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ムッシュKの日々の便り

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炉心溶融 IV Investigation Report(調査報道)2

 3月15日、取材チームは車で移動しつつ木村が空間線量を測り、ところどころの土壌や植物をサンプルに採った。その様子を大森ディレクターが小型カメラで撮影していった。本職のカメラマンが同行しなかったのは、出発が急だったのと、政府から30キロ圏屋内退避勧告が出た15日以降、NHKでは原発周辺の取材に関して自主規制が行われていたからである。七沢たちの取材は結果としてゲリラ的なものとなった。
 福島での測定調査は、ベースキャンプとした宿のある三春町をはじめ、常葉町、都路町、大熊町と進んだ。福島第一原発から4キロほどの双葉町山田地区では、木村の線量計は測量限界の毎時300マイクロシーベルトを超えていた。チェルノブイリや東海村JCOの臨界事故の調査を行ってきた木村にとっても初めて経験するものだった。そこに40分間いるだけで、年間の被ばく限度を超えてしまう高レベルの放射線量であった。
 木村が採取した土壌や植物のサンプルは3月17日に東京へ持ち帰ったあと、京都大学の今中哲二助教、広島大学の遠藤暁准教授と静間清教授、長崎大学の高辻俊宏准教授に送られて分析された。測定結果は互に交換されて、検討の上で修正がくわえられた。こうしたクロスチェックは分析データの精度を高めるために必要な措置であった。
炉心溶融 IV Investigation Report(調査報道)2_d0238372_0425472.jpg 七沢たち取材班は一度東京にもどると、汚染の実態を一層精密に調査するために、もう一つの方法を考えだした。ここまでは原発から距離に応じて東西南北に10カ所ほどの地点を決めてサンプル調査を行ってきたが、今後は点を線につないで汚染地図をつくるアイディアである。
 それには放射能測定の第一人者である岡野眞治(84歳)の協力を得る必要があった。七沢はかつて岡野の協力を得て、チェルノブイリ原発事故のあと、食糧と人体の放射能汚染を調査して、NHK特集『放射汚染~チェルノブイリ事故・2年目の秋』(1987.11)を制作した経験があった。岡野は6秒ごとに計測する放射線量とGPSによる位置情報、さらにどんな放射性核種があるかを明らかにするスペクトルメーターを組み合わせた独自の放射線測定記録システムを開発していた。これを用いれば福島県内の道路を走りながら、その場所の放射能汚染を6秒ごとに記録することができる。岡野は協力を約束し、貴重な装置を取材班に貸すことを快諾した。
 だが七沢たちの番組制作は暗礁に乗り上げた。番組制作局の幹部が難色をしめしたのである。理由は、データ分析を京都大学原子炉実験所の小出裕章助教に依頼したが、「反原発」を主張する小出の分析は偏向しているとする、一部の学者の意見を盾にするものだった。七沢たちは、分析は京大だけでなく複数の大学に依頼してクロスチェックを行っていること、これまでのNHK関連番組の監修を行なっている元原子力安全委員の岡野眞治も協力していることを伝えた。話し合いの結果、七沢たちの取材を4月3日に放送することは却下されたが、書きなおして再提案する道は残された。
 問題は穴のあきかねない4月3日のETV特集をどうするかであった。結局、三春町に住む住職で作家の玄侑宗久とノンフィクション作家である吉岡忍の対談に、取材の一部映像を挿入する形で制作することになった。
 仕切り直しとなった取材班は、3月26日以降、3チームにわかれて現地取材を続行した。翌27日、浪江町の赤宇木地区の集会場に人びとが避難しているという情報を得て、そこへ向かった。赤宇木は文科省茨城原子力管理事務所の渡辺眞樹男が、3月15日夜の段階で高い放射能を計測していた場所だった。しかしNHK取材班はそのことを知らずにいた。
 取材班が訪れたとき、かつての小学校を活用した赤宇木集会場には、いまだに12人が避難していた。線量計は集会所の外で高い数値をしめした。七沢や大森はこの事実を伝えたが、避難している人たちは信用しなかった。集まっているのは、事情を抱えて正規の避難所に行けない人たちだった。
炉心溶融 IV Investigation Report(調査報道)2_d0238372_22275676.jpg その夜、別行動をしていた木村真三に集会所のことを伝えると、木村は調査を一時中止してでも住民を説得するのが急務だといった。人びとを放射能の危険から守ることが木村の本来の目的だった。
 翌28日、取材班は木村とともに再び赤宇木へ行き、集会所前の駐車場で放射線量を測った。毎時80マイクロシーベルトあった。室内でも毎時25~30マイクロシーベルトあり、人が住めるレベルではなかった。
 木村は線量計の数値を直接見せた。皆はようやく危険な状態を納得して、避難することに同意した。12人は30日に避難するが、その前日の29日には吉岡忍も集会所に行き、現状をリポートし、30日の避難の様子も撮影した。
 こうして取材された映像と、玄侑宗久と吉岡忍のスタジオでの対談は、4月3日夜のETV特集『原発災害の地にて――対談 玄侑宗久・吉岡忍』として放送された。放送後には1000件を超す電話やメールが寄せられ、とくに赤宇木集会場の事実は視聴者に衝撃をあたえた。12人は、原発事故発生後19日間も、人が住めない高い放射線量下で過ごさざるをえなかった。それもこれも情報がまったく伝えられなかったためであった。福島第一原発事故によって空中に拡散した放射性セシウムだけで3万~4万テラベクレル(テラは1兆)と試算される。
 NHK内部では取材班に対して批判がでた。安全を考慮して30キロ圏内の取材を自粛するという内規を破ったこと、高い放射線量のもとに居続けた人たちを取材しながら、それをニュースとしていち早く報道しなかったことなどだった。これらは主にニュースやニュース関連番組を担当する報道局からの批判だった。報道局と番組制作局との確執は従来からあり、加えて取材者には見つけた特ダネを抱え込む傾向がある。取材する者の性(さが)であり、その一つのあらわれだった。
 ETV特集班の取材はその後も続けられ、『ネットワークでつくる放射能汚染地図』は5月15日の深夜に放送された。明らかになったのは、政府が決めた避難区域の外側にも、放射線量の高いホットスポットが多数存在する事実だった。彼らの測定によってつくられた汚染地図がそれを如実に語っていた。番組放送後の反響は4月3日以上に大きかった。
 七沢潔は、取材の内幕を本にした理由を、『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』の「「あとがき」に代えて」でこう述べている。「あれだけの事故が起こっても、慣性の法則に従うかのように「原子力村」に配慮した報道スタイルにこだわる局〔NHK〕幹部、取材規則を遵守するあまり、違反者に対しては容赦ないバッシングをし、「彼らは警察に追われている」「自衛隊に逮捕された」など根も葉もない噂を広げた他局〔報道局〕のディレクターや記者たち。彼らはそのルールが正当であるか否かを、自らの頭で考えようとはしなかった。有事になると、組織に生きる人びとが思考停止となり間違いを犯すことを含めて描かなければ、後世に残す3・11後の記録とはならないと考えたのである。」(同書、283-284頁)
 番組はその後、日本ジャーナリスト会議大賞、文化庁芸術祭大賞などを得た。ただこの番組の最大の貢献は、これを見た人たちが公式発表を信じることなく、個人やグループで自主的に身近の放射能線量を測るようになったことである。それによって福島以外の地域でも「放射能汚染地図」がつくられつつあり、安全な生活を確保するのに欠かせないものとなっている。これこそがいまも私たちが直面している深刻な現実である。
by monsieurk | 2012-03-24 08:36 | 原発事故検証
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