ロジャー・フライのマラルメ論Ⅳ
言葉の光暈〔オーラ〕の相互作用が、漸進的効果をあげた最高の例として、グレイの『エレジー』の碑銘の冒頭を引用してみよう。
‘Here rests head upon the lap of Earth
A Youth,’
このところ地の畝を枕に憩えるは
若者ぞ
〔読者の〕心には、先行する数行によって、高名な人物の死と死後の生涯についての、ある特別な感情がすでに醸成されている。‘Here rests’「ここに憩う」は、碑銘としては普通の書き出しだが、ある種の物悲しさを生み出してもいる。
しかし常套的な「誰それの身体」のかわりに「彼の頭」という言葉で、「とどまる」が他動詞として用いられているのを知った途端に、私たちはハッとするのである。この最初の効果は、小さなサスペンスの先触れであって、倒置法が、本当の主題がなにかを正確に知るために、私たちに待機するように強制する。もう一つの効果は、主題が亡くなった人であると察したときから、筋の運びに予期せざる活気と力をあたえることである。「畝の上」という言葉が、すでに心のなかで目に見えるようなった仕種の効果を規定し、効果を一層強める。全体の文章は、「地上」という言葉に含まれる擬人化と、共感を呼ぶ暗示によって強化され、完全なものとなる。最後に、「若者」が、普遍性、曖昧模糊とした感じ、悲哀といったものを加えることになる。そしてこれこそが詩句の鍵なのである。
ここに分析したような、言葉のイメージが持つすべての意味を、それぞれの相対的な位置関係によって表出するという方法は、機知〔ウィット〕にも当てはまる。この点で機知と詩は大変近いものなのである。
マラルメのエロディヤードが次のように語るとき、
‘O femme, un baiser me tûrait
Si la beauté n'était la mort,’
おお女よ、もし美が死でないのなら
一つ接吻が私を殺すだろう
私たちはこうした詩句が、別の意図のもとでは機知に富んだものとなるのを認める。(例としては、統治セシコトナカリセバ、統治ノ才アリト認メルコトナカラン)(1)
パロディーがもっと簡単に効果を得るのは、型の類似に働きかけることである。同じ型を保ちつつ、しかも反対の意味を持たせることからパロディーは生まれる。
詩の形式に整えられた言葉についていえば、少なくともその半分は、詩的目的よりもウィットを目標にしていることは、コミック・ジャーナルを読んでみればすぐに分かることだ。だから一般的には真実と考えられている、詩句のあるところには詩があるというのは、じつは半分の真理でしかない。詩と詩句の同一視は、低俗な詩を含めても、誤解でしかない。
詩とウィットは、同一の理由から詩句という形式を用いる。相互関係を強調することによって、言葉のイメージの効果を強化する力を増すからである。リズムもまた、期待を呼び覚まし、驚いたための沈黙を生む力を持っている。そしてウィットの場合にあっては、未解決のショックをもたらす力を持っている。
先に引用したマラルメの詩句では、「殺すだろう」という句切れが、この言葉の持つ暴力的な力を強調しているだけではなく、条件法に含まれる下降の効果と高めている。そこにはウィットの意図も含まれていて、句切れはまさにその目的にそった効果をおさめている。
言語の詩的効果とウィットの効果の違いについては、詩的効果の場合は言葉のイメージの総体とその複合は、感応を生み出し、それを心のなかで持続させようとするのに対して、ウィットの方は多少とも感応を突然に中断する点にあると、私は言いたい。
たとえば、中国語の「急収」〔ストップ・ショート〕は、警句とは正反対のものと定義される。そこでは言葉は急停止するが、意味はその先も続くのである。
原注(1) ロジャー・フライはもう一つの例を、草稿の裏に残している。「大口を開いて、我らをおもう一度噛んでみよ・・・・」(続)