ムッシュKの日々の便り

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天井桟敷の人びと(2)

 ヴィシー政権の政治的協力として一番大きかったのは、ユダヤ人への差別政策である。プレヴェールとコンビを組むトローネやコスマはユダヤ人であるために仕事から締め出されたが、それはドイツ占領軍が占領地域でユダヤ人取締法を施行し、ヴィシー政権も自由地域で同じような法律を決めた結果だった。
 1941年の夏には「ユダヤ人定員法」が実施されて、法律家と医師は全体の2パーセント、大学教授は3パーセントというように、フランス国籍を持つユダヤ人の就職を厳しく制限した。ユダヤ人は公職から追放され、公共の場からも締め出された。しかもユダヤ人は買物も午後の一定の時間に制限されるといった差別をうけた。
 文化面でもドイツへの協力体制がつくりあげられた。ジャーナリストや作家、芸術家が、論文や講演で占領軍への協力を呼びかけ、ナチズムを賛美し、反ユダヤ主義を宣伝した。「NRF(新フランス評論)」の編集はドリュ・ラ・ロシェルの手にゆだねられ、対独協力の作家たちの作品を多く掲載するようになった。有力な出版社グラッセも、ドリオ、ドリュ・ラ・ロシェル、ジョルジュ・シュアレスなどの熱烈な対独協力派の作品をすすんで刊行した。
 各出版社が協力して「オットー・リスト」がつくられた。これはユダヤ人作家や亡命作家の出版物を絶版にするための禁書リスト〔オットーはドイツ大使の名前〕で、ドイツのハイネ、フロイト、ブレヒト、ツヴァイク、トーマス・マン、フランスではレオン・ブルム、ジュリアン・バンダ、ルイ・アラゴンなどが対象となった。さらにシェイクスピア、ミルトンなどイギリスの作品も書店の店頭から姿を消した。こうして千点以上の書物が破棄され、図書館からは反ナチズムを訴える書物が没収された。
 ラジオでは、占領地域の「ラジオ・パリ」、自由地域の「ラジオ・ヴィシー」がしきりに親独的なプロパガンダを流し、親独的な作家や芸術家がドイツに招待された。その一方で、「サラ・ベルナール劇場」は、彼女がユダヤ人であったという理由で、「シテ劇場」と名称を変更させられた。同じフォビスムの画家としてスタートしたヴラマンクは、反ナチスのピカソを、「フランス絵画をまったく致命的な袋小路へ・・・否定、無力、死へと引き込んだ元凶である」と非難した。それぞれの芸術上の立場とは別に、ナチスとどのような距離を保つかで、かつての仲間が対立し合った。
 1942年2月、ジャック・ルコント=ボワネは、「レジスタンスの人びとの運動」をひそかに設立した。そしてカメラマンのアンリ・アルカンは、「ニース映画青年芸術技術センター」の同僚や、ラ・ヴィクトリーヌ撮影所の写真カメラマンとともに連絡網をつくり、抵抗運動の支援に動き出した。彼らは偽の身分証明書をつくり、お手のものの映像を用いた呼びかけを行った。その一つがルネ・クレマンの製作したドキュメンタリー映画『鉄路の戦い(鉄路の人びと)』である。
 これはニースとマルセイユの間で撮影され、ドイツの軍隊輸送を妨害する抵抗運動を描いたものだった。ただ映画の場合は、公開には検閲を通す必要があったから、一般の人びとがこの映画が目にしたのは戦後になってからだった。
 出版の世界では事情が若干異なっていた。ナチスを擁護する出版物しか許可されなかったなかで、外国に亡命しなかった知識人の多くは沈黙を余儀なくされた。紙とインクは配給制で、印刷所には当局の監視の目が光っていた。しかしこうした困難にもかかわらず、ヴェルコールが「深夜叢書」を創刊し、彼自身の『海の沈黙』が叢書の第一号となった。次いでフランソワ・モーリアックの『黒い手帳』、エリザ・トリオレの『アヴィニョンの恋人』が出版されて、監視の目をくぐって人びとの手から手に渡っていった。ジャン・ゲーノ、アラゴン、エリュアールたちの「深夜叢書」は、人びとの士気を高めるのに大きな役割をはたした。
 『悪魔が夜来る』の撮影が1942年4月22日からはじまるという予告がリヨンの新聞に載った。新聞はドイツ協力派のもので、4月18日号にニコラ・ヴェドレが書いた、「ジャック・プレヴェールとの会見」という記事のなかで伝えたものであった。
 記事によれば、城のセットがようやく完成したが、監督のカルネはそれを真っ白にして欲しいと注文を出したといった内明け話が披露されていた。中世の城は建造された当初、すべて輝くような真新しさだったことを、みなは忘れているというのである。
 だが撮影を開始するにはまだ多くの問題がった。映画には多くの馬が登場するが、ニースの周辺でこれを確保することができず、ヴィシーに駐留する憲兵隊の馬を借りる交渉をしなければならなかった。さらに衣装を揃えるのも一苦労だった。中世の豪華な衣装をつくるのに欠かせない、絹、ビロード、金襴がなく、発明されて間がない化学繊維で仕上げるしかなかった。そのため撮影では出来るだけアップを避ける必要があった。さらには晩餐会のシーンで、テーブルに山と盛られる鳥獣の肉や果物を調達するのも大変だった。占領下でこれらを実現するには大変な費用と手間がかかる。そこでプロデユーサーのポールヴェはカルネに、プレヴェールのシナリをできるだけカットするように要求する始末だった。
d0238372_21462790.jpg 『悪魔が夜来る』は予定より3週間遅れて5月13日にクランク・インした。映画について、主演の一人アルレッティはクリスチャン・ジルとの対談でこう語っている。
 「――カルネとプレヴェールとあなたとの忘れがたい共同作業の一つだった『悪魔が夜来る』は、意表をつく独特の雰囲気に満ちた映画でしたね。
 不思議な登場人物がいっぱい出てきてね。神秘さが、奇妙で独自の空気を支配しているの。こんな雰囲気をもった映画は他にないでしょう。
 ――あなたの演じた役は不可思議を通り越して、正体が掴めないといった感じでした。
 ジャックはそれを私の性格の中に感じ取ってあの役を書いたんですって。“ドミニク”という名前も性の区別がなくて、曖昧に両性具有の存在を暗示しているわ。(中略)
 ――『悪魔が夜来る』の特異な役を演じることには、最初不安はありませんでしたか?
 全然! プレヴェールのような大詩人がくれた、あれほど素敵な役は思わず抱き締めたくなるほどよ。それに外見や人格を変えるのは役者の仕事ですもの・・・
 ――ドイツ軍の占領期間中、映画製作への規制はなかったのですか?
 大俳優たちの参加を妨げるようなことはなかったわ。財政はすかんぴんだったけど、彼らにはしっかりギャラがおりたの。それは占領者側に向かって、私たちがいい映画を作れることを示さなくてはならなかったからよ。(中略)
 ――特に好きな場面はありますか?
 いいえ、すべてが美しいから。映像自体が素敵なの。カルネという、優れた指揮者によって完璧に演奏された映画なのよ。」(クリスチャン・ジル『女優アルレッティ――天井桟敷のミューズ』松浦まみ訳、一二九-一三〇頁)
 アルレッティは、プレヴェールを「大詩人」と呼んでいるが、これは彼の『ことば(パロール)』が出版されたあとにインタビューがなされたためで、戦前のこの時期、彼の詩が広く知られていたわけではない。そしてプレヴェール自身は、「詩人」と呼ばれることを嫌っていた。
d0238372_21463052.jpg 1942年6月17日、『悪魔が夜来る』の製作責任者だったジョルジュ・ランパンが、撮影開始の直後に辞めることになった。映画監督の仕事がまわってきたからである。そこでランパンは、プレヴェールに、アルフレッド・アダムが書いたばかりの『シルヴィーと幽霊』を脚色してくれるよう依頼した。プレヴェールはこの仕事を引き受けるとともに、『悪魔が夜来る』の撮影現場にもよく顔を見せた。二人の恋人が最後に抱擁する泉は、プレヴェールたちが住むトゥレット=シュル=ルーの丘の麓につくられ、ここは彼にとっても馴染みの場所だった。
 プレヴェールは1960年に行ったインタビューで、「戦争に立ち向かえる唯一の映画、それは恋愛映画だ」(Libération、1960年8月12日号)と語ったように、困難のなかで製作されつつある映画に大いに期待していた。ただし予定よりかさむ制作費を切りつめる必要から、ポールヴェが彼が考え出したシーンの幾つかを削るように要求するのには閉口した。彼の抵抗もむなしく、ユグー男爵の城全体が、最後に崩壊してしまう大掛かりなシーンは撮影されなかった。こうして『悪魔が夜来る』の撮影は9月まで続けられた。
d0238372_21463376.jpg 『悪魔が夜来る』が、パリの「マドレーヌ映画館」で封切られたのは年も押しつまった12月5日である。映画が上映されると、新聞の批評はどれも好意的で、地下鉄やバー、美容院など人が集まるところはどこでも、この映画の話題で持ちきりだった。
 発行部数50万部を誇る「ル・プティ・パリジャン」誌で、映画評論家のフランソワ・ヴァンヌイユ(政治評論は本名のリュシアン・ラバテで執筆していた)は、「『悪魔が夜来る』は、私たちの願いをかなえてくれた。忠実な脚本家のジャック・プレヴェールとともに、マルセル・カルネは伝説の国の美しい世界でしばしば見られる、泥臭いドラマを見事に逃れている。・・・カルネは繊細さと本物らしさを十分に取り入れて、象徴と暗示と不思議な味わいを結婚させることに成功した。そして絶妙な照明技術を駆使して撮影された、ごく限られた映像で構成される映画の隅々にまで、偉大な愛の詩が表現されている。・・・カルネの映画は一時代を劃した。それは映画をして高貴な文芸にまで高めたといえる」と激賞した。
 また「タン」紙では、詩人で小説家のエミール・アンリオが、「『悪魔が夜来る』の作者たちは真の詩人と劇作家の作品をつくりあげた。私がこの快挙に真っ先に拍手したいのはその点である。それは映画を詩の高みに、つまり、創意、想像力、「夢想と魅惑の森」のなかの精神の偉大なる自由にまで高めた」と評価した。
当局もこの映画のなかに非難されるべき箇所を見出すことはなく、ヴィシー政権の息がかかった映画産業組織委員会は、「グランプリ」を授与した。
 ただスペインに駐在していたフランス大使だけは、この映画にひそむ危険な臭いをかぎ当てた。フランス文化を海外に宣伝するために、映画がドイツ領事の支援の下でスペイン大使館に送られたとき、これを試写した大使は、ヴィシー政権のラヴァル首相に宛てた1944年4月8日付けの手紙で、次のように警告してきた。
 「宣伝のためのデモンストレーションとして、この映画を上映するのは時宜に適わず、また危険でさえあると考える。(中略)小職はこの映画に、道徳のまったくの欠如、非宗教性、無宗教といった側面を見出す者である。映画の作者は、十字架や「教会」を観客に示すことを一瞬たりとも考えてはいない。(中略)ここで展開されるのは、情熱的な接吻、感情の昂ぶり、恋愛の恍惚の笑うべき悪習だけである。」(Album Prévert. p.176)
 しかしこの大使のように、映画の真の狙いを見抜いたのはごくわずかの人たちだけだった。評判は上々で、カルネは「新聞はみな一様に、私にたいしていまだかつてないほどの賛辞を送ってくれている。今後もこんなことは決してないだろう。」(Marcel Carné:La Vie à belles dents. p.176)と書いている。その意味ではプレヴェールが語ったように、これは戦争に対抗できる唯一の恋愛映画だったのである。
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by monsieurk | 2013-04-04 20:10 | 映画
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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