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森三千代詩集『龍女の眸』

 森三千代の最初の詩集『龍女の眸』(紅玉堂出版、1927年)を入手した。出版の経緯については、ブログ「男と女――金子と森に場合(Ⅷ)」(2015.12.25)に書いたので参照してほしいが、詩集は縦12.2cm×横18.7cmの四六版。桃色に近い薄茶色の表紙に、右か左へ横書きで、「詩集 / 龍女の眸 / /森 三千代 / 水面から首を出す龍を描いた丸い図案 / 1927 / 紅玉堂出版」とある。「詩集」、「森三千代」、「1927」の文字が赤で印刷され、他は黒の活字である。
 内容は、内表紙、野口米次郎の「序」二頁、森三千代の「自序」三頁、「遥かに父母に捧ぐ」の献辞一頁、そして一九二三年から二五年にかけてつくられた詩の本文が八九頁、そのあとに、尾崎喜八、大鹿卓(金子光晴の実弟)、そして金子光晴の「跋」八頁、「目次」二頁と続く。定価は一円だった。
 今回入手した本には、森三千代のペン書きで、「著者 / 南江二郎様」という献辞が書かれている。南江二郎は本名を南江治郎(1902-1982)といい、早稲田大学で坪内逍遥や小山内薫に学び、1921年(大正10年)19歳で、処女詩集『異端者の恋』を上梓し、1924年(大正13年)からは詩誌「新詩潮」を主催した。この間、彼は日本で初の人形劇の雑誌「マリオネット」や「人形芝居」を出して、同じように人形劇の普及運動に熱心だった土方定一とも交流があった。森三千代が南江に詩集を献呈したのも、多分にこのことが関係していると思われる。南江はその後NHKに入って番組制作にたずさわり、最後は理事をつとめた。
 この『龍女の眸』は稀覯本なので、森三千代の「自序」と幾つかの詩篇、それに金子光晴の「跋」を引用してみる。金子は「跋」では、「光晴」とだけ記している。
 まず「自序」で、森はこう述べている。
 「山上の空氣は澄み切つてゐました。老杉の樹の間から薔薇色の琵琶湖がほほゑむ爽かな朝の窓で時々ほととぎすの鋭い聲を聞きながら、白木に机に向つて書きためたものを整理して一冊にまとめようとしたのは、今から三年あまり前の事となつてしまひました。その頃はお茶の水の寄宿舎に學んでゐて、夏休みを利用して叡山に登つたのでした。サツフオが好きで、いろいろなロマンテイツクな夢にばかり耽つてゐた當時のものは、いま讀んでみてもろくなものはなく、この集では彼の時代のものはほんの一部分に止まり、おほかたその後の慌ただしい生活の中から生れ出たのであります。
 自然のままならば、當然就くべき教職といふ運命は私のやうな人間には無理だといふことをさとつて、それからのがれ、一夏は奥州に十和田湖を尋ね、東京へかへつてから一子を舉げて後、今度は長崎の両親の家で自分と子供と病後の身體を守りながら彼の地のエキゾテイシズムに深い興味を感じつつ、その間絶えず自分の貧しい詩藻を少しでも練るやうにと心がけてゐました。様々の労苦を伴つた生活は、私をしてただのロマンテイツクであった境地から蝉脱せしめ、眞正面に物を直視する習慣をあたへました。さうして私の詩は自分の欲しいと思つてもどうしても得られないもの對する郷愁と、現在の苦悩や悲哀をみつめつつ明日を期するその希望とに育くまれました。さうして得たこの集三十八篇の詩は、その時々に自分の意に満ちてはゐたものの、翌日は、否一時間後は、否一瞬後はもう不満な過ぎ去つたものでありました。
 ほんとうに新しい詩、何時見ても新しい詩、それを私は作り出したいのです。そのために私はまだまだ變つてゆくでせう。絶えず新鮮なゆたかな草と水とのために遂はれ続けてゐる遊牧の羊のやうに、私は今日の境地から明日の境地へ、更に明後日の境地へと進んでゆきたいと思ひます。もう苦しくなつて止めてしまひたいと思ふときがきつと来るにちがひありません。でも私は私をとりまゐてくれる様々な愛情の眼にはげまされてもつともつと先へ進むと確信します。
 十六七歳の頃、郷里の暖い山の斜面で、草の中に袴をはいた両足を投げ出して、いつまでも夢みる心を語つたり、稚い詩を育みあつたミス・ミヤハラ――その頃は美しい少女であつたが、いまどこにゐることか。ああその頃からの私は病みつきでした。一目でもいい、あの人の眼にこの本を觸れさせたい。
 東京へ出て来てからの學校との肌が合はなくて、私は始終憂鬱でした。その頃、某氏の紹介によつて門を叩いた松浦一先生の教訓は忘れることが出来ません。御かげでpoem の本道を踏みはづさずに辿ることが出来たと思つてるのは私のうぬぼれでせうか。殺風景な都會生活に荒みがちな私の愛情生活をもり育ててくれた人々――。
 どんな旋風が吹いて来ても、それ等の美しい眸が私自身の精進をはげましてくれるのを喜びとしてゐます。
 終にのぞみ、序文を寄せて下さつた野口米次郎氏、跋文をいただいた尾崎喜八氏、大鹿卓氏に厚く御禮を申上げます。そして更にさまざまな意味で援助を賜つたT氏に深い感謝を捧げます。
                                   森 三千代」
 萬年齢でいえば二十五歳十一カ月にしかならない森は、これまでの生活と思い、目覚めつつある意欲を率直に吐露している。ただ意図するように、詩集に収められた作品が、「ほんとうに新しい詩、何時見ても新しい詩」であるかどうか。ここでは三篇の詩を紹介してみよう。

 詩集冒頭の「海邊の家」。

男の胸にかほを塡めてゐると
哀しさがきりきりと目がしらに集つた。
男の肩幅は濱防風の咲いてゐる
頑丈な岩のやうだつた。

七月の夕陽を受けた障子の桟には
唐桐の花の影が濃く揺れてゐた。

絶え間ない遠い潮騒・・・・・。
食事の後まだ片附けない七輪の火が
白く濁つた灰をかぶつて
湯がしんしんと音を立てて沸つてゐる。
あの湯を咽喉に注ぎたくなつた。

じつと天井を見つめて
皮肉に口を結んでゐる男。
私は一日一日目立つてふくらんでゆくお腹をそつと撫でた。

男――
それは女にとつて
時に、離れがたない仇敵である。

 これは経済的に不如意になりつつあった金子光晴との生活を背景とする詩であろう。次の「雪」は、失ったものを追想する作品である。

ああまだ私が生れなかつた以前、
横つてゐたといふ眞白な花いつぱいの丘。
ああまだ私が生れなかつた以前、栄えてゐた街。
金色の街。
地平の果てを鳴り渡る銀笛(フルーツ)に
朗々と匂ひ出た遥かな氷郷の曙・・・・・

ああまだ私が生れなかつた以前、あつたといふ純潔。

 『龍女の眸』には、森が訪れた場所をテーマにした詩も多く収録されている。そうした詩篇の一つ、「居留地の散歩」。

秋になつた。
草の穂に陽の光が老け
踏み入れば銀色のきりぎりす飛ぶ。
海面はスレートの如く青く平か

粘板岩の敷石をゆく。
私の靴の踵に
紅い枯葉は肋骨(あばら)のやうにこはれてゆく。
ああ沈思と恍惚の深いことよ。

居留地の煉瓦塀から空に
秋は礫の如く飛ぶ聡い鳥がある。

 詩集の最後に置かれた「跋」で、伴侶の金子光晴は次のように書いている。
 「ここに三千代の詩集を世に送る欣びに邂逅した。
 月日がかけり、年々が落ちのびてゆく。二人のあひだにもいい日よりも悪い日が、美しい事よりも、つらい、苦しい、にがい思ひが多かつた。殊に女としてのお前のこころが、その純情を抱きしめる力を、おお なんと屡々歪ませられるところであつたらうか。
 私は、この詩集の内容に就いて可否を云々する役目ではない。
それには社會の批評といふものがある。よいものであるか、わるいものであるか、よいものとしても、それが理解されるまでに長い年月を要するものであるか。または案外早く時好に投ずるやうな種類のものであらうか? 私は、むしろお前の作品が、その時代のなるがままのとりあつかいひをうけることによつて、お前自らの眞實性のうごきをみるべきよいチヤンスをえたことをおもふ。
 ただ謂ふ。お前は勇ましく詩を精進してきた。そして、そのシンセリテーはお前の生涯を通してこの先、どこ迄ものびてゆくべきものであることを。                                              光晴」
 詩人の先輩としてまた生活をともにする者として、詩を志す森三千代を理解した愛情あふれる文章である。何ごとに対しても正面から立ち向かおうとsincerety・誠実さこそが、彼女の最大の特質であった。それがこの詩集にはよく現れている。ただ彼女の誠実さと一途さゆえに、金子は実生活の上でこれからも悩まされることになる。
by monsieurk | 2016-04-28 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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