カフェ文化
パリで最初の本格的カフェは、1684年に、パレルモ人のフランセスコ・プロコピオが、パリ6区アンシャンヌ・コメディー通り(rue de l’Ancienne-Comédie)に開いた「カフェ・プロコープ(Café Procope)」だとされている。店主の名前をそのままとったこのカフェは、その後文学者たちの溜り場になった。
「プロコープ」はいまレストランになっているが、店の内部は当時そのままの姿を伝えており、店の入り口には、大理石の板に、ここを根城に議論の華をさかせた文人たちの名前が刻まれている。百科全書派のディドロ、ヴォルテール、ルソー、19世紀に入っては、女流作家ジョルジュ・サンドや詩人のポール・ヴェルレーヌといった、錚々たる面々がこの店を愛用したという。第三共和制にいたる19世紀の中ごろから世紀末にかけて、大いに賑わった。
貴族や大ブルジョアたちが自宅で開くサロンも依然として盛会だったが、気取った雰囲気にあき足りない人たちは、気のあった者同士カフェに集まり、冗談を飛ばし、辛辣な議論をたたかわせては、新しい芸術を生み出していった。
そうした一つに、画家のエドゥアール・マネが足繁くかよった「カフェ・ゲルヴォア(Café Guervois)」がある。マネは生粋のパリっ子で、サロンよりも気楽なカフェの愛好者だった。「ゲルヴォア」は、パリ17区バティニョル大通り(現在のクリシー大通り)にあって、当時ギュイヨ通りにアトリエを構えていたマネは、制作を終えると、いそいそとカフェへ出かけていった。「ゲルヴォア」では、毎夜やって来るマネのためにテーブルが一卓確保されていた。
マネは「ゲルヴォア」のスケッチを残しているが、彼のまわりには親友のドガのほかに、一世代若いルノワール、バジール、モネ、シスレーなどが集まった。マネとドガは物腰の洗練された申し分ないパリ人士であるのに対して、若者たちはいずれも地方から出てきた無名の画家にすぎなかった。彼らは頑なに伝統にしがみつく官展派(アカデミシアン)に対抗する激しい敵愾心で結ばれていた。
マネの作品は、描かれた対象の点でも、その技法の上からも、絵画の伝統への挑戦であり、良俗を紊乱するとして官展(サロン)から出品を拒否された。それでもマネは意気軒昂として作品を描きつづけた。「ゲルヴォア」に集まる画家たちは、「バティニョル派」と称せられ、やがてパリ画壇の中心にのし上がっていく。この仲間たちがあの印象派をつくりあげることになるのである。
画家や文学者たちがカフェに集まるようになったのには、華麗な内装を誇る居心地のよい店がいたるところに出現したという背景があった。
1853年、ナポレオン三世によって知事に任命されたオスマン男爵は、中世以来の古いパリの建物を取り壊し、大通りを貫通させ、その両側に高さのそろった四、五階だての建物の建ち並ぶ近代都市を出現させた。建物の二階から上は個人の住宅。通りに面した一階には、商店、レストラン、カフェが軒をつらねた。昼間は白い石造りの建物が陽に輝き、夜は夜で、発明されたばかりのガス燈が店内を明々と照らしていた。
食器の触れあう音、テーブルをはさんで飛びかう楽しげな会話。人びとはかつて経験したことのない明るい夜を心から楽しんだのである。