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ムッシュKの日々の便り

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バスクの文学、キルメン・ウリベ(3)

 1975年11月のフランコ総統の死去の前から、バスク地方の独立運動は激しさを増していた。フランコ独裁政権に反発して、1959年に結成されたETA(バスク語:Euskadi Ta Askatasuna「バスク祖国と自由」)は、1960年代に入ると、バスク民族主義に反対する政治家や、実業家、知識人などを標的にテロ活動を展開した。1973年にはフランコの後継者と目された当時の首相、ルイス・カレロ・ブランコの車をマドリッドで爆破して殺害した。これに対して、フランコ政権側もETAの活動メンバーを摘発して処刑するという強硬手段で応じた。
 友人のフランス人ジャーナリストを介して、ETAの幹部と接触できることになったのは、1976年春、テレビ番組『ゲルニカの帰郷』の取材を前にしたときである。国境に近いフランス側の街サン・ジャン・ド・リュッツのホテルで待ち合わせる約束ができた。私たちはカメラマン、それに案内役の友人の三人、やがてコンタクト相手のスペイン人があらわれ、車で出発した。国境を越えてしばらく走ったところで、袋を頭から被るよう指示された。場所を特定できないようにする用心だという。
 そこからどう走ったのか。1時間ほどで車は停まり、降りるように云われた。頭巾を脱ぐと、そこは林を切り開いた窪地で、同じように目の部分だけが開いた頭巾姿の2人の男が来ていた。フランス人の友人の通訳で30分ほどインタビューしたが、その間、ETAの幹部だという彼らは、バスクの人たちがいかに政治的、文化的に差別されてきたか。こうした現状を打開するには力に訴える以外に手段はないと、彼らの考えを語った。
 帰りも頭巾を被らされたために、自分たちがどこに行ったのか、ついに分からなかった。インタビューはテレビ番組の一部として放送された。
 キルメン・ウリベも、『ビルバオーニューヨークービルバオ』のなかで、当時のバスクの緊迫した状況を思い出している。
 《僕は、子供の頃のある出来事を思い出した。フランコの死が近づいていたとき、バスク人二人を含む反体制派の活動家五名が処刑された。バスクに非常事態宣言が出されるなか、警察は家々を隈なく捜索して回っていた。僕の家でも母が、家族を危険に陥れる可能性のあるポスターやチラシ、パンフレットといったものをかき集めて処分した。他の数知れぬ人びとがしたのと同じように。
 そうこうするうちに、窓の外に目を光らせていた母は、家の前の通りに警察の黒塗りの車が停まったのに気づいた。たちまち、そこかしこから警官たちがまるでヤモリのように現れた。一瞬のちには警察が戸口にたちはだかり、家のドアを開けるよう命じていた。
 警視は自信たっぷりに家に踏み込んだ。明らかな嫌疑があり、この家で何らかの証拠が見つかると確信していたのだろう。(中略)・・・
 捜索はあとひと部屋を残すのみとなった。「それは娘の部屋です。病気で寝ているんです」と母はスペイン語で懇願した。姉が寝込んでいたにもかかわらず、彼らは一瞬もためらわずにその部屋に立ち入った。
 すると突然、警官の一人が、姉のベッドの横に置かれていたナイトテーブルの抽斗に何かを見つけ、上司を呼んだ。警官は足早に近づいた。母は恐怖に駆られた。そして疑念が頭のなかを駆け巡った。ひとつ残らず集めたと思ったのに、まだ残っていたのだろうか。何か書類を忘れていたのだろうか。もう頭が真っ白だった。母は娘のことを哀れむような目で見つめた。
 「大丈夫よママ、歌詞だから(ラシヤイ・アマ、カンタク・デイラ)」と姉が、病人の弱々しい声でささやいた。警視は動揺した。そして娘は何と言ったのかと訊ねた。
 「熱があるようです。水がほしいと」と母はスペイン語で伝えた。
 警察は何も見つけられないまま立ち去った。
 あの暗黒の年月に、疎外され、身を潜めるようにして生き延びていた言語が、母と姉をあの苦境から救った。彼女たちは自分の身を守るために、古い言語を使った。それが今、蝶を捕まえに行ったあの二人の女の子は、同じ言語を遊びのなかで使っている。》
 二人の女の子とは、ウリベが知人の映画監督を故郷オンダロアに案内したとき出会った地元の子どもたちである。
 2010年9月5日、ETAはビデオの声明を出して、武装闘争の停止を決めたと発表し、1年後には武装闘争を最終的に放棄すると宣言した。
 『ビルバオーニューヨークービルバオ』には、美しく、ほほえましい逸話も随所に散りばめられている。ニューヨークに向かうために、ウリベが搭乗した旅客機はビルバオを飛び立つと、一度ヴィスケ湾に出たあと旋回して内陸に航路をとり、ゲルニカ、オンダロア、ムトリクといった街の上空を通過する。ウリベは自分が新聞に書いたコラムを思い出す。
 「2005年の秋、僕は『聖ヒエロニムス』と題したコラムを書いた。そこで僕は、十代の頃、サン・ヘロニモ地区〔オンダロアとムトリクの間の土地〕の巡礼祭に両親と行ったときのことを綴った。(中略)・・・いきさつはこうだ。僕はそのとき、カシアノという盲人のアコーデオン弾きが地区の広場で演奏するところを見るために両親と出かけていった。すると入口のところで、他の男の子たちと同様、トランプのカードを一枚手渡された。トランプは二組あって、男の子には一組から、女の子にはもう一組から配られていた。若者たちは各自、自分と同じカードを持つ男女と踊ることになっていたのだ。何てことだろう!
 僕は恥ずかしさに耐えきれなくなって、その幸運のカードをどこか隅のほうに捨ててしまい、結局誰とも踊らなかった。
 僕はずっと、自分と同じカードを手にしたまま、待ちぼうけを食わされた女の子は誰だったのだろう、と思っていた。彼女はその後、恋人を見つけることができたのだろうか、それとも今もまだ、カードの持ち主が現れるのを待ち続けているのだろうか、と。
 それがコラムの内容だった。
 記事は2005年の秋に掲載された。その冬のある夜、ネレアが僕のところにやってきて言った。「サン・ヘロニモのお祭りで、あなたと同じカードを持っていたのはわたしよ」
 それ以来、僕らはずっと一緒だ。》
 ウリベはニューヨークに着くと、入国管理の質問票に、アメリカ合衆国での滞在先として、NY10019、ニューヨーク市コロンバス・サークルのカルメンチュ・パスクアルの住所を書く。そこはニューヨークに来たときいつも泊めてもらう家なのだ。
 カルメンチュは14歳でバスクを離れてニューヨークへやってきたのだが、彼女を迎えてくれたのはデザイナーの二人の叔母だった。彼女たちは、バスク自治州政府の初代首班で、内戦の最後の時期にニューヨークへ亡命したホセ・アントニオ・アギーレのスーツを仕立てたという人たちだった。カルメンチュはその時からニューヨークに住んでいて、翻訳を生業にしている。
 《彼女はプロの翻訳家だ。引退したらサンセバスチィアンに帰りたいの、と彼女は僕に言った。
 というのも、ニューヨークに住んでいても、故郷のことが忘れられないからだ。何か勘違いすると、「このところ、イガラブル家のマルティナの驢馬みたいな調子なの。荷車を引きどうしで」とよく言っていた。
 カルメンチュはサンセバスティアンに戻ったら、長年の夢を実現したいと思っている。バスク語を勉強するのだ。彼女のバスク語の知識はごくわずかだったが、なかでも「ゴシュア」という単語をよく使った。その言葉だけを、彼女はしっかりと記憶していた。彼女の考えでは、それが意味することこそが人生でもっとも大切なことだった。「甘美」や「優しさ」、そして「喜び」が。》(金子美奈訳)
 樹や魚の鱗に刻まれた年輪のように、バスクの人たちも歳月を重ねた。キルメン・ウリベの世代には、「ゴシュア」という言葉が象徴する、融和と共生を求める気持が確実に育っているように見える。『ビルバオーニューヨークービルバオ』がその何よりの証拠である。
by monsieurk | 2013-02-09 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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