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ムッシュKの日々の便り

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「ドゴールのいるフランス」Ⅱ

 ドゴールが政権に復帰したとき、世界は東西冷戦の真っただ中だった。ドゴールはアメリカ、ソビエトを中心とした東西両陣営とは一線を画す、ヨーロッパによる第三極をつくるべきだと考えた。最初に手をさしのべたのが西ドイツだった。こうして戦後ヨーロッパの枠組みを決定することになる、西ドイツ首相コンラート・アデナウアーとの会談が1958年9月に実現した。
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 山口晶子さんはこの歴史的瞬間を、エピソードをまじえて紹介している。
 「アデナウアーは、コロンベイ・レ・ドゥゼグリーズの自宅に招かれた唯一の外国の首脳だ。アデナウアーを自宅に招待することを告げられたお手伝いさんが、当初、敵国のドイツ人のために料理を作ることを拒否したが、最後にはドゴールに説得された、という逸話が遺されている。アデナウアーは、1969年に発刊された『回想録』で、このときの会談について、「私は彼の簡潔で自然な非常に感じの良い態度に驚いた・・・。この会談の最重要点は二人のこの時点の現実に対する視点の調和が明らかになったことだ」と記し、二人が人間的信頼で結びあっていた点を強調している。」
 かつて3度の戦をまじえた仏独首脳の間に信頼関係が醸成されたのには、人間的資質が似ていたことに加えて、アデナウアーがプロイセンではなく、ライン河をはさんでフランスのすぐ東にあるラインラントの出身であり、大多数のドイツ人と違って、プロテスタントではなくカトリック教徒だったことが見逃せない。
 こうしてフランスと西ドイツの両国は協力してヨーロッパ共同体(EEC)を牽引するパートナーとなり、1963年にはエリゼ条約(仏独協力条約)を結んで安全保障の面でも緊密な同盟関係を築いた。 
 その一方、ドゴールはアメリカ、イギリスに対しては警戒的であった。その背景には第二次大戦終結時に、アメリカのローズベルト大統領がドゴールに対して冷ややかな態度に終始したこと、またイギリス首相チャーチルとの関係が次第にぎくしゃくしたことがあった。ドゴールの反アングロサクソンの姿勢が如実に示されたのが、ヨーロッパ共同体へのイギリスの加盟問題である。
 イギリス首相マクミランは、1961年8月、ECCへの加盟を申請するが、ドゴールはすぐには認めなかった。そしてドゴールが懸念するような事態が翌年に起きた。キューバ危機が回避された直後の1962年12月、カリブ海にあるバハマ諸島の首都ナッソーで会談したケネディーとマクミランは、アメリカがイギリスにポラリス型ミサイルを提供し、イギリスはそれに核弾頭を装備して原子力潜水艦に搭載し、これを米英共同の管理下に置くという協定に調印した。「ナッソー協定」と呼ばれるこの協定はキューバ危機を意識したものであった。
 この協定内容は、ドゴールがかねて抱いていた疑念を裏づけるものであった。イギリスがEECに加盟すれば、結局は巨大な大西洋共同体が出現して、EECはアメリカの支配下に置かれ、やがてはそのなかに吸収されかねない。ドゴールにはイギリスがアメリカの「トロイの馬」であると見えた。そのためドゴールは、イギリスの二度にわたる加盟申請を拒否した。
 イギリス、アメリカの世論はドゴール批判で湧きたち、フランス産のシャンパーニュやブドウ酒の不買運動がおこった。結局、イギリスの加盟はドゴールが退陣するまで待たなくてはならなかった。
 山口さんは、アングロサクソンのドゴール嫌いを象徴する一つに出来事を紹介している。20世紀が終わろうとする1998年4月、アメリカの週刊誌「タイム」は、20世紀で世界にもっとも影響をあたえた指導者は誰かという特集を組んだ。そこではチャーチル、ローズベルト、スターリン、ガンジー、毛沢東など20人があげられたが、ドゴールの名前はなかった。
 「この「タイム」のリストに対する当時のフランスのメディアの反応ぶりが興味深かった。
左派系の「リベラシオン」紙が真っ先に、4月9日発行の紙面で、《アメリカ人から忘れられた偉大なるドゴール》と皮肉を込めながらも、どこか悲しげな見出しを掲げた。
 「リベラシオン」は、1969年の5月革命後の1973年に創刊された。創刊当時のフランスの社会には、1969年に10年の長期政権の末に退陣したドゴールに批判的な反ドゴール主義が横溢していた。「リベラシオン」も反ドゴールが看板で、学生や若者層が読者対象だった。紙名の命名者は哲学者のジャン=ポール・サルトルである。この反ドゴール主義、つまり左派支持、反右派は創刊以来、一貫した方針である。
 しかし、この記事には明らかに、フランス人としての静かな怒りや、こういう見識のない選出を行ったアメリカ人への痛切な皮肉が読み取れる。「アメリカ人はいつも、何もわかってはいない。特にヨーロッパに関しては」との声が、この見出しからは聞こえてきそうだ。」
 フランス外交の基本は「自主外交」路線であり、これはドゴール以来、1981年に誕生した社会党のミッテラン大統領の時代も変わらなかった。1991年1月に、ジョージ・ブッシュとサッシャー首相が主導し開始された「湾岸戦争」で、ミッテラン大統領は最後までフセインのイラクとの話し合いによる解決の道を探った。さらに2003年の「イラク戦争」をめぐっては、当時のシラク政権のドミニク・ドビルパン外相は、国連安保理にアメリカが提出したイラク攻撃を容認する決議案に、拒否権をちらつかせて反対した。こうしたフランスの姿勢に対して、英米のメディアは一斉にフランス批判を展開した。
 「何よりも、フランス国内にはアメリカの、特に当時の大統領、ジョージ・W・ブッシュの「無法者は撃て」式のイラク戦争には拒否反応があった。アメリカ流の粗野な方式を嫌う反米気分は、常にフランス人の心の奥底に潜んでいる。これは米仏の文化の相違でもある。「唯一の超大国となったアメリカの一国主義による新世界秩序の危機」(フランス外務省高官)も強く叫ばれ、国民の共感を呼んだ。アメリカが開戦理由とした、核兵器など大量破壊兵器の存在に関しては、国防省は「確証が得られない」として、大いなる疑問符をつけていた。後に、大量破壊兵器は存在しないことが明らかになり、フランスの情報も判断も正しかったことが証明された。」これが当時パリにあって各方面を取材したジャーナリスト山口昌子さんが下した結論である。
「ドゴールのいるフランス」Ⅱ_d0238372_6212718.jpg 『ドゴールのいるフランス』では、この他にも興味深いフランス分析が幾つもこころみられている。その一つがフランスの知識階級の一部に厳として存在するドゴール嫌いをあつかった件〔くだり〕である。詳細は本書をぜひ読んでほしいが、山口さんによれば、その理由の一つはドゴールが軍人だったこと、さらにはドゴールが、「結局は自分たち「知識人」よりはるかに分析力も洞察力もある本来の意味での「知識人」だったことにあるとする。政治家ドゴールが本質的に「知性」の人であることに、いわゆる「知識人」は戸惑い、嫉妬していたのかもしれない」という。そしてこの「知性」こそが、危機の時代の政治家にもっとも求められる資質だというのが、本書での山口さんの結論である。
 産経新聞は20世紀が終わるにあたって、この時代を人物からふり返る大型連載を企画した。フランス駐在の山口昌子さんは、最初はデザイナーのココ・シャネルを担当して、フランス人の取材相手に企画の意図を説明した。すると取材相手は口々に、「20世紀を代表するのはドゴール将軍。どうして彼を取り上げないのか」と指摘したという。こうした体験がもとになって、この血の通った「ドゴール伝」が成立したのである。
by monsieurk | 2013-06-25 20:29 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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