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オルハン・パムク

 以前、スペインの地方語であるバスク語の作家、キルメン・ウリベの作品を紹介したが(2013/2/5、2/7、2/9)、いまや各国語に通じた人たちが出てきて、さまざまな言語で書かれた文学作品を翻訳してくれるおかげで、世界の広範な文学を日本語で読めるようになった。
 トルコ語の作家としてオルハン・パムク(Orhan Pamuk)の作品もその一つで、彼の代表作、『わたしの名は赤』(Benim Adim Kirmizi)と『雪』(Kar)には和久井路子氏(藤原書店)と宮下遼氏(早川書房)による二種類の翻訳が刊行されている。
 オルハン・パムクがトルコ人作家として初めてのノーベル文学賞を授賞したのは2006年である。授賞理由は、「生まれた街のメランコリックな心情に応じて、諸文化の破壊と絡み合いのための新たなシンボルを発見した」というものであった。
 オルハン・パムクは1952年にトルコの首都イスタンブールで生まれた。イスタンブールは長い歴史のなかで東西の文明が交差する国際都市である。彼の経済的に恵まれた環境のなかで成長した。そうした経験は小説『ジェヴデッド氏と息子たち』(1982年)や『黒い書』(1990年)で、イスタンブールの個人的な思い出として描かれている。
 彼の家族はイスタンブールのヨーロッパ側で暮していたから「ロバート・カレッジ」で中等教育をうけたのち、イスタンブール工科大学に入学して建築学を専攻した。将来の夢は画家になることだった。3年後には工科大学をやめて、イスタンブール大学でジャーナリズムを学びなおし、1976年に卒業した。22歳から30歳まで、彼は母親と生活をともにしながら最初の小説を書いて、出版してくれるところを探した。
 こうした努力によって、彼は1974年からは毎年作品を発表し、最初の小説『闇と光』が、1979年に新聞社ミチエット紙が催した小説コンクールで一位を獲得した。これがのちにタイトルを変えて出版された『ジェヴデッド氏と息子たち』である。彼が育ったイスタンブールのニサンタシ地区に住む裕福な一家の三代にわたる物語だった。
 パムクの初期の作品はトルコ国内で数々の文学賞を得ているが、1985年に出版された歴史小説『白い城』は欧米の言葉に翻訳されて、彼の名前は世界的に知られるようになった。アメリカの代表的な新聞「ニューヨーク・タイムズ」はその書評で、「東方に輝く星があらわれた」とまで絶賛した。
 この評判を裏打ちするように彼の文名を一段と高めたのが、1998年に出版された『わたしの名は赤』である。この小説は32カ国の出版者が翻訳権をとり、いままでに25カ国以上で翻訳出版されている。英訳だけでも20万部近くが売れたという。
 この長篇小説はミステリーと恋物語と哲学的瞑想を織り交ぜた物語で、その舞台は16世紀オスマン・トルコのスルタン、ムラト三世治下のイスタンブール。時は1591年の雪模様の冬の9日間である。このころのオスマン・トルコは絶頂期をすぎて、政治的にも経済的にも文化的にも難題が生じていた。長びく戦争、疫病の流行、大火、そして敗北しらなかったトルコ軍はこの少し前に、ヴェネツィア共和国とスペイン王国のキリスト教連合艦隊に敗北を喫した。イスラム原理主義者は、こうした災厄は異教徒に寛大な態度をとり、ぶどう酒の販売をみとめるなど、予言者の言葉に背いたためだと説いて民衆の心をつかみはじめていた。
 細密画家のカラは、叔父にあたるエニシテ(カラだけでなく皆が「おじ上」と呼ぶ)に呼び戻されて、12年ぶりにイスタンブールに戻ってくる。オスマン帝国第12代皇帝ムラト三世は、翌年の1592年がイスラム暦の千年目にあたることから、これを寿ぐために祝賀本の作成を命じる。元高官で細密画の造詣が深いエニシテに監督を命じ、豪華本を飾る細密画を4人の細密画師に描かせることになる。
 カラにとっては細密画の制作もさることながら、軍人に嫁いだエニシテの美貌の娘シェキュレが二人の子どもを連れて、婚家から父エニシテの許へ帰ってきているのが気になってしかたがない。カラは12年前に彼女に結婚を申し入れたが、手ひどく断られ、それが原因で12年もの間諸国を放浪していたのである。シェキュレの軍人の夫は生死もわからないまま戦場からは戻ってきていない。・・・
 作品の軸となるのは、細密画の技法をめぐって展開される議論である。皇帝から制作を任された依頼された頭領のエニシデは、ヨーロッパの技法を取り入れて陰影や遠近法を使って新しい細密画を制作しようというのに対して、これをアラーの神への冒涜とみなす守旧派(これを代表するのが皇帝の細密画工房を統括する筆頭絵師のオスマン棟梁である)は激しく抵抗する。そしてこれが原因で細密画師の一人が殺され、さらにはエニシテも殺されてしまう。はたしてこの犯人は誰か。殺人の理由はなにか。
 パムクはこうした謎を仕掛けつつ、画師たちの議論を通して東西文明の衝突というテーマを取り上げたのである。結論から言えば、パムクは「東は東、西は西」をいう考え哲学を全篇で展開している。さらにこうした文明論のほかにも、細密画の世界や当時のイスラム世界の風俗や生活が克明に描かれていて興味深い。この作品の特質のもう一つは構成上の工夫で、全59章のすべてで語り手が異なる。登場人物はもとより、死体や犬、木までが語り手となって、複数の視点から物語が進行していく。そこにはカラとシェキュレの結婚話もからんでくる。
 2001年9月11日の「9・11」事件が起ると、この作品はイスラム原理主義や文明間の衝突と共存、世界におけるイスラムの役割を考える上で大いに役立つとみなされて、欧米で多くの読者が手にとったといわれる。その点ではパムクの七冊目の小説『雪』(2002年)も同様で、彼の文名を大いに高めた。
 『雪』の主人公のKa(本名はケリム・アラクシュオウルというが、学生時代から頭文字をとってこう呼ばれている)は42歳の詩人で、かつて左翼新聞に記事を書いた責任を問われて有罪判決をうけ、ドイツに亡命していたが、母親が死んだというので12年ぶりに帰国したのだった。だが生まれ育ったイスタンブールの風物はすっかり変っていて馴染むことができず、思い出を取り戻すこともできない。イスラムの社会も文化も亡命の間に急速に変化したように感じられる。
 帰国後まもなく、昔の学生運動の仲間がKaに仕事を頼んでくる。「共和国新聞」にカルスの市長選挙を取材してほしいというのである。カルスで少女たちの連続殺人事件が起っているらしいので、それもついでに取材してほしいという依頼だった。カルスはトルコの北東部にありアルメニアと国境を接していて、ここは古代以来さまざまな文明が通りすぎたところで、一時はロシア帝国の統治下にも置かれた。この物語が繰り広げられる1990年代半ばには、貧困にあえぐ地方都市のひとつとなっている。
 Kaはここ数年いい詩が書けずに悩んでおり、辺境にいけばかつてのイスラム社会と自分を見出せるかもしれないと考えて、友人の申し出を受け入れる。カルスには分離派のテロリストが活動しているらしいことも気になった。
 ただしカルスにはイスタンブール大学時代に学生運動をともにして、想いを寄せていたイペキがいることがカルス行きを引き受けた最大の理由だった。彼女は詩人のムフタルと結婚したが、その後離婚して、いまは一人暮しをしているはずだった。
 Kaはこうしてカルスに向う。途中吹雪に見舞われ、雪の中を二日間バスにゆられてようやくカルスに着く。街に入るとロシア風建築の「カルバラス(雪の宮殿)」に宿をとった。そこはイペキが父親と妹とで経営しているホテルだった。
 雪はいっこうにやまず、Kaは雪のカルスに閉じ込められることになる。・・・これが物語の発端で、イペキとのその後が大いに気になるのだが、事態は意外な方向に展開する。連続殺人と思われた少女たちの死は自殺で、それを扇動するイスラム過激派がいるらしいこと、そのトップは「紺青」という名で呼ばれ、イペキの妹が少女たちの自殺と深くかかわっているらしいことが分かってくる。さらに市長が殺害され、その背後ではイスラム主義と欧化主義の対立があるらしい。例年にない大雪で交通が遮断され陸の孤島と化したカルスで、Kaはいやおうなく宗教と暴力の渦に巻き込まれて行く。
 著者オルハン・パムクはこの小説のエピグラムとして、「文学作品において政治とは、コンサートの最中に発射された拳銃のように、耳障りだが、無視することもできないものである。今や、このひどく醜悪なものに触れることになるのである」というスタンダールの『パルムの僧院』の一節を引用し、それと並べてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の創作ノートから、「民衆を片付けてしまえ、殺ってしまえ、奴らを黙らせよ。/ 何故なら、ヨーロッパ啓蒙運動こそ民衆より遥かに重要なのだから」という文句を書きつけている。
 『雪』は芸術や詩や恋を語るとともに、現代イスラム社会(なかでもケマル・アタチュルクの革命によっていち早く近代化と政教分離を達成したトルコ社会)における宗教と政治、異なる文明との出会いとイスラム原理主義の台頭といった今日的問題をあつかっている。しかもパムクは、それをスリリングな一篇の小説に見事に仕立てあげたのである。
 パムクは9.11事件のあとで、イギリスの新聞「ガーディアン」とのインタビューで、「テロを引き起こしているのはイスラムでもなければ貧困でもない、彼らの言うことに誰も耳を貸そうとしないことだ」と語っている。パムクの一連の作品はイスラムの人たちの思いに耳を傾けるための絶好のツールである。
by monsieurk | 2013-11-12 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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