男と女――金子と森の場合(ⅩⅣ)
一週間後、帰京した金子は毎日一回は病院に顔をだした。病院の食事が不味いと言うので、寿司や洋食弁当や宿でつくらせた鰻の重箱などを差し入れた。感染を防ぐために病室には入れなかったが、一時間ほどいて帰ってきた。
絶対安静の四、五日がすぎると熱は平熱近くに下がった。病院の生活は規則的で、六人部屋(大人二人のほかはみな子どもだった)に寝起きしている三千代は、三週間たつと健康な人と見分けがつかないほどに回復し、このころから身体の皮膚が少しずつはがれはじめた。全身が新たらしい皮膚に剥けかわるまでは退院を許されず、新陳代謝を促進するために毎日入浴させられた。病院ではそれ以外にすることがなく、一番の気がかりは、多摩川の日に別れて以来連絡をとれない土方のことだった。病院から手紙を出すと、それを読んだ土方が夜の九時ごろに訪ねてきた。面会時間は過ぎていたが、急用があると言い訳をして、階下の広間で会うことが出来た。伝染を怖れてしり込みする三千代を、廊下の隅の更衣室のところまで引っ張っていって貪るように接吻した。土方は帰りがけに、「鶴巻町の方へ手紙を出したが、読んでくれた」と聞いた。
以下は「青春の放浪」である。
「私は、その手紙を見なかった。翌日、金子が来るのを待ち構えて、手紙のことを追求すると、彼は狼狽して「うん、来ていた。でも、もうないよ」と口ごもりながら言った。
「破ったんじゃない?」
「うん」「なかを読んだ?」彼は、黙っていた。ながいあいだ彼の心の中でふすぼりつづけている忿懣の実体に、私ははじめてふれた気がした。それは、失ったものをえたような安堵でもあった。
金子は、不機嫌な表情で、いつまでも黙り込んでいたが、くしゃくしゃになった険しい目を上げた。
「じゃ、あの男、ここへ来たんだね」
こんどは私が尋問される番かと思った。隣のベッドを気にしながら、彼はかぶさるように上から顔を寄せ、声を低めた。
「形勢が不利だよ。君ばっかりじゃない。俺の方もだ。要するに妻の姦通を容認しているというのが不可解だというわけだ。」
「私だって、それは不可解だわ」私は、言葉をさしはさんだ。
「そうかもしれんね。正直をいうと、自分でもよくわからないんだ。まだ、俺にはぴんと来ていないんかもしれないな。なるようになれと放任しているわけでもないんだ。世間のやつは、愛すればこそ俺がふみつけにされて黙っているのだといい気に解釈して、俺のことを意気地なしあつかいにしているんだ。ありがたい幸せだ。だが、そんなことは、まあ、どっちでもいい。実際問題の方が困るんだよ。金のことにしろ、なる話もならない。全く世間の奴ってへんだよ。じぶん達に関係のないことじゃないか。そういう先例が容認されることで、じぶん達の場合が脅威なんだな。それはそれとして、俺の希望をいえば、これ以上、彼とつづけてもらいたくないんだ。やりきれなくなっているのは事実だよ。それについて、この間から考えている名案があるんだ。・・・君、起きられるかい。屋上へ出てみないか」と言って、彼はいまの話がもれやしなかったかと周囲を見まわした。
コンクリの狭い階段を、すれすれになって一足ずつ足をはこび、三階の上にある屋上に出た。階段の途中で金子が突然凶器でもふりかざしそうな不安を感じて、私はしりごみして立止まりそうになった。屋上に出ると、私はまた、別の不安におそわれた。隙を見て突落とされるのではないかとおそれた。それほど、今日の金子は真剣な顔色をしていた。(中略)
「どうだい。ヨーロッパへ行ってみないか」
「ヨーロッパ? そんな算段がつくの?」
「なんにもまだないよ。まず、行こうかと思いついたところだ。決心がつけば、あとのことはそれから考えればいいんだ」
「定ちゃんと私を、それで引離そうというのね。この問題を、それで世間からうやむやにしてしまうというの?それじゃ、あなただけが一番得じゃないの」金子は苦笑した。
「まあ、よく考えてごらん。君にだってヨーロッパ行は一石二鳥だと思うがな。長崎のお父さんは、絶対に君のこんどの事件はゆるさないといっていられるよ。よけいなおしゃべりをしたようだが、俺だってしかたがなかったので、まずお父さんに君の話を疑念程度に話して打診してみたんだ。ヨーロッパ行ということにすれば、掛声だけでお父さんも世間の奴らもおどかしてしまえる。ほんとうにヨーロッパへ行かれれば君も日頃の望み通り飛躍できる。君の恋人のためにだってその方がいい。とも角一緒に日本さえ出てしまえば、あとはまたどうにでもなる」耳では聞きながしながら、私のからだの中で、あらゆる火が爛れるように明滅した。
「坊やはどうするの?」
「連れていってもいいけど、どうせ苦しい旅だから、途中でもしものことがあったら可哀そうだ。あずかってもらえたら、やっぱり長崎へおいてゆくんだな」
私のあたまの中を、そのとき一つの小狡い考えが走りまわった。金子と一緒に日本を出る。ヨーロッパへ行ったら離婚する。定一をよびよせる。誰も知っている人もない異国で定一とのたのしい詫住いがはじまる。子供もいつかは手許に引取れる時が来る・・・。人間はじぶんの都合のいいことばかり考えるものだ。
「そうか。行くね。それでよかった。・・・ほんとうに行くんだろうね。あとで変ると困るんだ。君の決心がついたら、明日からでもいろんな手続きをはじめなければならない。手続きができてから、行かれないなんてことになると、今度こそはほんとうにひっこみがつかないからね。・・・そうなったらこれよりしかたがないよ」と、金子は、顎の下へ手をやって、首をくくる真似をしてみせ、猶、再三、念をおして帰っていった。」(「青春の放浪」)
毎日病院に来ていた金子は、その後は数日おきにしか来なくなった。外務省へ旅券の申請をしたり、金策にはしりまわったりと忙しい日々を送っていたのである。(続)