男と女――第九部(21)
金子は一九六五年(昭和四十年)に出版した『絶望の精神史』では、「いじめつけられていた時間があまり長すぎたので、「よかった。よかった。」と家人と手をとって、はしゃいでみせたわりに、そのとき湧いてくる格別の感動はなかった」と述べている。ただ三千代が、帰宅した時間が夜十時だったとしているのに、金子は午後四時には戻ってきて、富士吉田や帰り道での様子を聞いたとしている。
金子の記憶にあいまいな点はあるが、彼はその後しばらくして、一人で湖畔へ携帯式の蓄音機を持って行き、レコードをかけたという。かつて北京で手に入れた程艶秋の「紅払伝」で、「すこしざらざらしたかすれた音が、とぎれようとしては続き、絶えることのない哀傷にみちた独特のかん高い歌声をあげていた。はじめて、はりつめどおしていた心のゆるみから、甘さからは遠い、きしむような悲しみがながれだしてきはじめたが、そんなとき手放しで心ゆくばかり嗚咽をかみしめることなど、すでに忘れてしまっている僕なのであった」(『絶望の精神史』)という。
三千代はその後も変わらずに日記をつけた。
「八月十六日
十二時にラヂオを聞きにゆく。
宮城前へ人が集ってゐる。
米英軍は空軍、地上軍へ停戦を命じた。新型爆弾の恐しさを知らせた。
朝敵機が空を通った。千葉で警報が報じられた。
ラヂオで敵機が空をとぶが、それは監視のためだと知らせた。
ラヂオでは国民が聖旨を無にして軽挙妄動しないやうにとしきりにいましめている。(中略)
新型爆弾(原子爆弾)が遂に戦争の帰趨を支配した。
投爆の状況についていふ。
投爆後たちまち六千メートルの高空風に強度な熱光がみなぎった。地上いちめんに火災が起った。発明に成功したのはウィスラー・グローブ。
村の一つの流言。
米兵が上陸して婦女子を辱めるといって戦々兢々としてゐる。(そんなことはあり得ないと説いて聞かせる)
バーナードショーの言葉。(ラヂオ)
神でない人間に原子爆弾の残虐を敢えて犯す権利はない。
汽車の切符は大制限。」