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パブロ・ネルーダⅠ

 愛読する詩人の一人に南米チリのパブロ・ネルーダ(Pablo Neruda)がいる。
 ネルーダは、1971年にノーベル文学賞を与えられたが、その授賞理由は、「ひとつの大陸の運命と、多くの人びとの夢に生気をあたえる源となった、力強い詩的作品にたいして」というものだった。ただ選考に当たっては、委員の幾人かは受賞に難色をしめしたといわれる。かつてネルーダが、ソビエトの独裁者スターリンを讃美したためである。
 1960年代後半、ネルーダについて意見を求められたアルゼンチンの作家ルイス・ボルヘスは、「彼はきわめて繊細な詩人だと思う、大変繊細な詩人だ。だが人間としては称賛に値しない。彼は非常に低劣な人柄だと、私は思う」と語り、さらにネルーダは自分の評判を危険にさらすのを恐れて、アルゼンチンの独裁者ペロンに反対したことはないといい、「私はアルゼンチンの詩人で、彼はチリの詩人だった。彼は共産主義者の側であり、私は彼らに反対だった。だから彼が、私たち二人が出会うのを避けたのは賢明だったと思う。もし会えばきわめて不愉快なことになっただろうから」とつけ加えている。
 ボルヘスの評価の賛否は意見が分かれるところだが、ネルーダが終コミュニズムに信頼を寄せていたのは事実で、それは同世代のフランスの詩人ルイ・アラゴンが共産主義者として生きたのと同様であった。
 パブロ・ネルーダは本名をリカルド・エリエセール・ネフタリ・レイス・イ・バソアルト(Ricardo Eliecer Neftali Reyes y Basoalto)といい、1904年7月12日にチリ中部のパラルで生まれた。彼はその後両親とともにチリ南部の湿気の多い密林のなかの小さな村テムコに移り、そこで少年時代をすごした。
 ネルーダはこのころの思い出を、「少年時代の田舎」(『指輪』、1925年)で、次のように語っている。
 「・・・苔のふちを歩調をとって歩きまわり、大地と草を踏みつけた、少年時代の情熱よ。おまえはいつでもよみがえってくる。・・・北風が吹きすさび、冬枯れの寒さが身を刺す頃の、村の影は濃くて大きいのだ。だがまた雨季のさなかに、穂のように揺れて変わりやすい天気があらわれて、思いがけず太陽のかがやく日は、えも言えず気もちよかった。川の氾濫する冬の日よ、母とおれは吹き狂う風のしたでふるえていた。どっとあたり一面に降る、いつやむともわからぬ憂鬱などしゃ降りの雨よ。森のなかで立ち往生した汽車が 悲鳴をあげたり吼えたりしていた。板張りの家は、くらやみにすっぽりとつつまれてぎしぎしと鳴った。野生の馬のような疾風が窓をたたき、柵をひっくりかえし、やけっぱちに乱暴に。すべてを吹き倒して海に抜けた。だがまた、澄みわたった夜もあり、天気がよく木木の茂みがそよぎ、ほの暗い夜空は降るような星をちりばめていた。・・・ひそやかな時間のうえをすべり去った少年時代の田舎よ。降ったばかりの雨でしめった森羅万象のうえに横たわっている孤独な地帯よ、おれはおまえの処を、帰ってゆく憩いの場所として、おれの運命に提案するのだ。」(大島博光訳)
 村の情景を描いたこの詩に汽笛を鳴らす汽車がでてくるが、彼の父親は鉄道員であった。新しい鉄道線路を建設するために砂利などを運ぶ敷設列車の車掌で、そのかたわら敷設現場の監督のような仕事もしていた。そのために長らく家を留守にすることもあって、ネルーダは母と密林に囲まれた村で過ごすことが多かった。
 テムコの村のまわりはニロールの密林がうっそうと茂り、森や草原にはインディオのマプチュ族が住んでいた。テムコはもともとマプチュ族の土地だったが、19世紀末には、彼らは自分たちの土地を追われ、テムコのまわりに藁小屋を建てて暮らしていた。彼らは毛織物や卵や羊を売りに村へやってきて、夕暮になると、男たちは馬に乗り、女は徒歩で帰って行った。
 ネルーダには農民の伯父が二人いた。彼らは農民といっても牛飼いを兼ねた仕事で、馬を乗りまわし、ピストルを腰に、ギターを爪弾き、いつも女たちがつきまとっていた。少年時代のネルーダのまわりでは、大自然とそれと共存する生活が営まれていた。それらが多感な少年の心を育んだ。
 彼が詩を書き始めたのは10歳のときである。それは少年が母に贈った詩だった。だがそれを読んだ父親は、「そんな詩をどこで書き写してきたのだ」といった。息子が詩を書くことを苦々しく思っていた父は、あるとき彼の詩の本やノートを焼いてしまった。父親の望みは息子が技師や建築家になって世間並みに出世してくれることだった。
 だが詩作をあきらめない少年は、地方新聞や雑誌に投稿し続けた。その際、父親に知られないためにペンネームを考える必要があった。たまたま手にした雑誌に、チェコの作家ヤン・ネルダの名前を見つけ、それにあやかって、パブロ・ネルーダを筆名にすることにした。パブロはフランスの象徴派の詩人、ポール・ヴェルレーヌから頂戴したものである。
 ネルーダは1920年、16歳でチリの首都サンチャゴに出て、「チリ大学」に入学した。建築とフランス語を学ぶはずだったが、建築の勉強はそっちのけで、フランス象徴派の詩人の作品を読みふけった。パブロ・ネルーダⅠ_d0238372_1322122.jpg
 彼は『回想』のなかで、こう述べている。「私は大学に入る前に、シュリ・プリュドムやヴェルレーヌを知っていた・・・その頃、美しいフランス詩の詞華集が出て流行となり、みんなが争うようにして手に入れた。私は貧乏で買えなかったので、人から借りて書き写した。・・・大学における文学生活は私を圧倒した。私のような田舎者にとって、フランスの詩人たちをよく知っていて、ボードレールを語るような人たちに会うことは、大きな魅力だった。私たちは夜を徹してフランスの詩人たちを論じあった。」
 彼は学生寮に住んで、フランス語の教師になる過程に進むとともに、友人たちから刺戟を受けて、毎日のように詩を書いた。そして最初の詩集『祭りの歌』を1921年に出版したが、そこにはヨーロッパで流行していたシュルレアリスム風の作品、歴史的叙事詩、政治的マニフェストのような内容のもの、自伝的要素をうたいこんだもの、エロティックなものが含まれており、詩集はこの年の「学生連合コンクール」で賞をうけた。(続)



 
 
by monsieurk | 2014-07-20 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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