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ムッシュKの日々の便り

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堀口九萬一と大學Ⅱ

 大學誕生の翌年7月、堀口九萬一は晴れて東京帝国大学法学部を卒業します。東京帝国大学を卒業したのは、司法学校が途中で東大法学部と合併したためで、卒業後はただちに司法官試補に任ぜられて新潟へ赴任しました。
 その後、朝鮮の公使館へ外交官補として赴任しますが、ここで日本人が、朝鮮王妃、閔妃(びんぴ)を殺害するという前代未聞の事件に巻き込まれます。
ロシアの朝鮮南下政策を警戒する日本は、軍人出身の三浦梧郎が公使として朝鮮に赴任すると、引退している朝鮮国王の父、大院君(だいいんくん)を担いでクーデタを計画します。九萬一は漢文が出来ることから、大院君の説得役を担わされます。
 計画は1895年(明治28)10月8日未明、日本軍の軍人と民間人が王宮に乱入して、ロシアに好意的な王妃、閔妃を殺害するという暴挙にまで発展します。この暴挙には、当時朝鮮王宮にいた侍衛隊のロシア人教官ジェネラル・ダイや、建築家サバティンなどの目撃者がおり、その情報がたまたま京城にいた、「ニューヨーク・ヘラルド」の特派員ジョン・アルバート・コッカリルによって報道され、世界中が知ることになりました。
 事件は伊藤博文内閣に衝撃をあたえました。事件に関係した三浦公使、杉村一等書記官、朝鮮政府顧問の岡本柳之介、漢城日報社長の安達謙蔵など、役人、軍人、それに民間人あわせて56人は日本に護送されました。そのなかには堀口九萬一も含まれていました。彼らは広島の刑務所に収監された後、軍人は軍法会議、民間人は通常の裁判にかけられましたが、明治29年2月19日、軍法会議は8名の将校に対して無罪の判決を、裁判所でも三浦以下48名のすべてに免訴の決定が下り、被告たちは全員釈放されました。犯罪は3人の朝鮮人の仕業ということにされて、真相は闇に葬られたのです。
 九萬一が獄に繋がれていた間に、妻の政が故郷長岡で病死し、九萬一は葬儀にも立ち会えず、3歳の大學が喪主として葬儀を行ないました。大學の娘のさくら子さんによれば、堀口家ではこの事件の話は、ずっとタブーとされてきたそうです。
 無罪となった九萬一は外交官の職に復帰しますが、この事件は彼のその後の進路に影響を与えました。九萬一が外交官として、その後、赴任するのは、中国(清)、ベルギー、ブラジル、メキシコ、スペインなどで、アメリカ、イギリス、ドイツといった大国ではありませんでした。
 ただ運命的な出会いが、明治31年(1898年)に赴任したベルギーでありました。世紀末のベルギーではジャポニスムがもてはやされ、その影響でアール・ヌヴォの美術が起りますが、九萬一たちはこの日本ブームの恩恵にあずかり、ベルギーの人たちとも交流する機会がありました。そうした交際のなかから、九萬一はリグール家の娘であるスチナ・ジュッテルランドと知り合い、明治31年に結婚します。九萬一34歳、新妻のスチナは31歳です。
 スチナの父シャルルはベルギーの法曹界では知られた人物で、かつてベルギーを旅行中のヴェルレーヌが、ランボーをピストルで撃って軽傷を負わせた事件(1873年7月)を引きおこし、懲役2年の実刑を言い渡されますが、その判決文に名前が載っているということです。
 九萬一が外交官として認められる働きをしたのは、ベルギーの次に臨時公使として赴任したブラジルでのことです。赴任から3年目の明治36年(1903年)12月20日、外務大臣の小村寿太郎から暗号電報が届きます。電報の内容は、ブラジルの隣国アルゼンチンがイタリアの造船所で2隻の軍艦を建造中だが、これをロシアに先んじて譲り受ける交渉を行うようにというものでした。このとき日本とロシアの間で緊張が高まっていました。
 アルゼンチンが軍艦建造をイタリアに注文したのは、隣国チリとの間で戦争の危機があったからですが、その後ブラジルが仲裁に入って危機が回避されたために軍艦は不要となり、この情報を知った日本とロシアはともにこれをアルゼンチンから譲り受けようと競争になりました。
 九萬一は『世界の思い出』(第一書房、1936年)のなかで披露して回顧談によると、電報に接した九萬一は、すぐにリオデジャネイロを船で発って、12月25日の夜にブエノス・アイレス港に着き、そのまま馬車を駆って外務大臣の私邸をめざしました。幸いこの日はクリスマスで、外務大臣邸では夜遅くにもかかわらずパーティーが続いており、外務大臣は遠来の客を迎えてくれたといいます。
 九萬一はさっそく、日本としてはどうしても2隻の軍艦を入手したいこと、代金は即時にどこででも支払う用意のあることを伝えました。結果として、アルゼンチンは、軍艦を日本に売却することに同意しました。この成功の陰には、九萬一の抜群の語学力もさることながら、果敢な行動力、相手に好かれ信用される独特の魅力が大きく働いていました。
 日本のものとなり、「日進」、「春日」と命名された2隻は日本海会戦に参戦し、バルチック艦隊は全滅しました。明治維新以来最大の危機である対ロシア戦争に貢献できたことは、堀口九萬一にとって外交官としての仕事冥利であり、祖国を遠く離れていただけに満足感もひとしおであったに違いありません。(続)
by monsieurk | 2015-03-18 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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