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ムッシュKの日々の便り

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哲学小説(6)「わが西遊記」Ⅴ

 女偊は一見するところきわめて平凡な仙人で、悟浄が来ても別に彼に教えることもなかった。ただときどき誰に言うでもなく、なにごとかを呟くのだった。沙悟浄はいそいで聞き耳をたてた。
 「賢者が他人について知るよりも、愚者が己について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女偊の許にきて3カ月のあいだに聞いた唯一の言葉だった。諦めて去ろうとしたとき、女偊は、「一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物である」と、悟浄に教えを垂れた。
 そして最後にこう言った。「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行われるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
 悟浄は長年の遍歴のあいだに、思索だけでは泥沼に陥るばかりであることを感じているけれども、いまなお自分を突破して生まれ変わることができずに苦しんでいると、率直に答えた。すると女偊は言った。
 「お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみをもって眺めながら、自分も思い切って飛び込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
 師の教えが骨身に徹したが、それでもどこか釈然としないものを残したまま、沙悟浄は女偊の許を辞した。悟浄は、誰も彼も偉そうに見えて、じつは何も分かっていない。もう誰の意見も糺すまいと心に決めた。彼はようやく躊躇する前に試みてみよう、結果の成否は忖度せずに努力してみよと決心をしたのである。
そして肉体の疲れからか、いつしか眠りにおちた。空腹も忘れ、夢もみなかった。
 ふと眼を覚ますと、大きな春の満月の光が浅い河底を穏やかな白い明るさで満たしていた。悟浄はまわりを泳いでいる魚を五、六匹手掴みにしてムシャムシャ頬ばり、腰に下げていた瓢から酒をラッパ飲みした。ただただ美味く、反省の気持も湧かなかった。
 するとそこへ観世音菩薩があらわれ、悟浄は夢うつつに菩薩の声を聞いた。「汝の求むるところは、阿羅漢も辟支仏〔びゃくしぶつ〕もいまだ求むる能〔あた〕わず、また求めんともせざるところじゃ。(中略)身のほど知らぬ『なぜ』は、向後一切打捨てることじゃ。」
 菩薩は悟浄に対して、今後は一切の思念を捨て、ただただ身を働かせることによって、自らを救おうと心がける必要がある。それ以外にお前の救いはないと諭した。そのためには、今年の秋、この流沙河を横切るであろう玄奘法師に従うことだ。それこそがお前にふさわしい唯一の勤めだ。苦しくとも疑わず、ただ勤めることだ。玄奘法師の弟子のひとりである孫悟空は、無知無識、ただ信じて疑わない者で、汝はこの者に学ぶところが多いだろうと告げて、観世音菩薩は立ち去った。
 その年の秋、はたして沙悟浄は大唐の玄奘法師に会い、その力で水から出て人間になりかわることができた。そして勇敢で天真爛漫な孫悟空や、怠惰な楽天家の猪悟能とともに新しい遍歴の途に上ることになった。だがその途上でも、まだ完全には懐疑から脱していない沙悟浄は、依然として独りごとを言う癖があった。
 「どうもへんだな、どうも腑に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったことになるのか? どうも曖昧だな! あまりみごとな脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが・・・」
 「わが西遊記」の前篇『悟浄出世』は、この思いで終わる。しかしこの段階でも、悟浄の懐疑が解消されたわけではない。誰も分かっていないのなら、お互いに分かっているふりをすることだ。分かっていないことを、お互いに分かりきっているという約束のもとで、みなが生きているのだとすれば、それをいまさら分からない、分からないと騒ぎ立てる自分はなんと気の利かない困り者だろうというのが、彼の自省の念だった。(続)
by monsieurk | 2012-12-01 23:33 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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