小牧近江のヴェトナムⅩⅥ「帰国」
翌日は、彼らを見送るためにミソフ大尉やヴェトナム人の友が大勢きてくれた。持てるだけの荷物をつめたリュック・サックを担いだ男たちはタラップを上り、船に乗り込んだ。やがて船が埠頭を離れると、桟橋のヴェトナム人は別れを惜しんでハンケチを振ってくれた。現地にヴェトナム人の妻子を残していくために涙を流すものもあった。この地で生まれた子どもたちは甲板に集まって、ヴェトナム語の歌をうたった。
のちに小松清はこう書いている。
「終戦後、東亜の各地から引き揚げてきた日本人にたいして、現地人がどのような態度をとったか、私はよくしらない。罵言と投石の下に、その地を引き揚げた人々、身につけた一切を略奪され、着のみ着のままで、やっと生命だけを唯一の財産に発ってきた同胞も少なくないときいてる。それにくらべると、このインドシナは何という愛惜の地であったことか。吾が同胞をおくる彼らの胸の中の歌を私はよくしっている。彼らのうちに、日本人が再び帰ってくるのを心待ちにしている人々(もちろん今度は侵略民族としてではなく、平和な友人としての日本人を)は決して少なくないのを私はしっている。日本人が足跡を印した外地の到るところに、破壊と憎悪だけがのこされた(もちろんそうしたところもあったろうが)といった伝説が日本人の多くの人々によって普及され、日本人のうちに暗い鬱悶と自責と絶望の種がまかれているのを見聞するにつけ、少なくともインドシナに関しては、そのような伝説は通じないと私は云いたい。かつて在外にあった日本人を、私はここで弁護しようといった意図は毛頭ない。悪質な同胞の数の方が遙かに多かったことは疑うべくもなかろう。ただ、私がここで云っておきたいのは、日本人のすべてがそうではなかったということである。ヒューマニストとして、彼らの善き友として、良き種をまいた人々も、また少なくなかったことを私は自信をもって云っておきたいのである。」(小松清「マルロオの手紙」、「新潮」1948年5月号)
こうした評価が独りよがりのものでないかどうかは、ヴェトナムの人たちが決めることである。ヴェトナムで刊行され、フランス語に翻訳された歴史書を読む限りでは、日本軍の進駐や3・9事変に言及しているが、その後の小牧や小松たちの行動に触れたものはない。
この時期のフランスと日本の交渉についての資料に関しては、「外交資料館報」第22号(平成20年12月)掲載の、立川京一「第二次世界大戦における日本と仏印の関係について」附属の資料一「未刊行資料一覧」、資料三「在フランス仏印等関連資料(外務省・軍)が詳しく列挙している。この他フラン仏印現地の状況についてのフランス側の文書は、南仏エクス・アン・プロヴァンスにある旧植民地商の文書館に所蔵されている。またヴェトナムでは、ハノイの国立図書館とホー・チ・ミン(旧サイゴン)の国立第二文書館が関係資料を蒐集しているが未見である。(完)