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パリの日本レストラン

 いまパリには日本食のレストランはどのくらいあるのか。一説では1000軒を超えるという。パリ1区のサン=タンヌ通りの両側には和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると、ラーメン屋の前に行列ができて、そのなかには多くのフランス人も多く混じっている。言わずと知れた日本色ブームだが、なかには外国人がスシを握ったり、ラーメンを茹でたりしている店も多いと聞く。d0238372_934074.jpg
 最初にパリに住んだ1970年代初頭、この界隈にはすでに数軒の日本レストランができていた。サン=タンヌ通りがオペラ大通りと交わる角に東京銀行の支店があり、パリ在住の日本人の多くが口座を開いて、故国との金銭の送金をしていた。戦前の横浜正金銀行の流れをくみ、海外貿易の決済や外国為替業務に慣れた東京銀行がもっとも便利だったのである。そのためこの界隈を大勢の日本人が往来し、それにつれて日本食を供する店が出来ていった。本格的な店としては1958年に開店した「たから」や、その後にできた「伊勢」などがあった。
 第一次大戦後の1919年、パリで開かれた講和会議に、日本は西園寺公望全権以下総勢100名を超える代表団を送り、バンドーム広場に面したホテル・ブリストルを借り切って仕事に当たったが、このなかには料理人もいて、近くのレストランの厨房を借りて、そこで代表団のために日本料理をつくった。明治以来、パリには多くの日本人が滞在したから、日本料理の需要も大きかったはずだが、本格的な料理店と呼べるものはなく、中華料理を食べるか、自炊して日本食まがいのものを食べて渇望をしのいだ。
 金子光晴の『ねむれ巴里』は、1930年(昭和5年)1月から翌31年2月にブリュッセルへ移るまでの記録で、当時の貧乏な日本人滞在者の生活を知るうえでも興味はつきない。金子は、『詩人 金子光晴自伝』でパリ時代を振り返って、「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。しないことは、男娼ぐらいのものだ。博士論文の下書きから、額ぶち造り、旅客の荷箱つくり、トーシャ版刷りの秘密出版、借金のことわりのうけ負い、日本人名簿録の手つだい、画家の提燈持ち記事、行商、計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった。夏は、トロウビルまで出かけていって、海水浴客あいての日傘を並べて、客のみている眼の前で、秋草や、日本娘の絵を画いて売ろうという計画を立てて、わざわざノルマンディー海岸まで出掛けていったが道路上の商売許可がなかなかむずかしいので、すごすご帰ってきてしまった。」と書いている。このなかの「日本式の一膳めし」の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。
 辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で本筋の板前の修業を積んできたといい、森三千代と再会してパリ13区のポール・オルレアンの貸しアパルトマンに住んでいた金子の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢などで、大抵の品はマドレーヌある日本食品の店にあるが、手に入らないものはマルセィユか、ベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼みこんで、日本船の厨夫長から調達したものだという。辻は、「牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。ふらんす人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ。うちのアメリカの婆さん。わしのつくってやる料理の味おぼえて、わしがいなくなったら、食えんようになる言うて、出てゆきはせんかとはらはらしていよる。」と言った。彼は絵では食えないので、アメリカ人の老婦人の家に住み込んで、料理を作ったり雑用をしたりして生活していたのである。
 辻の話にでてくる「牡丹屋」はこの当時あった日本料理の店で、金子によればこの牡丹屋よりも古く、ロンドンに「生稲」という店があったという。森三千代を交えて、辻のちらし寿司を堪能したあとで、金子の思いつきで、丼物をつくって日本人相手に売り出したら儲かるのではという話になった。辻が板前、金子が営業、三千代が接客係り。親子丼ややたまご丼、天丼、鰻丼を次々に開拓して、在留日本人に売り出す。これより前に金子は、在留パリ日本人人名録をつくるという松尾邦之助の手伝いをしたことがあって、三百人余りの画家や留学生その他の所在が分かっていた。しかも彼らの多くは西洋の食事になじめずに、白飯を炊いて生卵をかけたり、牛肉を固形の調味料と砂糖で煮て、すき焼の代わりにしたり、パンの食べ残しに白ブドー酒を入れて、ぬか漬けの漬物を作ったりしていた。金子と辻はこの話を知り合いの画家たちに話すと、画家のなかには回数券をつくって、二か月分なり三か月分を前払いするから、それを資金にぜひ実現してほしいという連中がでてきた。だが店を借り、器物をそろえたり、材料の仕入れ先を確保するとなると先立つものは金で、結局この夢は実現せずにしぼんでしまった。
 私たちが最初に暮らした70年代はじめの日本食事情は、金子たちの時代とさほど違っていなかった。日本食の材料を扱う店は4、5軒に増えたが、豆腐は日本から粉を送らせて、それを練って固めて自前で作らなければならなかったし、魚の干物をつくるのに、自分で魚をひらいてベランダに干しておくと大きな蜂が飛んできて、肉を食い齧ったりした。フランスでは牛肉を薄く切る習慣がなく、すき焼きをするために、日本から薄切り用の機械を取り寄せて、凍らせた肉を自分でスライスしなければならなかった。
 オペラ大通りの、オペラ座とは反対側のパレ・ロワヤル広場のそばに、「大阪屋」というラーメン専門店が店開きしたものこの頃である。パレ・ロワヤルにある三ツ星レストランス「グラン・ヴェフール」のオーナーショフ、レーモン・オリヴェ夫人の角田鞠さんが子ども連れてよく来ていた。オリヴェは著名な料理人であるとともに、食に関する世界的資料のコレクターだった。粘度板に楔形文字で書かれた穀物の送り状や稀覯本など貴重な資料があって、それを取材させてもらったことから夫妻と知り合いになった。角田さんに「大阪」で顔を合わせた折に、「ご主人は家では料理はしないのか」と聞くと、「毎食フランス料理では飽きてしまう」といってラーメンを美味しそうに食べていた。
 キャトル・セプタンンブル(9月4日)通りから少し入った細い道にあった「さくら」では、女優のカトリーヌ・ドヌーヴの姿をときどき見かけた。「さくら」では奥さんが和服姿で給仕していたが、彼女に話では、ドヌーヴは毎週のように訪れるほど和食好きとのことだった。これらは今から40数年前のことである。和食が世界文化遺産に登録されて2年がすぎ、フランスでの和食ブームはますます高まる気配である。
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by monsieurk | 2016-02-28 22:30 | フランス(生活)
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