エール・フランスとの縁
夜間便なので、ベルト着用のサインが消えると食事が供されて、その後はすぐ消灯された。しばらくうとうとした後、機内の後部スペースで屈伸運動をしていると、日本人の乗務員の方が声をかけてくれ、しばらく話をした。
―― エール・フランスをご利用くださり、ありがとうございます。
―― もう40年以上、エール・フランスを利用しています。コンコルドが就航する前のテスト飛行のときも、取材でパリ=ダカール間を往復させてもらいました。午後1時にシャルル・ドゴール空港を飛び立ってセネガルのダカールへ行き、海で泳いだ後、運輸大臣主催の夕食会があり、そのあとダカールを発って午前1時にシャルル・ドゴールへ戻るといった日程でした。コンコルドの飛行距離がもう少し長くて、日本まで来られていれば、パリまで6、7時間で行けましたのに。
―― 私も何度かパリ=ニューヨーク間を乗りましたが、早かったですね。なにしろ時差を追い越すのですから。コンコルドは残念な終わり方をいたしました。
―― エール・フランスを利用するのは、客室乗務員の方の接客の仕方が気に入っているからです。
―― ありがとうございます。どんな点でしょう。
―― 乗客を適度に放って置いてくれるのがいい。手取り足取りするのをサービスを思っている航空会社が少なくありませんが、どうも煩わしさが先に立ちます。その点エール・フランスはヴェテランの乗務員も多く、いざという時はきちんと手助けしてくれる、そんな信頼感があります。
―― 同僚のフランス人乗務員は一見ちゃらんぽらんに見えますが、何かトラブルのあった場合の決断の速さ、的確さはすごいと思います。手前味噌ですけれど。
―― その辺のことが、私たち日本人にはなかなか理解できないですね。建物を建てるにしても、フランスの場合はなかなかスケジュール通りには進まない。それでも最終的には期日には出来上がるのですが、途中の進捗状況で、多くの日本人はイライラして胃が痛くなってしまう。日本人とフランス人の気質の違いですよね。
―― 私もフランス人の夫と結婚して、パリをベースにフランスと日本を行き来しておりますが、最初のうちは、フランスにいると日本人の欠点が目につき、日本にいけばフランス人のやり方に目くじらを立てるといった具合でした。でも27年も経った今は、両方のいいとこ取りをしようと思っております。お互いの欠点ではなく長所を認める、それで気持がずいぶん楽になりました。
互いの違い違いとして認め合うということだろうが、実生活から得た彼女の言葉には重みがあった。あとでうかがうと、彼女の結婚相手は、週刊誌「l'Express」の創刊者で、著名なジャーナリストで政治家だった人の一族とのことであった。
エール・フランスで長年お世話になったのは、東京支社の広報室長だった仲澤紀雄氏である。仲澤さんは東大教養学科の第一期生で、フランス政府の給費留学生として渡仏。パリでは森有正氏と親しく交流して、フランス哲学・思想を専攻した。帰国後は大学に戻ると信じられていたが、仲澤さんはエール・フランスに入り、その卓越した語学力と見識を実社会で活かす道を選んだ。
そのかたわらフランス思想の翻訳に力を注がれ、孤高の哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィチの主著『死』や『道徳の逆説』、さらに生物学者ジャック・リュフィエの『性と死』などを翻訳して紹介した。リュフィエの本は、バクテリアから人間まで、進化論的にみて、性と死が、なぜ生物には必要なのかを解明した刺激的なものである。リュフィエが血液型の調査のために来日した折には、仲澤さんの手引きでこのユニークな生物学者の話を個人的に聴く機会をあたえられた。
仲澤さんの企画で、作家の辻邦生氏を中心に各社のパリ特派員仲間5人が、フランス各地を旅して歩いたのは1988年10月のことである。この旅については、わたしたち参加者が思い思いに執筆した文章を、辻さんが編纂した『フランスの新しい風』(中央公論社、1988年)にくわしい。辻さんは、「こんどの旅は、現実に流動するフランスの社会現象を追うジャーナリストたちの手で書かれた紀行」、「動きつつあるフランス現代文化のプロフィルを、その流動のままにスケッチしてゆく試み」と紹介している。
旅は仲澤さんがすべてお膳立てをしてくれ、泊まった宿はどこもルレ・エ・シャトー(Relais & Châteaux、豪華ホテルの連合体)に所属する城館(シャトー)や領主館(マノワール)を改造した豪華ホテルだった。仲澤さんの企画は、当時はまだフランスの地方の良さが日本に知られておらず、それを伝える意図もあったのである。
収益競争に追われる今日の航空業界では、こんな贅沢な企画はエール・フランスならずともあり得ないだろう。思えば古き良き時代の出来事だった。