パブロ・ネルーダⅣ
アジェンデはネルーダを駐フランス大使に任命し、2年にわたって大使をつとめ彼は、この間、チリがヨーロッパ諸国やアメリカに負った負債の軽減交渉に当たった。ただこの2年のパリ駐在中、ネルーダは健康を害し、肺疾患が次第に悪化した。
1971年、ネルーダはノーベル文学賞を受賞した。選考にあたって異論がでたのは冒頭に紹介したとおりだが、彼の作品の多くをスウェーデン語に翻訳した、アルチュール・ランドヴィストなどの強力な推薦が功を奏した結果だった。そして何よりも、その長年にわたる文学的営為は、ノーベル文学賞に十分に値するものだった。彼はストックホルムでの授賞スピ-チで、「ひとりの詩人は同時に連帯と孤独への力だ」と語った。
1973年9月11日、チリではピノチェト将軍によるク・デタが起こり、民主的に樹立されたアジェンデ政権は武力によって倒された。ネルーダが心臓病のために、祖国のサンタ・マリ病院で死去したのは、このク・デタの12日後、9月23日の夕方だった。埋葬の日には、多くの人たちが街頭に出てその死を悼んだ。
これが政権への抗議の機会となることを恐れたピノチェトは、大量の警官を動員して取り締まりにあたった。さらに数週間後には、ネルーダの家が警官隊に襲われ、本や原稿は持ち去られるか破り捨てられた。
1974年、彼の回想録が、『私は告白する 私は生きた』というタイトルで出版された。そこにはピノチェトや他の将軍たちによるモネダ宮殿(大統領官邸)襲撃と、アルバドール・アジェンデの最後に関する記述も含まれていた。
ピノチェトが去り、チリが民主化された後の2011年6月、一人の判事が、ネルーダがピノチェト政権によって毒殺された疑いがあるとして、死因について調査を行うように命じた。12月、チリ共産党はマリオ・カロサ判事に、ピノチェト政権下の1973年から1990年までの間に虐殺されたとされる数百人の遺体を掘り出して、あらためて調査するように申請した。
ネルーダが転々としたい3個所の家は、現在記念館として一般に公開されている。そして彼が生涯に残した多くの詩篇は、スペイン語で書かれたもっとも美しく力強いものとして民衆に愛唱されている。
「おお、チリよ、海とぶどう酒と
雪の細長い花びらよ
ああ、いつ
ああ、いつ いつ
ああ、いつまたお前に会えるのだろう?
また会うそのとき
お前は白と黒の泡のリボンを
俺の身にまきつけてくれるだろう
そしてお前は、お前まえの領土に
俺の詩を解き放とう
あそこには、なかば風で、なかば魚の
人たちもいれば
また水でできている人たちもいる
だが、俺は土でできているのだ・・・」(『ぶどう畑と風』)
パブロ・ネルーダの祖国チリへの愛はどの詩篇にもあふれている。