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ムッシュKの日々の便り

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小牧近江のヴェトナムⅡ「クラルテ運動」

 第一次大戦が終結した1918年11月18日から8カ月がたった翌年の6月26日、フランス社会党の機関紙「ユマニテ」は、作家ロマン・ロランの名前で「精神の独立宣言」を掲載した。
 ロランは宣言で、「戦争はわれわれの隊伍に混乱をひきおこした。大多数の知識人は、彼らの知識や芸術や理性を用いて自国の政府に奉仕した。(中略)〔大戦中〕思想の代表者でありながら、思想を堕落させ、思想を変じて一つの党派、国家、祖国、あるいは一つの階級と、我利我欲の道具と化した」と自己批判した上で、「このような危険や卑しい結託やひそかなる隷従から精神を脱却させよう」と訴え、「われわれこそ精神の従者であり、(中略)他に主(あるじ)を持たないわれわれは、人類のために、ただ全人類のためにのみ働く」との決意を示した。
 この宣言には、アラン、アインシュタイン、マクシム・ゴリキー、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセル、アプトン・シンクレア、タゴール、ステファン・ツヴァイクなど世界各国136名の知識人が署名していた。
 国土の10分の1が戦場となったフランスでは、総人口の16%にあたる人命が失われた。負傷者は330万を数え、国庫の負債は300億フランをこえた。この結果、国は勝利の翌日から未曽有のインフレに襲われ、人びとの生活は困難をきわめた。
 1919年11月に行われた戦後初の総選挙では、賠償などで対ドイツ強硬策を主張し、帰還した兵士の多くが参加していたナショナリストの政党「国民団結(Block National) 」が大勝し、社会党をはじめ左翼政党の多くが議席を失った。
 この間ハンガリーでは革命政権が生まれ、ドイツでも4月から5月にかけて、バイエルン州にソビエト政府が出現し、他の都市でも革命の機運は収まらなかった。
 翌1920年になると、北イタリアではストライキが続発し、工場占拠がはじまった。こうしたヨーロッパ全体の雰囲気はフランスにも影響をあたえずにはおかなかった。
 戦争に協力した社会党や労働組織に不信感をもつ若い活動家たちは、1920年2月の社会党大会で、第2インタナショナル(ソビエトが主導した国際共産主義運動の組織)から脱退する決議を採択し、CGT(労働総同盟)を動かして5月から次々にストを打った。こうして社会的不安が高まり、フランスも革命前夜という雰囲気に包まれた。だがこの動きは、政府が軍を動員する強行策をとったために挫折し、6月には国内の秩序は一応の回復をみた。
 ただこの年12月25日から4日間トゥールで開かれたフランス社会党大会では、第3インタナショナルへの加盟が、3028票対1022票で可決され、多数派は党名をフランス共
産党に変更することを支持し、これに不満の少数派は分裂してフランス社会党をそのまま名乗って、第2インタナショナルに留まることになった。当時のフランス社会党員は18万人で、そのうち13万人が共産党に移った。
 こうした社会状況のなかで、作家アンリ・バルビュスを中心に一つの運動がはじまった。バルビュスは1919年5月10日の「ユマニテ」紙に、「グル-プ・クラルテについて」という文章を発表し、「作家と芸術家たちは、有志の熱望に応え、また教育者として、また先導役としての大きな義務から、一丸となって社会的行動を起こそうと決意した」と述べて、自らの小説の題名「クラルテ(光)」をグループ名に掲げ、運動の目的を「人間の解放」であるとした。その上でフランス以外の作家や思想家たちにも呼びかけて、「人民のインタナショナル」と平行して、「思想のインタナショナル」の結成を訴えたのである。
 「クラルテ」グループは翌6月、シリルを事務局長として「真理の勝利のための知識人の連帯の国際連盟」として正式に発足。隔週発行の機関紙「クラルテ」を10月11日に創刊した。
 発足当時の「クラルテ」運動には三つのグループが混在していた。一つは、バルビュスをはじめとする平和主義者の既成作家ないし大学教授たち。二つ目は、第3インタナショナルに加盟している戦闘的コミュニストのグループ。三つ目が、第2の過激分子に理解を示しつつも、自らの戦争体験をなによりも重要視する青年たちであった。「クラルテ」運動はこの三者の微妙なバランスの上にたっており、1920年12月に社会党から分かれて結成された共産党とは一線を画しつつ、反戦主義にもとづく文化運動として歩みだしたのである。
 近江谷駉(おうみや・こまき)は、パリ講和会議が終わって間もない1919年10月のある金曜日、旧知のスヴェリーヌの尽力で、フランス滞在中の吉江喬松とともに、「ル・ポピュレール」社の三階にあった「クラルテ」社を訪れて、アンリ・バルビュスに面会した。このときバルビュスは、戦争中フランスの作家たちは何をやったかと口火を切り、こう語ったと駉は小説風の自著の『異国の戦争』で述べている。
 バルビュスは思想の国際化・インタナショナルを説き、労働者には労働者の、農民には農民の、兵士には兵士の任務があるように、思想の鉾(ほこ)もまた世界的に結束されなければならないと説いたという。会見は駉に強い印象をあたえ、帰国してこの運動を日本にも広めようと決心した。
 そう決心はしたものの、17歳のときから苦労を重ねたパリを去るとなると、駉の胸のうちは複雑だった。彼は夜な夜なモンパルナス界隈で過ごすうちに画家の藤田嗣治と知り合い、パリの思い出に、これまで書き溜めた詩に挿画を描いてくれることになった。藤田はまだ無名だったが、その才能に目をつけていた豪華版の出版を手がけるベルノワールが自分で活字を組み、藤田嗣治の挿絵入りのフランス語の限定版詩集『Quelques poèmes(詩篇いくつか)』を出版してくれた。(この詩集についてはブログ「誌画集Quelques poèmes(詩篇いくつか)2012.10.26および2012.11.1を参照)
 駉の回想録『ある現代史』によれば、バルビュスから、「反戦運動を広めるために、広く世界の同志を糾合するように」委嘱された彼は1919年暮に10年振りで帰国し、真っ先に宮崎県日向の「新しき村」に武者小路実篤を訪ねた。「クラルテ運動」の趣旨を熱心に説く駉にむかって、武者小路は趣旨には賛成だが、団体運動には参加しないことにしているとして有島武郎を推薦した。
小牧近江のヴェトナムⅡ「クラルテ運動」_d0238372_215557.jpg 帰国後の駉はパリ時代のつてで、翌1920年(大正9年)外務省情報局に嘱託として採用され、そのかたわら小学校以来の友であるの金子洋文と東京で会い、仲間たちで雑誌を出すことにした。二人は郷里の友人今野賢三を誘い、さらに近江谷友治、畠山松治郎らを加えて、故郷土崎港で菊版18ページの小冊子を刊行した。これが日本のプロレタリア運動の魁となった雑誌、土崎版「種蒔く人」である。創刊号は1921年2月、部数は200部であった。編輯後記にはこうある。
 「偽りと欺瞞に充ちた現代の生活に我慢しきれなくなって「何うにかしなければならない」という気持が一つとなって生れたのがこの雑誌です。その気持をこゝで説明する必要ありません。読んで下さるとよく了解されることゝ思います。
 最初の目標が少し違っていたので本号は程度は低いが、次号からずつと高めたいと思っています。そしてこの雑誌は主として文学的に進み外に月一回位宛パンフレツトを発行します。今その計画中ですが、クロポトキンの「戦争」バルビュスの「光」ロランの「賭殺されし人民に」トロツキーの「手紙」等続々発行いたします。」(原文は旧字旧かな)
 編輯兼発行人は近江谷駉、印刷人 寺内林治、発行所は秋田県南秋田郡土崎港清水八九 寺林印刷所、発行所は種蒔き社。定価は二十銭だった。
 第2号は同年3月、3号は4月に刊行されたが、新聞紙条例に決められた発行保証金が払えず、雑誌は3号で打ち切りとなった。当時の外務省さえ実態をつかんでいなかった第三インタナショナルを、堺利彦と並んで日本に紹介した最初の文献であった。
 大戦中の好景気の反動で1920年には恐慌が起き、翌21年には戦後恐慌が続いて失業者が増え、ストライキの波が日本全国をおそった。大戦中に起こった「ロシア革命」の影響もようやく顕著になりはじめていた。雑誌は一度廃刊に追い込まれたが、駉たちが本格的な雑誌を東京で出版したいと考えるようになったのには、こうした時代背景があった。
 1921年10月、雑誌「種蒔く人」の再刊第1号は、発行所を東京に移して刊行された。第1号は56ページ。『ある現代史』によれば、「戦時中ジュネーヴ発行、禁断のアンリ・ギルボーの編集の“Demain(明日)”誌の体裁を借りた」ものであった。
 表紙には横文字で「種蒔く人」と書かれ、その上にエスペラントで、「LA SEMANTO」と記されている。さらに題字下には「行動と批判」とあり、表紙のカットは同人の柳瀬正夢が描いた「爆弾」であった。再刊第1号には赤い帯がついていて、ここには「世界主義文芸雑誌」とあった。
 東京版「種蒔く人」は1921年(大正10年)10月から、関東大震災直前の1923年8月まで都合21冊が刊行され、各巻の裏表紙には、最初は日本語で、検閲による削除が行われるようになってからはエスペラントで宣言が印刷されていた。
 「嘗つて人間は神を造った。今や人間は神を殺した。造られたものゝ運命は死ぬべきである・・・」
 「真理は絶対的である。故に僕たちは他人のいえない真理をうふ・・・」
 「僕たちは生活のために革命の心理を擁護する。“種蒔く人”はここにおいて起つ――世界の同志と共に」
 創刊号はスタートと同時に発禁処分をうけた。近江谷駉は雑誌では本名をひっくり返したペンネームを用い、作家小牧近江が誕生したのである。
by monsieurk | 2013-07-16 22:30 | 芸術
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