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ムッシュKの日々の便り

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哲学小説(7)「わが西遊記」Ⅵ

 『中島敦全集』第一巻の解題によると、『悟浄嘆異』には草稿(28枚)と清書原稿(33枚)が残されていて、原稿の文末には「昭和十四・一・十五」の記入があり、この日付は赤鉛筆の二本線で消されているとのことである。この日付と抹消が何を意味するのか。一部の研究者は、これから『悟浄嘆異』の執筆時期を昭和十三年から十四年とするが、仮にしこの説を採れば、『悟浄嘆異』は『悟浄出世』に先立つ二、三年前に創作されたことになる。完成の時期を確定するには、赤線の意味を推測する必要があるが、中島敦はまず『悟浄嘆異』を書き、そのあとで悟浄の懐疑と悩みの実態を明かす『悟浄出世』を創作したと考えてまちがいない。
 『悟浄嘆異』は、「紗門悟浄の手記」と副題されているように、三蔵法師に出会い、その力で水から出て人間となりかわることができた(これが「出世」の意味である)沙悟浄が、三蔵法師や孫悟空などの現実界の存在に触れて、考え、触発された事柄が率直に吐露される。そそしてこれはそのまま当時の中島自身の内的体験にほかならない。
 沙悟浄が先ず感じるのは、懐疑的な自分とは正反対の孫悟空の生き方に対する驚異と羨望である。彼は悟空を真の天才だと思う。
 「初め、赭顔・鬚面のその容貌を醜いと感じた俺も、次の瞬間には、彼の内から溢れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくとも立派だ)とさえ感じるくらいだ。その面魂にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと溢れている。」
 悟空の体内には豊かな激しい火が燃えている。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらもその信じる通りに信じないではいられなくなり、こちらまでが何か豊かな自信に満ちてくる、そんな存在である。
 彼は火種であって、世界は彼のために用意された薪であり、世界は彼によって燃やされるためにある。もともと意味をもった外の世界が彼の注意をひくのではなく、むしろ彼の方で世界に一つ一つ意味をあたえていく。彼のうちなる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火種に、火を点じていくのだ。だから彼にとって平凡陳腐なものは何一つなく、すべてが新しく賛美の的なのだ。
 火である悟空にとって、災厄は油だともいえる。困難に出会うと、彼の全身は(精神も肉体も)燃え上がる。逆に平穏無事のときは、おかしいほどしょ気ている。彼は独楽のようにいつも全速力でまわっていなければ倒れてしまう。だから困難な現実に出会ったときでも、彼には目的地への最短の道筋しか見えず、その間に引かれた太い線の上を、困難を踏み越えて進もうとする。
 悟空は考えるのに先立って行動する。目的への最短の道に向かって歩き出している。彼の場合は思慮や判断は渾然と腕力行為のなかに溶け込んでいるのだ。
 沙悟浄は悟空が文盲で、無学なことを知っている。かつて天上で弼馬温〔ひつばおん〕という馬方の任にあったのだが、それをどう書くのか、その役目の内容も知らなかった。それでも沙悟浄は、「悟空の(力と調和された)知慧と判断の高さとを何ものにも優〔ま〕して高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある」、「目に一丁字のないこの猴〔さる〕の前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない」、これが沙悟浄の率直な思いである。
 かつて流紗河の川底で悩みに悩んでいた沙悟浄にとって、無意識に体験を完全に吸収する不思議な能力をもつ悟空、懐疑を知らない自然人、行動人である悟空は驚異の存在である。
 悟空のもう一つの特徴は、決して過去を語らないことである。彼は過ぎ去ったことは忘れてしまうらしい。少なくとも過去の具体的な出来事は忘れてしまうが、そこから得られた教訓は、その都度彼の血液のなかに吸収され、ただちに彼の精神と肉体の一部と化す。だから悟空はそうした教訓を、いつ、どんな苦い経験から得たかさえすっかり忘れ果てている。(続)
by monsieurk | 2012-12-03 23:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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