「金の鳩」
ニースまでは1時間10分の道のりですが、坂道を7分ほど下ると、もうそこがSaint Paul Village(サン・ポール村)というバス停です。サン=ポール=ド=ヴァンスは、ヴァンスの旧市街と同じように中世につくられた城塞で囲まれた街です。
ここへは過去にも来たことがあるのですが、今回の目的は「金の鳩」(La Colombe d’Or)というホテル兼レストランの位置関係をあらためて確認することでした。
城門をくぐって土産物屋が並ぶ道を頂きへと登っていくと、「ラ・キャプリコルヌ」という看板を出した画廊が目に留まりました。ウインドーにはシャガールのパステル画が数点並べられていて、奥にいた店主が快く招じ入れてくれました。壁や画架に、シャガール、ミロ、ブラック、ピカソなどの油彩やリトグラフが飾られています。
すぐに目についたのが金の額縁におさまったシャガールの絵≪枝にとまった鳥≫で、「親愛なるポールとティティーヌへ、云々」という、シャガールと詩人ジャック・プレヴェールの賛が入っています。ポールは「金の鳩」亭の主人だったポール・ルー、ティティーヌとはポールの妻のバティスティーヌの愛称です。店主によれば、彼らが亡くなったあと何らかの理由で売りに出されたものだということでした。
伝説的な人物ポール・ルーは1920年に、プロヴァンスの小邑ロバンソンにカフェ=レストランを開き、黒い服に身を包んだ母親のマリーが客を出迎え、暖炉で鶏を丸焼きにして出す料理が評判になりました。
ポールは2年後にバティスティーヌと出会って結婚すると、サン=ポール=ド=ヴァンスに来て宿を開くことにしました。最初は三部屋しかない宿でしたが、素朴なもてなしと美味しい料理が次第に評判となりました。
太陽とオリーブとブドウ畑に恵まれたこの地には、画題を求めて画家が来て泊まるようになり、ポール・ルーも彼らの作品に魅せられました。こうしてポール・ルーと芸術家、とりわけ画家たちとの友情が始まりました。
最初の画家たちに次いで、デュフィ、シニャック、スーチン、スゴンザックがやって来て、「金の鳩」の壁に彼らの絵が飾られるようになります。ポール・ルーは看板を掲げますが、そこには「ここには馬で来る者、徒歩で来る者、絵とともに来る者が泊まっている」と書かれていたそうです。
ある日、運転手つきのリムジンが宿の前に停まります。評判を聞いたマティスが、当時住んでいたニースからやってきたのでした。身体の悪いマティスは車から降りずに座席でコーヒーを飲み、ポールはリムジンの隣の席に座って、マティスとしばらくおしゃべりをしたということです。二人はたちまち友人になりました。
『金の鳩、サン=ポール=ド=ヴァンス』(アスリーヌ刊、2003)には、セザールの序文とともに、「金の鳩」を訪れた数多くの著名人の写真が載っています。詩人のジャック・プレヴェールもその一人で、彼がルー夫妻と最初に出会ったのは1941年の夏のことです。プレヴェールとポール・ルーはたちまち意気投合して、生涯の友情で結ばれました。
プレヴェールはサン=ポール=ド=ヴァンスが気に入り、「金の鳩」や城内に借りた家で多くの詩や映画のシナリオを書きました。やがて彼の仲間たち、映画監督のマルセル・カルネ、作曲家のジョセフ・コスマ、美術監督のアレクサンドル・トローネなどもやってきます。プレヴェールは陽が落ちてから散歩をするのが好きで、「サン=ポールの人たちよ、眠れ、ジャック・プレヴェールが見張っているから」というのが口癖でした。
プレヴェール=カルネのコンビで製作された映画『夜の門』(La Porte de la Nuit)でデビューしたイヴ・モンタンはプレヴェールを訪ねて来て、人妻だったシモーヌ・シニョレと出会って恋におち、やがてプレヴェールの立会のもとで、ここで結婚式をあげました。白黒写真の手前がプレヴェール、妻のジャクリーヌを挟んでその向こうがイヴ・モンタンです。サン=ポール=ド=ヴァンスはこうした数々のドラマを生んだ場所ですが、それは近刊の『評伝 ジャック・プレヴェール』(左右社)でお読みください。
画廊「ラ・キャプリコルヌ」の献辞つきのシャガールの絵は大いに気になるのですが、怖ろしくてまだ値段を聞いていません。
旅行の三日目は、ニースで泳いだり旧市街を散策したりして半日遊んで帰ってきたのですが、中国人の団体客の多さとロシア語がよく聞こえてくるのに驚きました。ニースの観光客はそのまま今の経済状況を反映しているようです。