アルルI ゴッホの遺産
アルルは紀元前6世紀に、ローヌ川沿いにギリシャ人が建設したという歴史を誇る街です。その後ローマ帝国の属州の重要な都市となり、水運の便がよいことから大いに栄えました。街自体はさして大きくありませんが、ローマ時代の遺跡である円形闘技場、古代の野外劇場、浴場跡、街をめぐる城壁、12世紀に建てられたサン=トフィーム教会と附属する回廊など、歴史的建造物に事欠きません。
ただ19世紀になって鉄道が開通すると、ローヌ川を利用する輸送が激減し、アルルは経済的には衰退してしまいました。そのアルルを救ったのがファン・ゴッホでした。
ブログ「ゴッホと浮世絵Ⅱ」(2012.6.27)で紹介したように、ゴッホは1888年2月21日に、私たちが下りたのと同じ駅に降りたち、この街へやってきました。
彼が住んだ「黄色い家」は取り壊されて現存していませんが、有名な《夜のカフェ》の対象となったカフェは、「カフェ・ファン・ゴッホ」と名前を変えて店を開いています。街の中心の「フォーラム広場(Place du Forum)」に面していて、レストランやホテルが広場を囲んでいます。広場は朝から夜遅くまで観光客で一杯ですが、地元の人たちに聞くと「カフェ・ファン・ゴッホ」の評判はもう一つで、観光案内所でも、「あそこは高いし、店員の態度も横柄だ」とあまり勧めないとのことです。
ゴッホにちなんだ場所としては、ブルターニュにいたゴーギャンを呼んで、しばらく共同生活をしたあと、耳切り事件を起こして入院した市立病院(Hôtel Dieu)があります。ここはいま、「ゴッホの空間(Espace Van Gogh)」という名前の展示場になっていますが、建物やゴッホが描いた庭はそのままで、さまざまな色の花が咲き乱れていました。
ゴーギャンと激論を交わしたあと、ゴッホが自分の耳たぶを切り落としたのは、1888年12月23 日の夜のことで、医師の手当てをうけたあと、この市立病院にしばらく入院しました。翌年になると、彼を知る人たちが精神病院に入れるよう陳情するようになり、そのせいもあって、ゴッホはアルルを去って、近くのサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院へ入ったのでした。そのゴッホの事績を訪ねていま大勢の観光客がやってきて、それで街は潤っています。
街を歩いていると、さまざまな言葉が耳に入ってきます。そして目立つのは中国人観光客の多さです。しかも彼らのほとんどが、夫婦に子ども一人、あるいは若い女性の2人連れといった個人旅行です。
言葉を交わしたアルルの人たちはみな親切で、嫌な思いをさせられたことは一切ありませんでした。レストランの女性、バスの運転手さん、お店の人たち、古本屋の親爺さん・・・彼らの歌うような南のアクセントと笑顔はなんとも魅力的です。