横浜「ゲーテ座」Ⅱ
サルダはフランスの名門「エコール・サントラル(中央大学校)」を卒業後、海軍省に横須賀造船学校の機械学教官として雇われて、明治6年10月に来日した。そして造船学校、東京帝国大学理学部で教鞭をとったあとは、三菱財閥に技術者として就職し、横浜や東京で数々の建物を設計・建築した。
新劇場のこけら落としは、明治18年(1885年)4月18日に行われたヨコハマ・アマチュア管弦楽団による記念演奏会であった。新劇場は建坪270坪、レンガ造り、地下1階、地上2階の建物であった。升本匡彦の『横浜ゲーテ座』に、劇場の内部を紹介する「ジャパン・ウィークリー・メイル(Japan Weekly Mail)」の記事が引用されている。
「三方に扉があるポーチを通って中へ入る。ポーチの正面は車寄せである。入ってすぐの部屋は、両端に暖炉が設けてあり、56フィート×20フィートの広さ。真上二階に同じ大きさの部屋がある。客席との間にもう一つ、54フィート×12フィートの部屋がある。そこに階段があり、将来は切符売場が設けられる予定である。
客席へ通じる二つの自在ドアがある。右側は奇数番席、左側は偶数番席の入口である。観客席は、62フィート×54フィートの広さで、壁のガス灯と天井からの日光と天井に吊るされたガス灯とによって明るくされている。天井からの照明が充分なので、壁のガス灯はあまり使われることはないだろう。天井は放物線状で、中央部の高さは45フィートである。床には新しい工夫がこらしてある。地下室のねじボルトの操作により、床はステージと同じ高さに持ち上げられ、きわめて短時間の中に、舞踏会の会場に変えることが出来る。客席は、現在のところ籐椅子で、ゆっくりとして涼しく、快適である。必要な場合には簡単に取りはずせるようになっている。
オーケストラ・ボックスは、31フィート×9フィートの広さ、緞帳には、湖に浮かぶ小島という大変美しい日本の風景が描かれている。・・・
舞台の大きさは54×26フィート。照明はフットライトと天井からの4基のスポットによってなされる。俳優休憩室は舞台背後にある。舞台左側のプロンプター席とその反対側は、使われない時にはかなりの観客を入れることができるだろう。グリーン・ルームは54フィート×18フィート、そして広い楽屋が4室ある。大道具、小道具、衣装などの倉庫は地下にある。」
こうして見ると新しい劇場はオーケストラ・ピットまで備えた本格的なもので、目的に応じて居留民の社交の場とすることもできるようになっていた。事実、開場後の2回目の集まりは、4月23日に開かれたパブリック・ホール基金募集舞踏会で、3回目は同月29日にパブリック・ホール・アソシエイション定例総会が開かれている。こうした会合の際には、客席の籐椅子は取り払われたのであろう。
パブリック・ホール・アソシエイション(The Public Hall Association)が劇場を建設するための組織だったことから、劇場は「パブリック・ホール(Public Hall)」と名づけられ、日本人の間では、「横浜山手公立戯場」あるいは「横浜公堂」と呼ばれた。
横浜の居留地は明治32年(1899年)に廃止されたが、劇場は明治40年(1907年)に商業劇場に衣替えして「ゲイェティ座」の名称が復活し、その後も居留民を中心とした在日外国人の社交や娯楽の場として活用された。やがて来日するようになった海外の本格的劇団の出し物を観るために、日本人もやって来るようになった。(続)