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ムッシュKの日々の便り

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哲学小説(5)「わが西遊記」Ⅳ

 沙悟浄が次に出会ったのは、四辻で演説をする青年だった。彼はフランス思想家パスカルの『パンセ』の断章を思わせる思想を大声で叫んでいた。
 「我々の短い生涯が、その前とそのあととに続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤の中に投げ込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酩酊とに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を汝の惨めな理性を恃んで自惚れ返っているつもりか? 傲慢な身の程知らずめ!」と、自己に執着する者を批判し、神を信じることこそが唯一の道だと説く。
 沙悟浄は白面の青年がいうことに共感を覚えるが、自分がいま求めているのは神の声ではないと思いかえして、彼の許を離れた。
 五番目は子輿〔しよ〕と名乗るせむしの乞食だった。悟浄はこの乞食こそあるいは真人〔しんじん、道教でいう道に達した人物〕かも知れないと思うが、この男の言葉や態度にどことなく誇張されたものを覚え、その醜さにも生理的な反撥を感じて立ち去る。
 子輿は自分は女偊の弟子で、師は北の方二千八百里にある流沙河が赤水と墨水とに落ち合うあたりに庵を結んでいるという。そこで沙悟浄はその方角を目指して旅をすることにした。その途中に目ぼしい道人修験者の類がいれば、必ずその門を叩くことにした。
 そうしてまず会ったのが鯰の妖怪である虯髯鮎子〔きゅうぜんねんし〕だった。この妖怪は貪食と強力で評判だった。鮎子は評判通りに、彼の眼の前を泳いでくる一尾の鯉をつかみ取ってムシャムシャかじりながら、「この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わしの餌とならねばならぬ因縁をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲にふさわしい振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げていくばかりじゃ。まずはすばやく鯉を捕え、これをむしゃぶってから、それを考えても遅うはない。(中略)ばかばかしく高尚な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前は」という。要は形而上学的考察を加える前に、まずはぱくつくことだというのである。そして悟浄を見る眼を急に光らせると、喉をゴクリと鳴らした。そして貪食なその顔が近づいてきたのを見て、沙悟浄は強く水をけって泥煙を立てながら、鮎子が住む洞穴を抜け出した。彼は苛刻な現実精神を、身をもって学んだ思いだった。
 次には蟹の妖精にして隣人愛の説教者、無腸公子を訪ねる。この聖者が慈悲忍辱を説きながら、突然飢えに駆られて自分の子を食べるのを見て仰天してしまう。それでも公子のいう「本能的没我的瞬間」に学ぶべきものがあるかもしれないと感じ、いちいち概念的な解釈をつけなければ気のすまない自分を反省するのだった。
 八番目は蒲衣子の庵室はいわば同調者の集まる道場だった。四、五いる弟子は、師にならって自然の奥義を探求する者たちだが、自然の陶酔者といった方がよいかもしれない。自然を観て、その美しい調和のなかに透過することが彼らの目的であった。
 悟浄はこの庵室に一カ月ほど滞在し、その間彼は弟子たちとともに自然詩人となった宇宙の調和を讃え、自然の最奥の生命に同化することを願った。ある日、弟子のなかの美しい少年が、ひょいと水に溶けてしまう出来事が起こった。彼があまりに純粋だったからである。悟浄はこうした静かな幸福に惹かれつつ、やはり自分には場違いではないかと感じてここにも長く留まることはできなかった。
 九番目の班衣鱖婆〔はんいけつば〕は五百余歳を経た女怪だったが、肌のしなやかさは処女と異なるところはなく、肉欲を極めることを唯一の生活信条としている。
 「この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河紗劫無限の時間の中でも誠に遇いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何が考えることができるでしょう。ああ、あの痺れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」、「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ」と説くのだった。
 沙悟浄はそれ以後も、自己および世界の究極の意味について尋ね歩くが、賢人たちの説くものはまちまちで、何を信じたらよいか混乱するばかりだった。
五年の遍歴のあとで、悟浄が見出したものは、賢くなった自分ではなく、さまざまなものを吸収したために、かえって空疎になった自分だった。目指す女偊に会えたのは、そんな混乱の果てのことだった。(続)
by monsieurk | 2012-11-29 23:39 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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