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ムッシュKの日々の便り

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小牧近江のヴェトナムⅩ「小松清3」

 小松清はクオン・デとの関係について、「新潮一時間文庫」の一冊として刊行した『ヴェトナム』(新潮社、昭和30年)で詳細に語っている。そのなかに次のような一節がある。 
 「インドシナではD王国とまでいわれたほど手広く商売をしていたM氏は、戦争中彊柢〔クオン・デ〕侯の仏印探題とも云うべき位置にあった。一種の政商とも云える風格をもった実業家で、ヴェトナムの独立運動とは最も因縁の深い日本人の一人だった。ことに親日系のナショナリストたちや、そのうちの大物の亡命者で、多かれ少なかれ、M氏の庇護をうけなかったものは少ない。」(原文、旧字旧かな)
 このMとは松下光広のことで、インドシナで事業を展開する一方でクオン・デの独立運動を支援し続けた。この他にも政治家の犬養毅や,、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵が、娘婿のインド独立運動家チャンドラ・ボースとともにクオン・デを支援していた。ただ小松が同書で云うように、当時の日本では政治家であれ、軍人であれ、外交官、実業家であれ、日本の利益から建前として関心を寄せるだけで、その地に生きる人たちが置かれている状況には無関心であった。例外は大アジア主義の立場をとる石井石根や大川周明や、参謀本部の将校や外務省のインドシナ問題に関心をもつごく少数の人たちだけだったった。
 小松は国内での支援体制を一応つくりあげると、ふたたびインドシナの地を訪れることを画策した。今度は改造社社長の山本実彦に同道して、改造社特派員の肩書きで1941年(昭和16年)12月12日に神戸を発つ予定をたて、それを通知する挨拶状までつくった。
 ところが直前の12月8日、真珠湾急襲が行われ太平洋戦争が勃発した。小松はこの日の早朝、特高に寝込みを襲われ、一日の取調べのあと翌9日留置所に連行された。逮捕の理由は、人民戦線派の危険思想の持つ主ということであった。こうして彼は1941年から42年にかけての冬を牢獄ですごしたが、監房では非合法ながらヴェトナム語の学習をおこたらなかった。
 小松が釈放されたのは1942年3月である。出所するとすぐに旅券を申請したが、希望がかなうはずはなかった。彼は特高の監視下にあり、霞ヶ関の東京刑事地方裁判所検事局思想部に定期的に出頭することを義務づけられていた。
 こうした状況下ではできる仕事も限られていた。手をつけていた『金雲翹』の梗概を雑誌「東寶」に載せたあと、先にも触れたように、翻訳を単行本として東寶発行所から刊行した。巻頭には「松岡洋右先生に捧ぐ」と献辞が印刷されている。さらに松井石根と大川周明にも本を送り、二人から直筆の礼状をうけとった。インドシナへ行くために仏印に関心をもつ人物にできるだけ接触したいという焦りのあらわれであった。
 小松は次いでフランス人ロラン・ドルジュレスの『マンダリン・ルートにて』を翻訳し、これは「安南のきのうきょふ」という題で、雑誌「創造」(1942年12月号)に掲載したあと、タイトルを「印度支那」を変えて翌年には金星堂から出版した。
 その上で南洋映画協会の嘱託となり、映画『田園交響曲』(アンドレ・ジッドの原作を映画化した山本薩夫監督、原節子主演の作品。ジッドや出版元のNRFへ無断で製作して問題となったが、小松が仲介して不問にふされた)や李香蘭主演の『支那の夜』を仏印へ配給することに尽力した。小松の念頭にはいまや仏印行きしかなかった。
 事態が好転したのは1943年の春になってからである。外務省の田代重徳がサイゴンの日本大使府に公使として赴任することになったのである。田代は外務省のなかでインドシナ問題に関心をよせる数少ない人物で、小松とは昵懇の間柄だった。小松はこの好機に自分を私設秘書にしてほしいと頼み、田代はこのことを外務省につないでくれた。こうして小松は、「仏印問題に対する私見」を書いて外務省に提出した。
 これが功を奏したのだろうか、小松は田代公使の私設秘書(滞在経費は現地公使館の負担)の肩書きで旅券が交付され、田代とともに1943年4月、福岡から飛行機でサイゴンへ向った。
 サイゴンの日本大使府では私設秘書として情報の収集に当たるほかに、積極的にヴェトナム人の中に入って、現地の要人との接触をはかった。その一人がクオン・デの復国運動の同志で、ヴェトナム南部のカトリック信徒を掌握していたグオ・ディン・ジェムだった。グオはフランス官憲にマークされ、日本軍参謀部の庇護のもとにショロン地区にある日本衛戍病院にかくまわれており、小松はよくここを訪れて彼や日本軍参謀たちと情勢分析にあたった。
 小松が親交を結んでもう一人が社会主義者のファン・ニョック・タックである。ファンはフランスで医学博士号を取ったインテリで、サイゴンにもどった後は呼吸器の専門病院を経営していた。二人は互いに抱く信念とともに、ともに青年時代をフランスですごした経験から、すぐに肝胆あい照らす仲となった。ファン・ニョック・タックは何年も前から合法的にヴェトナム人を束ねる準備をしていた。それがサイゴンのスポーツ連盟だった。会長や名誉役員にはフランス人の有力者を担いだが、実際の実権は彼が握っており、集まっていたのはサイゴンのインテリ・グループで、いざというときには独立運動の中核をになう者たちだった。
 小松としては民族独立を熱望するヴェトナム人への共感から、ヴェトナム人たちからすれば、日本軍の進駐が独立の機会となることへの期待から互いに結びつきを強めたのである。実際、現地にいる陸軍参謀の一部にはク・デタの準備を画策する動きもあったが、東京の大本営や政府はそれを許さなかった。仏印におけるフランスとの協調政策を崩してまで、ヴェトナムに独立と主権をあたえることは考えもしなかったのである。そして本国の方針が明らかになるにつれて、心情的には小松と同じ側に立っていた田代公使も、現状維持の線で動かざるをえなかった。その結果小松は大使府のなかで次第に孤立していった。
 同じころ大使府情報部にいて、小松の言動を冷静に観察していた那須国男は次のように述べている。
 「彼〔小松清〕の政治的行動なるものも、肌を触れ合った友情の範囲内の力しかもたなかったので、日本軍と仏印政庁という二つの権威のしたに生きる安南人たちには、小松清の呼びかけは扇動一方の裏づけのないものと受け取られていたようである。(中略)
 また安南の独立を求める人々にしても、小松清の呼びかける日本との協力による独立ではなく、日本の敗退に伴う行動として独立を考える動きもあったようだ。仏印政庁が傍受する短波放送は日本の大使府情報部あたりにも回されていたから、一部の安南人もソロモン海戦の結末や、カサブラン会談、スターリングラード戦の終了の模様の機微を知っていたはずである。みずからイメージの孤独に焦燥するのか、小松清は夜の酔いと、若い友人たちとの交わりに耽ることが多かった。」(「大東亜共栄圏下のベトナム――小松清をめぐって」、「思想の科学」1963年第57号)
 若い友人たちとは、仏印に進出している貿易会社の社員たちで、彼らの多くは農村出の若者で、大川周明塾で学んだ人たちが多かった。ヴェトナム語を学び現地にとけこもうとする彼らは、大東亜共栄圏というスローガン以上に、現地での体験からヴェトナムの現状を理解しようとしていた。小松は彼らの先生格としてヴェトナム問題を説き、彼らの行動力に期待した。
 こうしてヴェトナム独立運動に肩入れすればするほど、彼の大使府での立場は微妙なものになっていった。やがてこれ以上田代に迷惑をかけることはできないとして、1944年1月、小松清は在サイゴン日本大使府を辞めた。
by monsieurk | 2013-08-09 22:30 | 芸術
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