津軽言葉による太宰治
朗読会場は新宿のバー「風紋」。今年80才になった店主林聖子さんは、太宰治の『メリイクリスマス』の「シズエ子ちゃん」のモデルといわれ、古田晃に可愛がられ長く筑摩書房の編集者だったことから、文人や編集者たちが集まることで有名である。朗読会が催された夜も編集者、俳優、写真家などをまじえて30人ほどが集まった。
鎌田氏は声量豊かなバリトンで、表情豊かに『魚服記』全篇を朗読し、普段読みなれた作品とはちがった魅力を聴くものにあたえてくれた。
その魅力は活字では到底伝わらないが、鎌田訳の出だしは次のようなものである。
「本州北のとっつぱれの山脈〔さんみゃぐ〕ア、ぽんじゅ山脈てすのし。だがだが三四百米〔ふゃぐメータ〕、丘陵が起伏してるばりだはんで、ふつうの地図さは載らさってね。むがし、このへん一帯、ふろぶろてへた海であったずはんで、義経が家来だぢば連〔つ〕いで北さ北さど亡命して行って、うって遠〔と〕げ蝦夷の土地さ渡〔わだ〕るってこごば船でとおったずおん。そのづぎ、彼等〔あいど〕の船コぁ此の山脈さ衝突ささったんず。突ぎあだった跡〔あど〕コ、今でも残〔のご〕ってらおん。山脈のまんながころのもんもらどした小山の中腹〔ちゅうふぐ〕ねそれェあれしたね。約一畝歩〔やぐふとせぶ〕ばりの赤土〔あがつぢ〕の崖〔がげ〕がそれだのし。」
鎌田氏の朗読は抑揚をこめて情景を描きあげていく。耳で聴くだけでは三分の一は意味が通じないが、『魚服記』と『走れメロス(走っけろメロス)』の津軽語訳は、鎌田氏の朗読のCD付で、飯島徹氏の出版社「未知谷」から出ている。これには太宰の原文も並置されているから、それを見ながら朗読を聴くと耳に入りやすい。
本の巻末にある「原初、メロスは津軽人であった――あとがきにかえて」によると、鎌田氏は2007年夏、北海道立文学館で開かれた企画展「太宰治の青春~島津修治であったころ~」で、津軽語に訳した『魚服記』を朗読したところ評判となり、地元弘前でも再演し、やがてこの翻訳と朗読を録音したCDが出版されたのである。ではなぜ『魚服記』と『走れメロス』なのか。その点について鎌田氏はこう述べている。
「『魚服記』については、太宰が弘前高校を卒業した四年後の昭和八年、津島修治が初めて「太宰治」というペンネームを用いた年に書かれた初期の作品で、太宰自身の中にまだ津軽的なものが十分蓄積されたままに、自らの生地に近い梵球山金木寄りの藤の滝を舞台とし、スワ〔主人公〕と父親の会話も津軽弁で書かれているという、極めて「津軽的」作品であるということが要因としていえる。一方『走れメロス』は、太宰が師井伏鱒二の媒酌により石原美知子と結婚して生活も安定し、作家としても円熟期を迎えた頃に書かれた不朽の名作である。しかも津軽から遠く離れたギリシャを舞台にした「非津軽的」作品である。この一方は「津軽的」な作品、もう一方は「非津軽的」な作品、両者が津軽語に翻訳された場合、どのような差異が生じるかというところに大きな興味があった。」
鎌田氏が関心よせる両者の差異は、一度耳で聴いただけでは簡単に論じられないが、少なくとも初期の『魚腹記』を書いている太宰治(津島修治)が、津軽語で発想していたことは容易に想像できる。私たちにとってのマザー・タングとはそうしたものであろう。
これも鎌田氏が紹介しているところだが、上京したあとも太宰の訛りは相当強くコンプレックスに感じていた。それを矯正するために、彼は十五世市村羽左右衛門のレコードを買って、正調江戸弁の修得に努めたという。そしてある夜、自信を持ってカフェに出向き、女給を相手に羽左右衛門の口調そのままに話しかけると、女給はすぐに、「お客さん、田舎は津軽でしょう」と言ったというのである。
津軽言葉で書かれた作品としては、詩人高木恭造の方言詩『まるめろ』(初版1931年、津軽書房、1953年、棟方志功装幀版)がよく知られている。同じ津軽出身の石坂洋次郎が、『石中先生行状記』のなかで、その幾篇かを紹介しているが、たとえば――
まるめろ
――死ぬ時〔ドキ〕の夢――
枯草の中の細い路〔ケド〕コ行たキヤ、泥濘〔ガチャマキ〕サ
まあるめろァ落〔オゾ〕でだオン。死ンだ従兄〔イドコ〕ア
そこで握飯〔ニギリママ〕バ喰てだオン。
まるめろば拾〔フラ〕うどもて如何〔ナンボ〕しても拾〔フラ〕へネンだもの・・・
あゝ故郷〔クニ〕もいま雪〔ユギ〕ァ降てべなあ
春
理髪店〔ジャンボヤ〕の横町〔ヨコチヨ〕バまがたら
鰊〔ニス〕焼ぐ匂〔カマリ〕ァしてだ
鎌田紳爾氏が朗読した太宰治作・津軽語訳の『魚服記』も同様に味わい深いものであった。