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ムッシュKの日々の便り

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バスクの作家、キルメン・ウリベ(2)

 スペインのバスク地方をはじめて訪れたのは1975年のことである。この年の11月20日、フランコ総統が死去し、遺体はマドリッドのオリエンテ宮殿コロンブスの間に安置されて、市民の弔問をうけた。日本人特派員として、もっとも早く死に顔を目にした一人だった。
 「私はすべての人に許しを乞う。そして私を敵だといった人たちを許す。私自身はそう考えたことはなかったのだ。私の敵はスペインの敵以外にはいない。スペインとキリスト教文明の敵は、いまも虎視眈々としていることを忘れてはならない」。これがフランコの国民にあてた遺言だった。
 彼の死後、ホアン・カルロス一世が国王となり、スペインでは総選挙が行われることになった。これに合わせてスペイン共産党の指導者だったドロリス・イバルリ夫人が亡命先のモスクワから帰国し、すぐに生まれ故郷バスクのサン・セバスチャンへ戻った。この折りに、彼女を追ってバスクを訪れたのである。そんな一日、かねて関心のあった山間の街ゲルニカへ行ったが、人びとは取材に対して容易に口を開こうとはしなかった。
 ビルバオ、サン・セバスチャンといったバスクの都市は、40年ぶりの選挙に沸きたち、ポスターが至るところに貼られ、キャンペーンが声高に叫ばれていた。だがこれとは対照的に、ゲルニカは重苦しく、ひっそりと静まっていた。そこにこの街がたどった異常な歴史の影を見る思いがした。そして駅前の広場のベンチに座っていた、バスク・ベレーをかぶった老人の一人が、「ピカソの《ゲルニカ》が戻る日がこない限り、スペインに本当の民主主義は生まれない」といったのである。
 スペイン内戦中の1937年4月26日の午後、フランコを支援するナチス・ドイツの空軍部隊はゲルニカを無差別に爆撃し、二千人をこす死傷者を出した。当時パリにいたピカソは、このニュースを知って、戦争の悲劇を描いた《ゲルニカ》を制作したのである。
 老人の一言をきっかけに、その後幾度もバスク地方やピカソの生まれたマラガや、彼が絵を描きはじめたバルセロナを訪れ、《ゲルニカ》誕生の経緯と、そのスペインへの帰還を取材してテレビ番組を制作し、一冊の本を書いた。それが『ピカソの祈り、ゲルニカ帰郷』(日本放送出版協会刊、1981、その後「小学館ライブラリー」、1999年)である。
 オンダロアは、ゲルニカから東へ30キロしか離れていず、ゲルニカの悲劇は彼が生まれた港町にも伝えられていた。
 《小さい頃、僕の家の居間にも《ゲルニカ》の複製画が掛っていたのを憶えている。当時、バスク地方のどこの家にも《ゲルニカ》があったはずだ。両親はそれにニスをかけていて、まるで本物の絵みたいに見えた。僕は、自分の家にあるのが本物の《ゲルニカ》で、友達の家にあるのは皆、その複製にすぎないのだと思っていた。
 それが本物かどうかをめぐって、学校で友達と口論したことすらあった。結局、僕の家のは上からニスを塗ってあるだけで、他の家にあるのと変わらないのだと認めなくてはならなかった。
 だが、物事を本当らしく見せるためには、ほんのちょっとニスを塗るだけでときには充分なのだ、ということもたしかだ。ごくささいな細部が、物事を別物に変えてしまう。
 ピカソがしてみせたのは、まさにそれだった。》(金子奈美訳)
 本物の《ゲルニカ》は、1936年5月からパリで開かれた万国博覧会のスペイン館に展示されたあと、ヨーロッパを巡回した。1939年1月、内戦最後の激戦地だったバルセロナがフランコ軍の手に落ちた。バルセロナ攻防戦ではピカソの甥のフィニ・ヴィトラとジャヴィエ・ヴィトラも共和政府軍の一員として戦闘に参加した。3月28日、共和政府側はフランコ側に無条件降伏した。
 《ゲルニカ》はこの年の5月から、ニューヨークの「近代美術館」(MOMA)に委託され、長い間そこに展示されることになった。スペイン本国では、血の粛清がはじまった。共和派に協力した者は片端から捕えられた。200万の人びとが投獄されて処刑され、あるいは強制収容所に入れられたという。(続)
バスクの作家、キルメン・ウリベ(2)_d0238372_22203549.jpg

by monsieurk | 2013-02-07 23:20 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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