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ムッシュKの日々の便り

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マン・レイになってしまった人

 マン・レイ(Man Ray 1890-1976)を愛してやまない石原輝雄氏の新著『三條廣道辺り』(銀紙書房、2011.8.27)を読んだ。読み終えるのが惜しくて、一頁一頁ゆっくり時間をかけたから思わぬ日数が経過した。アメリカ生まれのシュルレアリスト、マン・レイの作品が戦前の日本でどのように受容されたかを、文章と関係写真で追跡したドキュメンタリーで興味が尽きなかった。しかも本は石原氏が一冊一冊、印刷、装丁、綴じなど、造本のすべてを手がけたものである。
 「まえがき」の次の頁に、le 13 Sept 1932(1932年9月13日)とかかれたフランス語の手紙のファクシミリが挟み込まれてあり、文末にはMan Rayと署名がある。文面には、「10日付けの貴兄の手紙にお答えします。弊宅でお会い出来ますのでお電話をいただけますでしょうか、あるいは午後5時から6時の間〔これが棒線で消され〕3時にお訪ねくださるというのはどうでしょう」とある。この手紙が追跡のはじまりだった。
 2007年10月12日の午後、石原氏は東京本郷3丁目にある古書店「アルカディア書房」の主人から一冊の古いスクラップ・ブックを見せられる。そこにこのマン・レイの手紙が貼りつけられていたのである。宛名は「Monsieur T. Kiquemoto(Nakakanisi)」。スクラップ・ブックの持ち主は中西武夫で、かつてマン・レイと交流があったことが石原氏の調査で判明する。
 中西は京都帝国大学を1931年に卒業するとヨーロッパに渡り、ベルリンやパリで映画や演劇を勉強した。ヒトラーが政権についた1933年に帰国、小林一三の知遇をうけて宝塚歌劇団に入って舞台制作に携わった人である。マン・レイとの接点は、当時パリで盛んだった前衛映画を介してのものだったと思われる。
 石原氏はスクラップ・ブックから、もう一つ思いがけない発見をする。それはタイプで打たれた二枚の英文原稿で、これも本の中に写真複写されている。「I first got interested in photography in making reproductions of my paintings myself as I was not satisfied with the work of other photographers. This was marvelous training to bring out values and textures in black and white, ・・・(私が最初に写真というものに関心を持ったのは、自分の絵画作品の複製を自ら作ろうと思ったためで、他の写真家の仕事に満足できなかったからだ。これは実に素晴らしい訓練となった。白と黒だけで明暗の諧調と質感を満足できなかったからだ。) 」(37頁)このタイプ打ちの文章の内容は、まさしくマン・レイの仕事のスタートの事情と一致する。
 アメリカのフィラデルフィアに生まれたマン・レイ(本名エマニュエル・ラソニッキー Emmanuel Rudzitsky)はニューヨークで絵を描きはじめ、その自作を写すためにカメラを買った。そのころマルセル・デュシャンやフランシス・ピカビアと出会って、「ニューヨーク・ダダ」と呼ばれる運動をはじめる。その後1921年にパリへ移り、モンパルナスに住んで本格的な写真を撮ることを開始したのである。石原氏が見つけたタイプ原稿は、この間の経緯を自ら綴った貴重なものである。
 石原氏は欄外の脚注で、「マン・レイ・タイプ原稿七行目にある‘Rayograms’の表記に注意。印画紙の上に物体を置いて直接露光し明暗の像を得る技法を一般的にフォトグラムと呼び、モホリ・ナジやマン・レイの作例が知られている。マン・レイは一九二一年に偶然この技法を発見し自らの名前を冠して「レイヨグラフ」と名付け、マン・レイ作品においては戦後この呼び方が定着した。ただ初期には「レイヨグラム」とした例もあり、どちらを採用するか研究者の間で意見が分かれている。ここでは「レイヨグラム」という言葉が使われていて興味深い。」(39頁)と書いている。マン・レイ研究者としての面目躍如というところである。
 『三條廣道辺り』では、このあと戦前に京都で活躍した俵青茅をはじめとする詩人や画家たちが、マン・レイをどのように受容していたかを知るために、彼らの詩集や希少雑誌に掲載された作品の探索がはじまる。資料を求め、現地を訪れ、縁者・知人を探し出しての聞き込みによって、マン・レイとの不思議な結びつきが立ち現れてくる。ちなみに本のタイトルにもなっている「三条広道」という地名はいまはなく、かつて京都と大津を結んでいた京津電気鉄道の広道駅があった辺りだという。ここに俵青茅の自宅兼京都詩人協会の事務所があったのである。岡崎通が三条通とぶつかった所の一筋南側の辺りだろうか。この辺はかつて住んでいた岡崎南御所町から散歩の途中によく通った懐かしい場所である。
 石原氏の探索はさらにマン・レイと日本の関係を追って、神戸へ、パリへ、名古屋へと伸びていくのだが詳細は本を読んでいただくしかない。氏のマン・レイに寄せる思いをよくあらわしている逸話を、1983年に銀紙書房から出版された限定1000部の『MAN RAY IST』から紹介したい。
 「私がマン・レイを意識するようになったのは、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を読んだころからだと思う。」と書かれているように、マン・レイの生き方と作品に魅了された石原氏は作品蒐集に力を入れた。そして1982年6月、サン・ジェルマン・デ・プレのギャルリーの女性オーナーの紹介で、マン・レイの未亡人ジュリエットと会うことが出来た。
 「神話の人のように思っていたジュリエットと現実に会えるとはなんとラッキーなことだろう。夫人は『マン・レイと其の友人達』に含まれた自身の肖像の下にサインしてくれた。・・・私がこの時着ていたTシャツは『マン・レイ六〇年の自由』(一九七一年)に挿入されたマン・レイのサインを拡大し、染料で着色したもので、この旅行の為に準備したものだった。夫人は赤い「Man Ray」の文字の下に「JULIET」と書き添えてくれた。そして、彼女を囲んだおかしな日本人の記念写真をマリオン・メイヤーの女主人が撮ってくれた。・・・夫人が「明日、アトリエに遊びにおいで」と誘ってくれた時にはついに失神してしまった。」(142-143頁)
 石原氏を失神させたジュリエットも、いまはマン・レイとともにモンパルナスの墓地に眠っている。碑銘には‘Unconcered, but not indifferent’(無頓着だが、無関心ではない)と‘Together again’(また一緒)という二つの文句が書かれている。
 『三條廣道辺り』の版元である銀紙書房は、じつは石原輝雄夫氏個人の出版社で、これまでの著作と同じく、すべてを一人で造本された75部の限定出版である。私の所蔵するのはナンバー69。氏のブログでは造本の過程が逐一報告されていて、この方も興味は尽きない。
by monsieurk | 2011-10-17 23:54 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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