人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

朱子の「色」

 今年の世田谷の「ボロ市」は1月15日、16日開催で、初日は雨だったが、二日目は晴天に恵まれたので出かけた。交差する二筋の通りにテント張りの店が並び、昔ながらの骨董品や古着をあつかう店から、漬物や地域の名産品を売る店まで、およそ750軒が軒を連ねる。その一軒に、戦前の国語、地理、算数などの教科書を売る店があり、そこで江戸時代に版行された朱子の『論語集註 新點』の完本を見つけた。前日の雨のせいで少々湿っていたため、交渉して三割引きで譲ってもらった。
 南宋の朱子すなわち朱憙(1130-1200)は、いうまでもなく中国のもっとも偉大な儒学者であり、朱子の『論語集註』は、元、明、清の時代、さらには日本でも江戸時代には国定教科書となったために広く読まれ、大きな影響をあたえた本である。
 朱子は「論語」を孔子自身の言行記録であるとして、これを人間のありかたの規範と考えた。だが吉川幸次郎教授によれば、こうした姿勢のために、「ときどき窮屈な解釈を生むこと、その保持する形而上学の体系にひきつけて読むために、無理な解釈を生むこと、古代言語学の知識の不足が、誤解をも生むこと、いずれもその欠点であって、それらの欠点が、やがて日本では、仁斎の、ついで徂徠の、また中国では、清朝の学者たちの反撥をまねくことになる。」(『論語』、朝日新聞社、中国古典選)とされる。
 さっそく冒頭の、「子曰學而時習之不亦説乎有朋自遠方来不亦樂乎人不知而不慍不亦君子乎(子曰わく、学びて時に之れを習う、亦た説(よろこ)ばずしからず乎。朋有りて遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人知らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎」から読みはじめた。
 そして學而篇の、「子夏曰賢賢易色事父母能竭其力事君能致其身與朋友交言而有信雖曰未學吾必謂之學矣(子夏曰わく、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能く其の力を竭(つ)くし、君に事(つか)えて能く其の身を致し、朋友と交るに、言いて信有らば、未まだ学ばずと曰(い)うと雖(いえど)も、吾れは必ず之れを学びたりと謂わん。」まで来て、吉川幸次郎教授の説くところ思い至った。
 問題は、「賢賢易色」の解釈である。朱子の注は、「子夏孔子弟子姓卜名商賢人之賢而易其色之心好善有誠也・・・(子夏は孔子の弟子、姓は卜、名は商。人の賢を賢として、其の色を好むの心に易(か)えるは、善を好て誠有るなり。・・・)」となっている。
 先に引用した「論語」本文の読み下しは、吉川教授の『論語』によるものだが、この点について、教授は次のように注している。
 「賢を賢として色に易(か)えよ、もしくは、賢を賢とすること色の易(ごとく)せよ、つまり、賢人を賢人として尊重すること、美人を尊重するごとくなれ、というのが古注、すなわち、二、三世紀の漢魏人の、解釈である。また、賢を賢として色を易(あら)ためよ、つまり、賢者に遭遇した場合は、それを賢者として尊重すること、はっと顔色を易(か)えるほどであれ、というのが、それにつぐ時代である六朝人の解釈であり、わが仁斎の「論語古義」、荻生徂徠の「論語徴」、ともにそれを祖述する。さらにまた、賢を賢として色を易(かろ)んぜよ、賢人は尊重せよ、美人は軽蔑せよ、というのは、儒学に厳粛の気の加わった、十一、十二世紀、宋の朱子の新注の説である。私の学力では、どれがよいとも、定めかねるが、元来の儒学には、欲望を否定する思想は少なく、したがって女色は、否定されていないから、しばらくは、賢を賢とすること色よき美人のごとかれ、という、古注の説に従っておく。」(同前)
 孔子が説いた本来の儒学では、女色は否定されてはいないという点は注目すべきであり、それが否定されるきっかけとなったのが、朱子の新註だったわけである。
朱子の「色」_d0238372_728307.jpg

by monsieurk | 2015-01-21 22:30 |
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31