀以降の日本版画は西洋美術から多くの影響をうけ、さらに西洋のアートが日本の版画から影響をうけている二重構造が興味深いという。
 今度の本では、日本の版画界の巨匠として、浜口陽三が藤田嗣治と並んで取り上げられ、代表作の複製とともに多くにページがさかれている。
 以下に浜口陽三を紹介した部分を引用してみる。


 Asthe “'master of the colour mezzotint”, Hamaguchi Yōzō was a pioneer in thefield of graphic art and an accomplished printmaker. With his distinctivetechnique he created semi-surreal still-lifes of common everyday objects,vegetables, fruits and insects emerging from a mist into the light, tactile yetlike dreamvisions.
 Hamaguchiwas born in Wakayama prefecture in 1909 into a family that ran a soy sauceproduction business (his father was the tenth-generation president of theYamasa Corporation, a company that has been running since 1645). But Hamaguchileft the family business to pursue sculpture at Tokyo School of Fine Arts in1927. However, in 1930 he also left university and moved to Paris to study oilpainting, watercolour and copperplate printing. He made his first copperplateprint, Cat, in 1937, and the following year he had his first solo show inParis.
 Hamaguchireturned to Japan on the brink of the Second World War, working as aninterpreter for the Japanese government. While in Japan, he had his firstone-man show of copperplate prints at Formes Gallery in Tokyo. He returned toFrance in 1953, the year he also became a member of the Japan Print Asso-ciation, giving his full attention to printmaking.
 Itwas during his second 'Paris chapter', at the age of 46, that Hamaguchideveloped an original copperplate engraving technique for producing colourmezzotints: 'In 1955, Hamaguchi was capable of over-printing four differentmezzotint plates, inked in yellow, red, blue and black respectively, to createa full colour intaglio print. Roofs of Paris from 1956 is an early example ofHamaguchi's colour mezzotint with its subtle tonal qualities that process,became his trademark.
 In1955, Hamaguchi became a formal member of the Salon d'Automne and, followinghis success in developing the new technique, participated in sever- alinternational art exhibitions. The year 1957, too, was an important one forHamaguchi - he received the Tokyo National Museum of Modern Art Award at thefirst International Biennial Exhibition of Prints and participated with five mezzotintsin the 4th São Paulo Biennial, where he became the second Japanese artist to bea prize-winner since the biennale's beginning in 1951.
 Hamaguchiexhibited at the Venice Biennale in 1960 with 22 mezzotints, in- cluding TwoCherries (1957). A year later, he received the Grand Prix at the 4thInternational Exhibition of Graphic Arts, Ljubljana; he also showed with theCWAJ in 1964-66. His work was featured in the book Modern Prints (1970) by PatGilmour and was part of the exhibition Contemporary Japanese Prints at LosAngeles County Museum of Art (1972). He designed the poster for the 1984 WinterOlympics in Sarajevo, and in 1985 Hamaguchi's first solo exhibition, whichcontained over 160 prints, was held at the NationalMuseum of Art in Osaka.
In international artist who spent mostof his adult life outside the country of his birth, having moved from France toSan Francisco in 1981, Hamaguchi eventually returned to Japan in 1996, fouryears before his death. The Musée Hamaguchi Yozo was founded in Tokyo in 1998by the Yamasa Corporation. The museum also shows works by Hamaguchi's wife,Minami Keiko (1911- 2004), a true pioneer who was also a printmaker.


「《カラーメゾチントの巨匠》と称される浜口陽三は、版画芸術の分野における先駆者であり、卓越した銅版画家であった。彼は独自の技法により、日常の身近な品々――野菜や果実、昆虫など――を主題に、現実を半ば超えた静物画をつくりだした。霧の中から光へと静かに浮かび上がるそれらのモチーフは、触覚的な実在感を備えながらも、どこか夢の幻影のような気配を湛えている。
 浜口は1909年、和歌山県に生まれた。家業は醤油醸造であり、父は1645年創業のヤマサ醤油株式会社の第十代社長であった。しかし浜口は家業を継がず、1927年に東京美術学校に入学し彫刻を学ぶ。やがて1930年に同校を離れ、パリに渡り、油彩画、水彩画、銅版画を学んだ。1937年には最初の銅版画《猫》を制作し、翌1938年にはパリで初の個展を開催している。
 第二次世界大戦の勃発直前、浜口は日本へ帰国し、日本政府の通訳として勤務した。この時期、東京のフォルム画廊において銅版画による初の個展を開催している。1953年に再びフランスへ渡り、同年日本版画協会の会員となり、本格的に版画制作に専念するようになった。
 46歳の時に迎えたこの「第二のパリ時代」に、浜口はカラーメゾチントのための独自の銅版技法を確立する。1955年には、黄・赤・青・黒のインクをそれぞれ刷った四枚のメゾチント版を重ね刷りすることによって、フルカラーの凹版画を制作する技術を完成させた。1956年の《パリの屋根》は、この新たな技法による初期の代表作であり、後に彼の代名詞となる繊細な色調表現がすでに顕著に現れている。
 1955年、浜口はサロン・ドートンヌの正式会員となり、新技法の成功を背景に、国際的な美術展へと活躍の場を広げていく。1957年には、第1回東京国際版画ビエンナーレにおいて東京国立近代美術館賞を受賞し、さらに第4回サンパウロ・ビエンナーレにメゾチント5点を出品、1951年の同展創設以来、日本人として二人目の受賞者となった。
 1960年にはヴェネツィア・ビエンナーレに参加し、《二つのさくらんぼ》(1957年)を含む22点のメゾチントを出品する。翌1961年には第4回リュブリャナ国際版画展でグランプリを受賞し、1964年から66年にかけてはCWAJ版画展にも出品した。1970年にはパット・ギルモアの著書『Modern Prints』に作品が紹介され、1972年にはロサンゼルス・カウンティ美術館の展覧会「ContemporaryJapanese Prints」にも出品されている。1984年にはサラエボ冬季オリンピックの公式ポスターを制作し、1985年には国立国際美術館(大阪)において160点以上の版画を集めた大規模な個展が開催された。
 国際的な芸術家として、その生涯の多くを国外で過ごした浜口は、1981年にフランスからサンフランシスコへ移り、1996年に日本へ帰国した。2000年に逝去。1998年にはヤマサ醤油株式会社により東京にミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションが設立されている。同館では、浜口の妻であり優れた版画家でもあった南桂子(19112004)の作品も紹介している。」


浜口陽三の経歴の紹介は簡にして要を得ており、浜口芸術の神髄を、〈With hisdistinctive technique he created semi-surreal still-lifes of common everydayobjects. 彼は独自の技法により、日常の身近な品々を主題に、半ば現実を超えた静物画をつくりだした」としているが、まさに適評である。
 浜口さんは生前、イギリスの『エンサイクロペディア・ブリタニカ』のなかで、「メゾチントの改革者」として紹介されたことを誇りにしていた。英文の紹介がまた一つ加わったわけで、神林さんの言葉を借りれば、「浜口さんが少しずつパリへ戻っていく」ように思われる。
 浜口さんは代表作の多くをパリで制作し、老舗の印刷工房「ルブラン」の信頼していた職人に刷りを依頼していた。「ルブラン」は残念ながら廃業したが、「ミュゼ浜口陽三」の神林菜穂子さんは、かつて浜口作品を刷った経験のある刷り師を探し出して、保存されていた《蝶》の原版を用いて刷りの再現を依頼した。この様子を撮った映像と、当時の様子を語ったインタビュは、「ミュゼ浜口陽三」で公開された。
 このように浜口さんとパリは切っても切れない関係であり、浜口作品の全容を示す回顧展が、「故郷」といえるパリで開かれるのを待つことしきりである。


当ブログに書いてきた「マラルメ」に関する文章から適宜選んで本にすることになった。その作業のためにブログへの投稿を暫時休止することにする。ご容赦願いたい。M.K.


# by monsieurk | 2026-04-15 09:00 |

デザイナー、二人

ピエール・カルダン氏に会ったのは、写真家の高田美(たかた・よし)さんの伝手だった。

高田さんは明治の豪商、高田商会の高田慎蔵の孫として1916年に生まれた。1954年に単身パリにわたり、撮影のためにパリを訪れた木村伊兵衛の通訳をつとめたのがきっかけで、写真家としてのキャリアをスタートさせた。パリを舞台に人びとの姿を撮って写真集を出版した。アンリ・カルティエ=ブレッソンやドアノーたち著名な写真家と交流し、彼らの作品を日本に紹介した。

1955年には、ピエール・カルダン氏のアトリエで撮ったファッション写真が気に入られて、彼の右腕といわれるようになった。カルダン氏はオート・クチュールのほかに男性の既製服のブランドも立ち上げ、日本でも「カルダン・ブランド」は流行になった。

特派員として最初に駐在した1970年ころ、高田さんは共同通信社とも仕事をしていて、カルダン氏に紹介してくれたのだった。

カルダン氏はすでにパリ・ファッションの大御所だったが、日本好きで気さくな人柄は変わらなかった。幾度か会ううちに、フランスの繊維業界はユダヤ人が握っているから、パリでやっていくには、スタッフに必ずユダヤ系の人を入れる必要があるといった裏話を色々と聞かせてくれた。

イタリアのデザイナー、ジョルジョ・アルマーニ氏とのインタビューが実現したのは、19895月のことである。NHKではこの年の6月から、衛星放送を本格的に開始する記念に、日本でも人気の「アルマーニ」を紹介する番組を制作することになった。そのためミラノでのファッション・ショーと本人のインタビューを取材してほしいと言ってきた。話はすでにアルマーニ側とついているとのことで、アルマーニのパリの店から服が送られてきた。春らしい黄色みを帯びた白の上下で、取材のときに着てほしいとのことであった。

アルマーニの男物は上下ともゆったりと着るのが特徴だが、腕の長さを詰める必要があり、たまたま住んでいたアパルトマンの通りをはさんで斜め前にテーラー(仕立屋)があり、そこへ服を持ち込んで少しの手直しを頼んだ。

店の主人は快く引き受けてくれたが、アルマーニの服を見ると、「こんなのは服じゃない」といって、腕丈をつめるだけでなく、上着の裾まわりを3センチほど切りつめ、ズボンも細身にしてしまった。それはもはやアルマーニ氏のデザインになる服ではなくなっていた。

その服を着こんでミラノへ飛び、「ドゥオーモ」をはじめミラノの名所でリポートを撮り、男物のファッション・ショーとアルマーニ氏自身とのインタビューを取材した。

アルマーニ氏は、「フランス語はわかるが正確に答えたい」と云うことで、質問はフランス語でしてイタリア語で答えてもらい、それをフランス語に通訳する形で行った。

アルマーニ氏は1934年にイタリア北部のピアツェンツァで生まれ、15歳のときに一家でミラノに移住して、ミラノ大学の医学部に入学した。在学中に兵役に召集され、そのまま大学を退学した。本人は「最初の遺体解剖の時に血をみて卒倒しそうになり、医者の道はだめだと思った」と笑いながら語ってくれた。

その後はカメラマンの助手やミラノの大手デパート「ラ・リナシェンテ」のウインドー・ディスプレーや販売を担当。服飾の知識を身に着けると、1975年、41歳で自らの会社を立ち上げてファッション界に進出した。

インタビューのなかで、「いま着ているのはパリの仕立屋に直されたあなたの服だ」と伝えると、アルマーニ氏は大笑いしながら、「自分の服のキイ・コンセプトは〈自由〉であり、肉体をいかに束縛、締め付けから解放するかだ。しかも、上から下まで〈アルマーニ〉というのはよくない。ジーパンを履いた上に、アルマーニの上着を羽織るなど、自分の好みでコーディネートしてほしいのだ」と語った。

「モデルが履いているズボンは折り目などなく、一見ラフなのが特徴だが、今日、ショーを見に来ていた男性客のほとんどは、ズボンにぴったりと折り目をつけていましたよ」というと、「ハ、ハ、ハ、まだわたしのメッセージは十分に浸透していないね」という落ちで、インタビューは幕となった。

アルマーニ氏もじつに気さくな人柄だった。「今度はコモ湖畔にある別荘へ遊びに来てくれ」と誘われたが果たせなかった。彼は昨年2025年の9月に亡くなった。91歳だった。氏の〈自由〉の美学が、ファッションの世界を変えたのはご存じの通りである。


# by monsieurk | 2026-04-10 08:59 | 取材体験

森英恵生誕100周年

 今年はデザイナーの故森英恵さんの生誕100年周年で、彼女を主人公にしたドラマが放送されたほかに、415日から76日まで、東京の新国立美術館で展覧会が開かれる。初公開のドレスや資料など400点が展示されるという。

 森さんは1926(昭和2)1月に島根県で生まれた。父は開業医だった。長じて東京女子大学を卒業、戦時中に勤労動員の工場で知り合った元陸軍主計少佐の森賢氏と結婚した。

森賢さんの実家は愛知県一宮で繊維会社を営んでいたこともあり、夫の勧めでドレスメーカー女学院に通って洋裁の技術を学び、1951年には新宿東口でオーダーメイドの洋裁店を開いた。場所は蕎麦屋の二階だった。

その後の活躍はよく知られている通りで、1965年にはニューヨークでコレクションに参加。1977年には「パリ・オートクチュール(高級注文服)協会」の会員に推薦された。東洋人として初めての名誉だった。

パリのオートクチュール協会の会員は、一年に二回、春と秋にファッション・ショーを開いて新作を披露する。これは世界中からバイヤーや社交界の人びとが集まる一大イヴェントで、森英恵さんも会員になってから、毎年パリで新作を披露するようになった。森さんのデビューはニュースであり、東京から取材依頼が来た。

華やかなショーの取材は初めてで、モデルをはじめ大勢の女性が裸に近い恰好でいるところへ入るのは面はゆい思いだった。だが華やかなショーの舞台裏は、モデルたちに次から次へドレスを着させて舞台に送り出す戦場のようなあわただしさで、森さんをはじめスタッフの奮闘ぶりに目をみはるばかりだった。日本人の女性デザイナー森英恵さんのパリ・デビューは評判を呼んだ。

森さんはパリにもアトリエ(Maison)を構えて、日本の伝統的な布地を用い、文化に培われた美意識でつくりだされたファッションを世界に向けて発信することになった。そんな森さんとは、個人的なお付き合いをする機会もあった。

あるときは森さんとご主人の賢さん(温和な方で、森さんを全面的にバックアップしていた)、わたくしたち夫婦、モデルの松本弘子さんの5人で、三ツ星のレストラン「タイユヴァン(Le Taillvent)」でテーブルを囲んだことがある。

松本弘子さんは1957年に、当時気鋭のデザイナーだったピエール・カルダンが初めて来日して服飾技術を披露したとき、森さんの紹介でモデルをつとめた。ファッショーの多様性を求めていたカルダンは松本さんに白羽の矢をたて、1960年のコレクションからパリにデビューしたのだった。

「タイユヴァン」の料理はさすがにおいしかった。気軽な気持ちで、自分の皿の料理をお隣にお裾分けしようとすると、ボーイ長が寄ってきて、「当店のお料理ではご遠慮ください」と真顔で注意した。これには少々鼻白んだが、5人で肩をすくめるしかなかった。いまも忘れられない思い出である。

森さんとのご縁はパリで終わりではなかった。帰国後、19824月から843月まで2年間、「土曜リポート」という番組の制作者兼キャスターをつとめた。毎週土曜日の夜2145分から2230分までの45分間の放送で、調査報道のさきがけとなった番組だった。

出演にあたっては、「馬子にも衣装」というスタッフの配慮で、服装のコーディネータ―がつくことになり、奇しくも森英恵さんが引き受けてくれた。このころ森さんは男性用の既製服も手掛けており、番組がスタートする半月ほど前に、表参道にある総ガラス張りの「森ビル」に出向いて最初の衣装合わせをした。このときは森さんご自身が顔を見せて、服、ワイシャツ、ネクタイ、ポケット・チーフまで選んでくれた。

「土曜リポート」の第一回放送はNHKのアーカイブスで公開されているが、青みがかった灰色のスーツはお洒落な色合いで、ネクタイには録画では分からないが、森ブランドの象徴である小さな蝶があしらわれている。

2年のあいだ、普段は自前の服を着て出演したが、節目々々で森さんコーディネートの服が土曜の夕方には届けられた。いまでは考えられないが、A5の「マネキン・サイズ」だったのである。


# by monsieurk | 2026-04-05 09:00 | 芸術

「円本」展

 東京駒場の「日本近代文学館」の2026年度春季特別展は、「『円本』から読む日本尾近代文学」で、44日から613日まで開催される。

 「円本」は100年前の192612月、改造社の社主、山本実彦の発案で刊行された。時あたかも大正時代が終わり、昭和がはじまる時期であった。このとき『現代日本文学全集』全37巻、別巻1巻が予約形式で発売された。

「円本」という俗称は、東京市内ならどこでも一円で乗車できるタクシー、いわゆる「円タク」にちなんだもので、廉価な文学全集は一躍ブームになった。

 改造社は『現代日本文学全集』の刊行に当たって、出版業ではこれまでにない大々的な宣伝をくり広げた。担ったのは「日本電報通信社」で、新聞一面をつかった広告では、「先づ一圓を投ぜられよ!!」と見出しを掲げ、広告は予約の締め切りまで連打された。

 改造社の「円本」が引き金となって、他の出版社も同様の企画を次々に打ち出した。翌1927(昭和2)3月には新潮社が『世界文学全集』を、5月には平凡社が『現代大衆文学全集』、6月には春陽堂が『明治大正文学全集』を刊行するというありさまだった。

 「円本」ブームはなぜ起こったのか。山本実彦はなぜこの企画を思い立ったのか。ここにはいくつかの社会的な要因があった。

第一には人口の増加、加えて学校教育の普及による読者層の拡大である。しかし1923年(大正12年)91日の関東大震災で膨大な書籍が焼失し、震災による経済不況のために書物の価格は上昇していた。こうした状況が廉価な文学全集の登場を促したといえる。

「円本」は明治・大正の文学にあらためて光を当て、一部の作家の経済状態を大幅に改善する役割をはたすことにもなった。その具体例を、『今宵はなんという夢見る夜 金子光晴と森三千代』(左右社、2018)で紹介したことがある。

 詩人の金子光晴は、国木田独歩の息子である国木田虎雄とはかねてから昵懇の間柄であった。虎雄は父の独歩に「円本」の印税が入ると、にはかに生活が派手になった。拙書を引用してみる。

 

「父の独歩の印税入ってきて、再婚した妻とホテル暮しをする贅沢を重ね、競馬に金をつぎ込んでいた。金子光晴が、すべてを蕩尽する前にせめて上海へ旅行しないかともちかけると、上海旅行を二度も経験している金子に案内役を頼んできた。こうした経緯で、金子と国木田虎雄夫妻の上海旅行が決まった。金銭的にも文学上も行き詰っていた金子にとって、苦境脱出のまたとない機会に思えた。彼は〔妻の〕三千代にろくに相談することなく、一カ月の上海行を決めてしまったのである。」(同書、55ページ)

 

金子光晴は上海滞在中、国木田夫妻と毎日のように競馬場に行き、100円ほどを儲けると、一カ月のちに夫妻を残して帰国した。東京の借家に帰り着くと、玄関には留守中の新聞が散乱していて、妻の姿はなかった。三千代は幼い息子乾を彼女の両親に預けると、帝大生の土方定一と出奔していたのである。

こうして金子光晴と森三千代の波乱の人生がはじまるのだが、これはまた別の話である。関心のある方はぜひ前書をお読みいただきたい。

 

特別展「『円本』から読む日本近代文学」にもどれば、展示は4つのセクションで構成されるという。

 第一章 「円本――改造社『現代日本文学全集』」では、全集38冊すべてのほかに、内容見本や当時の本や雑誌が展示され、それらと比べて円本がいかに廉価であったかが示される。

 第二章 改造社の広告戦略。先に触れた新聞広告の実物のほかに、1927年(昭和2年)5月から行われた作家たちによる講演会の模様が展示される。一例としては東北から北海道まで足をのばした芥川龍之介が、旅先から家族や友人に宛てて出した手紙を通して、講演旅行がどれほど「烈しい旅」であったかがうかがえるという。

 第三章 「現代日本文学巡礼」。このコーナーでは、各地で開かれた講演会で、同時に上映されたフィルム「現代日本文学巡礼」が上演される。これは作家の久米正雄が監督して製作されたもので、久米本人や芥川龍之介、佐藤春夫、武者小路実篤、菊池寛、徳田秋声の姿が再現される。

第四章 「円本」の革新性。著名な作家の代表作が「唯の一圓で讀める」ことが出版システムを大きく変え、「円本」は明治・大正文学を大衆に近づける役割をはたした。

第五章 大衆化――「岩波文庫」の誕生。岩波書店の創設者である岩波茂雄は、改造社の「円本」が刊行された翌年の7月に「岩波文庫」を創設した。岩波は「円本」が大衆をターゲットにしたものであるのに対して、文学・哲学・自然科学・社会科学などの分野をカヴァーする文庫本で、知識階級に知の世界を廉価に提供する道を選んだのだった。岩波文庫の誕生にはドイツのレクラム文庫の存在があったが、「円本」もまた影響をあたえたことが実証される。

日本近代文学館の今回の展示は、名高い「円本」の実態を多角的に検証しようとするこころみである。時あたかも桜の季節、会期中にぜひ訪ねるつもりでいる。


# by monsieurk | 2026-04-01 09:00 |

お墓の中のパパ

 詩人の茨木のり子さんは名エッセイストでもある。愛読する一冊に、『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫、1994年)がある。与謝野晶子、高村光太郎、山之口獏、金子光晴の4人の詩人をとりあげて、代表作を紹介しつつ各人の詩業を紹介したものである。初版は1967 年に「さ・え・ら・傳記ライブラリイ」から出され、1999年には一人一冊の形で、「童話社」から再刊された。

4人のなかでも、茨木さんが尊敬し、愛してやまない金子光晴と山之口獏の巻は秀逸である。とくに初版が出た1967年当時、一部の詩の愛好家以外には、それほど知られていなかった山之口獏を紹介した功績は大きかった。

茨木さんは最初の章を「ルンペン詩人」というタイトルではじめて、「自己紹介」という詩を引用している。


ここに寄り集まった諸氏よ

先ほどから諸氏の位置に就いて考えているうちに

考えている僕の姿に僕は気がついたのであります

僕ですか?

これはまことに自惚れるようですが

びんぼうなのであります。


山之口獏は1903年(明治36年)に沖縄の那覇市に生まれた。父は農工銀行の八重山支店長をつとめた人だが、事業に手を出して失敗、一家はちりじりになった。獏は詩稿のはいったカバンとわずかな着替えをもって、大正14年の秋に上京した。このときから獏の長い放浪生活がはじまった。

家のない彼にとって、あるときは道端の土管、公園や駅のベンチ、銀座のキャバレーのボイラー室がねぐらとなった。以後16年間、畳の上で寝たことはなかったという。

結婚し、詩人として名が知られるようになってからも自分の家をもったことはなく、1963年(昭和38年)7月に亡くなるまで、一生借家住まいだった。

茨木さんはこう述べている。


「一生、ルンペンと間借り生活で、自分の家をとうとうもつことのできなかった獏さんが、死後になって妻とむすめの尽力で墓場の小さな土地(五平方メートル)を手に入れ、そこへちんまりおさまることになりました。

むすめのミミコ〔本名は泉〕には、それがこっけいでもあり、かわいそうでもありました。「間借りしているのに墓を買うなんて、おかしな話だ。ぼくが死んだら粉にして吹きとばしてくれ」といつもいっていた父、葬式の儀式いっさいにともなう通俗性をとてもきらって獏さんだったからです。」として、山之口獏の「告別式」という詩を紹介している。


金ばかりを借りて

歩き廻っているうちに

死んでしまったのだ

奴もとうとう死んでしまったのかと

人々はそう言いながら

煙を立てに来て

次々に合掌してはぼくの前を立ち去った

こうしてあの世に来てみると

そこには僕の長男がいて

むくれた顔をして待っているのだ

なにをそんなにむっとしているのだときくと

お盆になっても家からの

ごちそうがなかったとすねているのだ

ぼくはぼくのこの長男の

顔をなでてたったのだが

仏になったものまでも

金のかかることをほしがるのかとおもうと

地球の上で生きるのとおなじみたいで

あの世も

この世もないみたいなのだ


そして、娘の泉さんは、「お墓の中のパパ」(『父・山之口獏』。思潮社、2010年、収録)という文章で次のように書いている。


「貧乏だったからこそ獏さんはよい詩が書けたのだという人がいます。そういう人はたいてい最後につけ加えます。人間、金をもっちゃおしまいだと。

 たぶんその人はぎりぎりの貧乏に追いつめられたことがないのだと、私はいつも考えます、だってお金はないよりあるほうが良いのです。たとえそれをもつものが詩人であろうと絵描きであろうと、お金はたくさんあるのにこしたことはないのです。それなのに貧しくない芸術を軽蔑してみせる人は意外に多いようです。おかしな話だと思います。

 だって、それこそ、芸術がお金に左右されるものではないということを、人はむかしからちゃんと心得ていたはずではなかったのでしょうか。貧乏詩人というと、ただそれだけで好意を示すような人にかぎって、芸術は神聖だ、などとつぶやくので私はとまどってしまうのです。

 芸術家と呼ばれる人々も、他の人々とおなじようにお金を持つべきだと思います。お金をもったら消えてしまうような作品のきびしさは、きびしさではありません。」


 山之口獏の代表作は、『山之口獏詩集』(岩波文庫)や、『山之口獏詩文集』(講談社学芸文庫)で読むことができる。


# by monsieurk | 2026-03-25 09:00 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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