マラルメの「賽の一振り」Ⅲ
画商のアンブロワーズ・ヴォラール(写真)から「賽の一振り」の豪華本をつくりたいとの申し出があったのは、「コスモポリス」の刊行前であったが、マラルメは雑誌の校正刷に手を入れつつ、豪華本の構想を練った。そして画商との間で契約がなり、5月5日には契約金の半分の250フランを受け取った。話し合いの結果、豪華本ではルドンが挿画を制作し、印刷はフィルマン=ディド社が行うことになった。マラルメは改めて印刷のために紙面の入念な割付や使用する活字を指定した原稿をつくって印刷所に渡した。
7月2日、「賽の一振り」の最初の校正刷の一枚がフィルマン=ディドから届けられた。だが時間をおいて届く校正刷はマラルメを満足さなかった。9月15日付けのヴォラール宛ての手紙が残っている。
「ご存知の通り、ディド印刷所の方は限りなく長引いている。いままでに3回校正刷を受けとった。しかし、数か月の間を置いて、です。中間のものはかなり満足できるものだったが、最後のものは、不用意に、また私の指示なしに変えられていた。こうしたことは皆小さなトラブルだが、私の手元にはまだルドンに渡せるほど仕上がったものは何もないという点では重要だ。いま催促の手紙を書いたところだ。今度は少しきちんとしたものを貰えるものと期待している。あなたも、紙の漉きについて監督してもらえないだろうか。24頁だから、申し合せのサイズで全紙4枚だ。
「エロディアード」の前に「賽の一振り」を仕上げようとの仰せは、結構だ。ヴュイヤールが「エロディアード」の挿画を描いてくれれば嬉しい。彼に打ち明けてみてほしい。彼がこの誘惑に負けないとも限らないから。それというのも、彼は何でもできるのだから。私の習慣にしたがって、書き加えた部分を校正刷の形で雑誌に発表する ―― あるいは、しない ―― 可能性については、今後話し合うことにしよう。いずれにせよ、あなたのところで初版を出す予定の、作品全体を雑誌に載せることは決してない。これは確かだ。もっとも、そこまで仕事は進んではいないのだが。この追加部分は、いまの私の構想では、かなりの分量になるはずだ。序章と終章、この二つだけでも、いまある断章の倍の分量にはなるだろう」。
この手紙によって、夏休みが明けても校正刷はなかなか出来上がらなかったことが分かる。加えて、ヴォラールは9月14日付けの手紙で、「賽の一振り」を仕上げた暁には、「エロデイアード」をエドゥアール・ヴュイヤールの挿画つきで豪華本として出版する計画を提案し、マラルメも基本的に同意したのである。若手の画家ヴュイヤールとは雑誌「白色評論」の編集者タデ・ナタンソンを通じて知り合いであり、同じヴァルヴァンにナタンソンとミシア夫妻が買い求めた別荘でもよく顔を合わせ、その温厚な人柄と室内画を高く評価していた。マラルメは「エロディアード」を、幾つかの部分を備えた長編詩につくり直す構想を持っていたから、ヴォラールの申し出には乗り気になった。それにしても、まずは「賽の一振り」の完成が先決であり、校正刷の仕上がりが待たれた。
そして恐らく11月一杯でフィルマン=ディドの校正刷が出揃ったと推定される。マリーとジュヌヴィエーヴは10月末にはパリへ戻ったが、マラルメは一人ヴァルヴァンに残った。マラルメがパリへ戻ったのは11月7日である。このときフランスでは、1894年に始まった「ドレフュス事件」の裁判で世論は二分されていた。
マラルメは騒然としたパリを去って、翌1898年4月22日には、一人でヴァルヴァンへ向かった。この一週間前には、請われて詩篇を寄せた『ヴァスコ・ダ・ガマの記念アルバム』が刊行されたが、マラルメの関心は「賽の一振り」と「エロデイアード」の完成であった。前者はルドンが挿画を完成するのを待っており、「エロディアード」についても目途が立った。(続)