炉心溶融 IV Investigation Report(調査報道)1
あのとき東電や官邸は記者会見で何をいい、マスメディアは何を伝えたのか。そして私たちはそれをどう受けとめたのか。3月11日と12日のTwitterに書きこまれた記事の一部を拾い出してみると――
「先の見通しがたたなかったので最悪を考えてとりあえず近くのコンビニで菓子パンと牛乳と水を買い込んだ。たぶん同じ考えの人で店は満員だった」。「大参事になってしまった。今日は自分も怖い思いをしたから非常に身近に感じる」。「Guardianの動画を見ると今日の地震の規模の大きさと被害の甚大さがよくわかる。日本のテレビはなぜこのような編集ができないのか」。(3月11日)
「枝野官房長官の楽観的な発言に非常な憤りを感じている」。「『なんらかの爆発的事象があった』枝野官房長官会見発言。BBCニュースは大爆発と表現。BBCレポーターは六十キロ以内に近づくなと警察から警告された。日本政府の発表は信用できない」。「エジプトやリビアと同じで外国メディアからしか真実は伝わらないのか」。「日テレで爆発の瞬間の映像。大爆発という規模に見えた。日本のメディアは断定的なことは言えないと繰り返しているが、逃げるしかないのではないか。家の中におれば大丈夫というニュアンスだが本当なのか」。(3月12日)
同様の疑問をもった人たちが、科学者やマスメディアで働く人たちの中にもいた。チェルノブイリの原発事故の現地調査の経験があり、原発事故の深刻さに強い懸念を抱いてきた人たちだった。彼らは事故後すぐに福島に入って放射能の調査を行い、実態を報道した。それが2011年5月15日に放送されたNHK ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図』である。番組が放送されると1000件をこす電話があり、再放送もされた。
この番組がどのような経過をへて企画され、制作されたのか。関係者への取材と当事者たちが著したNHK ETV特集取材班『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年2月13日発行)から見てみる。
NHK放送文化研究所(通称愛宕山)の主任研究員、七沢潔(1981年NHK入局)は事故から3日目の13日日曜日の夜、厚労省所管の労働安全衛生総合研究所の研究員、木村真三と酒を飲んだ。二人は1987年にチェルノブイリ原発事故後の放射能汚染の実態を追う番組をつくって以来、原発に関する番組を取材制作してきた仲だった。
木村(43歳)は会うと早々に、準備はできているからすぐに現地へ行こうと言った。これまでの経験からすると、原発からすでに放射性物質が放出され、近隣住民を襲っていると思われる。現地で放射線量をはかり、土壌や植物を採取して汚染の実態を把握して今後の防護対策を考えたい。木村が専門とする放射線衛生学はそのための学問なのだ。それなのに所属する研究所の上司からは、命令があるまで勝手に調査に動いてはならないというメールが入っている。だが辞表を出してでも福島へ調査に入るつもりだという。
七沢は2003年に東海村での臨界事故の原因を追及した番組を制作した翌年に、放送文化研究所へ異動を命じられ、以来7年間制作現場から遠ざかっていた。木村の提案にすぐに応じられる立場にはなかった。
翌3月14日11時01分、福島第一原発の3号機で爆発が起きた。12日15時36分の1号機の原子炉建屋の爆発についで2度目の爆発だった。しばらくして七沢の携帯にNHK制作局文化・福祉番組部のチーフ・ディレクター大森淳郎から電話がかかってきた。大森と七沢は同い歳で、ながらくETV特集などを制作してきた同僚だった。
ETV特集は週一回放送される番組で、通常は先まで放送の予定が組まれているが、大震災と原発事故という未曽有の事態をうけて編成の練り直しが急務となった。チーフ・プロデューサーの増田秀樹を中心に、福島原発事故をテーマとすることが決まり、経験者の七沢の力を借りることにしたのである。七沢が所属する放送文化研究所にも正式な応援要請を出すことになった。
福島原発事故をどう取材するか。ETV特集班の打ち合わせは3月14日の午後4時から行われた。6時には七沢の要請を受けた木村真三も会合に参加した。木村は放射線測定器やポケット線量計、防護用具などのつまった鞄をもってきた。七沢は事故による放射能汚染がどのようなものかを把握するために、放射線測定器をもって現地を歩き、それをつぶさに記録することを提案して了承された。
いつから現地に行くか。木村は翌朝出発しようといった。現地の情報が極端にとぼしく、1号機、3号機の爆発に続いて、2号機の原子炉圧力容器内の水位も下がりはじめていた。4号機でも使用済み燃料プールでの異常が報じられている。危険が予想された。だが木村の決意は変わらなかった。『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図 NHK』には、このときの木村の発言が引用されている。
「いま行って、すぐに土壌サンプリングをやらないと、立ち入り禁止になって入れなくなって、データ採れなくなりますよ。それに早く採らないと半減期が短いために消えてしまう放射性核種もあるんです。僕は東海村JCO臨界事故のときに行政手続きに一週間かかり、出遅れて失敗したんです。あれから12年間後悔ばかりでした。今度こそ、後悔したくないんです。」(同書、20頁)
こうして翌日から七沢、大森、木村、ドライバーの今井秀樹の取材班が現地福島へ行くことが決まった。木村は辞表を所属研究所長あてに出してきていた。書き方が分からないので、インターネットで調べたということだった。
事故直後から常磐自動車道は一般車両の通行は禁止されていたが、出発前に渋谷警察署から「緊急車両」の許可証を得ていたおかげで警察の検問を無事通過し、3月15日の夕刻、福島県田村郡三春町の宿についた。福島第一原発からは48キロの地点で、避難指定区域30キロの圏外だったが、宿屋の前の駐車場で空間線量を測ると毎時3.2マイクロシーベルト、通常の54倍という高い値を示した。この線量の下でずっと居続けると、2週間たらずで一般の人の年間被ばく限界量を上まわる値だった。