パブロ・ネルーダⅡ
そんな彼は1923年になる、持っていた家具と父親からプレゼントされた時計を売った金で、詩集『黄昏』を自費出版した。そして翌1924年には、
『20の愛の詩と1つの絶望の歌』が刊行された。「これは私が大好きな本だ。ここには深い憂鬱にもかかわらず、生きる歓びがある・・・『20の愛』には、学生街、大学、スイカズラの匂い、共有された愛の思い出など、サンチャゴの“ロマンス”がつまっている」と述べている。
その冒頭の一篇「女の肉体」――
「女の身体は、いくつもの白い丘と白い太腿
お前は世界にも似て、降参して横たわっている
ぼくのたくましい農夫の肉体はお前のなかを掘って
大地の深みから息子を躍りあがらせる
ぼくはただのトンネルだった。鳥たちはぼくから逃げさり
夜はその破壊する力でぼくに襲いかかった。
生き残るためにぼくはお前を武器のように鍛えなければならなかった
いまやお前はぼくの弓につがえる矢となり、石弓に仕込む石となった。
だが復讐の刻が過ぎ、ぼくはお前を愛すのだ
なめらかな肌と苔と乳のある、貪欲でどっしりとした女の身体よ
ああ、壺のような乳房! ああ、放心したようなその眼!
ああ、恥骨のほとりの薔薇! ああ、お前のけだるそうでもの悲しげな声!
ぼくの女の身体よ、ぼくはお前の美しさの虜になる
この渇き、果てしない欲望、ぼくのくねる道。
ほの暗い河床には、永遠の渇きが流れ
疲れが流れ、はてしない苦悩が続く。」(翻訳は上の写真の、Claude Couffon et hristian Rinderknechtによるスペイン語とフランス語の対訳によった。)
ネルーダが20歳で刊行したこの詩集は、多くの言語に翻訳されて国際的な評価をえた。「女の肉体」では、女の肉体を丘や道などに喩える暗喩(アナロジー)は具象的で分かりやすい。これはネルーダの特徴であって、各国語に訳された詩集は100万部をこすベストセラーとなる。だがチリで再版されるのは1932年のことであり、ネルーダはあいかわらず貧しかった。ネルーダは詩作をつづけ、1926年には詩集『無限なる人間の試み』と散文詩集『指輪』を続けて刊行した。
大学を卒業したネルーダは、フランス語教師になる道をあきらめ、1927年にはミャンマー(旧ビルマ)のラングーン駐在の領事に任命されて、外交官生活をスタートさせた。なぜ外交官になったのか、彼は『回想』で次のように明かしている。
チリ人はみな旅行好きで、ネルーダもご多分に漏れなかったが金がない。そこで外国へ行くために領事になることを思いつき、外務省へ行ってポストを与えてくれるように頼んだという。外務省の事務室には世界地図がかかげてあった。彼が赴任するように命じられたのは地図に穴の開いている場所だった。それがビルマのラングーンだったというのである。こうしてネルーダのアジア滞在がはじまった。
ラングーンに赴任すると、旧ビルマだけでなくアジアの各地を訪れた。どこもこれまで名前を聞いたことがない土地だったが、この旅の体験は創作の上で多くの素材を提供してくれた。こうしてネルーダは外交官としてのかたわら、多くの詩を読み、詩作をつづけた。それらはやがて詩集『居住者とその希望』として結実することになる。
アジア滞在が与えてくれたのは詩の素材だけでなく、ジャワでは最初の妻となる女性と出会った。彼女はマリカ・アントニエッタ・ハーゲナー・ヴォーゲルツァンクといい、オランダの銀行に勤めていた。
一度、チリに帰国したネルーダは、次いでアルゼンチンのブエノス・アイレスの大使館に派遣され、その後1934年には、待望のマドリッド駐在の総領事として赴任した。奇しくも、彼が10代のときに詩を読んでくれて励まされた女流詩人、ガブリエラ・ミストラル(彼女はラテン・アメリカで初めて1945年にノーベル文学賞を受賞した)の後任だった。
マドリッド滞在はネルーダにとって大きな幸運だった。赴任してまもなく、彼は多くの詩人や作家たちと交流するようになった。ラフェエル・アルベルティ、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペルー生まれの詩人セザール・ヴァヘロたちで、ネルーダが編纂した雑誌「詩のための緑の馬」のまわりには、多くの若い詩人が集まった。なかでもガルシア・ロルカとは毎日のようにカフェで会い、このころ演劇を手がけていたロルカについて、よく舞台稽古を見に行った。そしてときには舞台装置や背景についてアイディアを出した。
ネルーダが滞在したスペインは激動の最中にあった。スペインでは1931年4月、ブルボン王朝最後の国王アルフォンソ13世がフランスへ亡命し、共和政府が誕生した。しかし王党派や右派勢力は巻き返しをはかり、以後1936年の総選挙までの2年間は「暗黒の2年」と呼ばれるほど情勢は混乱した。
1936年2月行われた総選挙は投票率が70パーセントに近く、人民戦線を組む共和派が勝利したが、世論は左右の陣営に二分され鋭く対立した。叛乱が起こったのはこの年7月17日のことである。地中海に面したスペイン領モロッコの街メリーリャで、セグイ大佐に率いられたムーア兵(北アフリカのイスラム教徒)と外国人傭兵がク・デタを起こした。共和政府によってカナリア諸島の閑職に追われていたフランシス・フランコ将軍がこれに呼応し、共和派政府とそれを支持する人たちと反乱軍との間で軍事衝突が起きた。スペイン内戦のはじまりだった。
ネルーダに衝撃をあたえたのは、内戦が勃発した1カ月後の8月19日、親友のガルシア・ロルカが、フランコに忠誠を誓う叛乱軍によって逮捕され、銃殺されたことだった。ファシズムの暴挙を前にして、彼はスペイン共和派への支持を鮮明にし、政治的活動をするようなった。1937年には、マドリッドで開催予定の文化擁護作家会議の準備のためにパリへ赴き、共産主義者の詩人ルイ・アラゴンとともに、スペイン人民戦線支援集会で講演してスペインの状況を訴えた。
「あのわれらの死者たちの膨大な森から、どうしてひとつの名を引きはなすことができよう! 記憶するにも値しない敵によって虐殺された鉱夫たち、アストリアスの死んだ鉱夫たち、大工や石工たち、町と野の賃金労働者たち、おなじく殺された数千の女たちよ! 虐殺された子どもたち・・・溌剌とした誇りに輝くスペイン、精神のスペイン、直観と伝統と発見のスペイン、フェデリコ・ガルシア・ロルカのスペイン。/ 彼は百合のように、手ななづけがたいギターのように、犠牲に供せられ、暗殺者どもが、彼の傷口を踏みつけ、彼のうえに投げつけた土のしたに、死ぬことになろう。・・・」(講演「フェデリコ・ガルシア・ロルカの思い出」)
しかし、こうした活動はチリ政府を刺激して、ネルーダは本国に召還された。チリに帰った彼は、スペインの題材にした詩篇の創作を続け、それはスペイン人民戦線の兵士たちの手で詩集『心の中のスペイン』として1937年に発表された。
1938年、チリでは大統領選挙が行われ、ネルーダも支援したペドロ・アグイレ・セルダが当選して人民戦線内閣が誕生した。新政府はスペイン共和派の難民をチリに受け入れることを決めると、翌39年、ネルーダをスペインからの移民を扱う特別領事に任命してパリに派遣した。こうして2000人をこす難民が海を渡った。
1939年9月3日、第二次大戦が勃発すると、彼はチリに帰り、やがてメキシコ・シティ駐在の総領事に任命された。ここで43年まで3年間をすごしたが、その間にレオン・トロツキーが暗殺される事件が起きた。ロシア革命の功労者トロツキーはスターリンによって追放され、ヨーロッパを経由して1936年からメキシコに亡命していたが、1940年8月20日、トロツキーの秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによって、ピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡したのである。メルカデルは単独の犯行を主張して背後関係を隠したが、犯行はソビエト秘密警察(GPU)の仕組んだものだった。
この事件でメキシコ人の画家ダヴィド・アルファロ・シケイロスが、暗殺を示唆した一人として逮捕された。ネルーダはメキシコのカマチョ大統領の依頼で、シケイロスへチリ入国ヴィザを発給し、画家はそれでチリに入国することができた。彼はチリでネルーダの私邸に滞在したが、このことがのちにネルーダにとって大きな問題となるのである。
一方、ヨーロッパの戦火は、ナチス・ドイツの攻勢で連合国側は劣勢に立たされていた。だが1942年8月から43年2月にかけてに闘われたスターリングラード攻防戦で形勢は逆転。ネルーダはこの報に接すると、すぐに「スターリングラードに捧げる愛の歌」を創作した。ソビエトに対する情熱的な愛と支持をうたいあげた長編詩は印刷されてメキシコ市の壁という壁に張り出された。(続)