バスクの文学、キルメン・ウリベ(1)
小説は著者が見聞きした、祖父母以来三世代の逸話を積み重ねる形で展開する。この時期のバスク地方は政治的に激動のなかにあった。冒頭は、「魚と樹は似ている」という暗示的な文章ではじまるが、魚の鱗には樹と同じような年輪が刻まれているという。
彼の故郷はピレネー山脈をはさんでフランスとスペインにまたがるバスク地方のスペイン側の、中心都市ビルバオから東へ60キロの港町オンダロアで、家は代々漁師だった。
1970年生まれというから、5歳のときにフランコ総統が死去し、スペインは民主主義の国に生まれ変わった。スペイン内戦以来40年続いたフランコ独裁政権のもとで、バスクの人たちは独自の言語であるバスク語の使用を禁じられていた。だがそれも政治体制の変化で解除された。ウリベは日常的にバスク語を使い、学校でスペイン語を学んだ。大学ではバスク文学を専攻し、卒業後はバスク語の新聞にコラムを書いて文筆の道に入った。これが彼の略歴である。
訳者の金子奈美さんは、東京外国語大学大学院総合国際研究科博士課程に在籍し、バスク地方とスペイン語圏の現代文学を専門としている。
私たちの世代は、フランス側バスクの出身で、暁星で長らく教鞭をとったカンドウ神父を通して、バスクの歴史や文化について教えられたが、今日ではスペイン側に約58万、フランス側に約8万のバスク語の使用者がいるとされる。ただ彼らの大部分はバスク語と、スペイン語またはフランス語との両方を併用している。
バスク語は西側ヨーロッパでは唯一の非インド・ヨーロッパ語で、系統的にはどの言語とも関連がない。基本的な語彙と文法の構造が、フランス語、スペイン語、英語など周囲の言語とはかけ離れていて、ヨーロッパの人たちにとって習得するのは大変難しく、英語のジョークに、「悪魔がバスク人を誘惑しようとバスク語を習ったが、7年間で覚えたのは〈はい〉と〈いいえ〉だけだった」というのがある。フランス側の街バイヨンヌの「バスク民族博物館」には、「かつて悪魔は日本に住んでいたが、それがバスクの土地にやってきた」という説明文がまことしやかに書かれている。彼らにとっては日本語を学ぶのと同じほど、バスク語は難しいというのである。
小説は、ニューヨークでの講演に招かれた話者(著者のウリベ自身)が、ビルバオから飛行機でニューヨークへ向かう。彼はこの旅のなかでさまざまなエピソードを思い出す。「アナロジーの働きによって、漁網の目のように編み合されていく一つひとつのエピソードは、読者をさらなる連想へといざなうだけでなく、現代のバスクから見たわたしたちの世界の姿をまるでモザイクのように描き出している」と、訳者の金子さんは書いている。
そんなエピソードの一つが、飛行機で隣り合った女性との会話である。彼女はウリベが読んでいる本を覗き込んで、その文章に興味をいだき、話しかけてくる。彼はキルメン・ウリベという作家だと名乗る。
《「そのお名前は、何語なのかしら?」
「バスク語です」
「本当に? バスク語を聞いたのは初めてだわ。面白いわね・・・」》
彼女は父親が第二次大戦中に従軍したイタリアの地を見に行った帰りだった。フィレンツェから10キロのチェルトーザには戦死したアメリカ兵の墓地があり、そこには4500人ものアメリカ兵が埋葬されていたという。ウリベはこの話に触発されて、こんな思い出を披露する。
《「僕の祖母はよくイタリア兵士の話をしていました。スペイン内戦中、うちの町は6か月ものあいだ前線にあったんです。そこへイタリア軍がやってきて、地元の女たちを追い回したんです」
「あなたのおばあさんのことも?」
「そうできた人たちはね。祖母はすごく気丈な人だったので、窓から斧を振り回してみせたんです」
「あなたのおばあさん、気にいったわ」
「でも、つらい目に遭った人たちもいました。そのことを歌った曲があります。聞かせてあげましょうか? 僕はあまり歌が上手くないけど、こういうものです」
Turubik Dauke, Turubik Dauke
トゥルビク ダウケ、トゥルビク ダウケ
Ume txiki-txiki-txikixe
ウメ チキ・チキ・チキシェ
Eta baltx-baltxa, eta baltx-batxa
エタ バルチュ・バルチャ、エタ バルチュ・バルチャ
Italiano txikixe.
イタリアノ チキシェ
(トゥルビには、トゥルビには
ちっちゃな、ちっちゃな子供がいるよ
真っ黒々の、真っ黒々の
イタリア人の赤ん坊)
「その女性はどんなにつらかったことか」
「ええ、小さな町のことですから」》(金子奈美訳)
キルメン・ウリベはこの挿話を通して、バスク語の特異性とともに、スペイン内戦でバスクの人びとが受けた傷跡をさりげなく示している。
総選挙で選ばれ政権の座についた共和派に対して、1936年7月、フランコ将軍に率いられた軍部やナショナリストたちが反乱の狼煙をあげた。スペイン内戦のはじまりだった。ヒトラーとムッソリーニはフランコのために軍隊を送りこみ、ソビエトなどは共和国政府を支援した。戦火はまたたくまに広がり、スペイン全土が戦場となった。とりわけ南のカタルーニャとバスク地方では一進一退の激戦が繰りひろげ広げられた。(続)