ムッシュKの日々の便り

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男と女――第九部(22)

 三人は一日も早く吉祥寺の自宅に帰りたかったが、交通を初めとしてすべてが混乱していて、切符も手に入らず、しばらくは平野村に留まることにした。
 八月十五日に鈴木貫太郎内閣が総辞職し、十七日には東久邇内閣が成立した。二十八日には連合軍の先遺部隊が到着し、三十日には最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に降りたった。そして九月二日、アメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書の調印が行われた。
 金子は知らなかったが、九月四日、いわゆる「横浜事件」で逮捕されていた畑中繁雄に対して、懲役二年執行猶予三年の判決が言い渡され、即日釈放された。敗戦のどさくさのなかで下された異常な判決だった。「横浜事件」に関しては、その後も再審請求が幾度もなされ、二〇〇八年に免訴が確定する。
 九月二十一日、金子と乾が上京した。吉祥寺の家は幸い類焼をまぬがれたが、家を失った四家族の人たちが住みついていた。しかも東京の治安は極端に悪く、すぐに帰京することはできないと判断した。ただ隣の河野一家は間もなく東京に帰っていった。
 平野村での生活を続けるためには、何よりも食料を確保する必要があり、十月には育ててきた玉蜀黍の収穫をした。二斗ほどの収穫があった。
 十一月十七日には、三千代が乾とともに上京した。そして本郷森川町の徳田秋声の息子徳田一穂の家で、秋声の年忌のために疎開先の山梨県冨河村から上京した武田麟太郎と会った。武田は坊主頭に古びた国民服を着ていて元気そうだった。仏壇を前で秋声をしのんだあと、武田と焼け跡の街を二人で歩いた。
 「瓦礫が積重なり、夏中生ひ茂った雑草が、末枯れて赤くなった焼原に、ぶつ切れてねじまがつた水道管の口から流れ出すままになつた水が、秋陽にきらきら光つてゐた。ぽつんと焼残つた土蔵の、のれんにした荒筵の隙間から、住んでる人のすさんだ目がぎょろりとのぞゐた。」(森三千代「最後に会った日のこと」)
 これが三千代が武田に会った最後だった。武田麟太郎が亡くなったのは、四カ月余りのちの翌一九四六年(昭和二十一年)三月三十一日で、肝硬変だった。
 金子、三千代、乾の三人は、この直前の三月十五日に上京する決心をした。乾の進学のための受験が迫っていたのが主な理由だが、金子は一月に上京した際、若いときの未発表の詩集『香爐』の出版を稲葉健吉に一任して、代金五百円を受け取っていた。詩集は五月十五日に、香園草舎から定価三円五十銭で発売されことになるが、そのほか手元には、河邨文一郎にあずけた「疎開詩集」や平野村でノートに書きためた詩があった。平野村を訪ねて来た岡本潤は、これらの詩篇が出版される日が来るのだろうかと心配したが、そのときが意外に早く来たのである。これらを出版するためにも上京する必要があった。
 持って帰るものとしては、まずは膨大な本だったが、東京の煖房事情を考えて炭を二十俵ほど買い込み、調達できた食料品と一緒にトラックに積んだ。
 乾がトラックの助手席に座り、金子は山のような荷物とともに荷台に乗り込んだ。三千代と美代は、翌日の汽車で帰京することにした。こうして足かけ二年におよんだ平野村の疎開生活に終止符をうったのだった。
 金子の詩は、戦後、『落下傘』(日本未来派発行所(北海道)、昭和二十三年四月一日)、『蛾』(北斗書院、昭和二十三年九月一日)、『女たちへのエレジー』(創元社、昭和二十四年五月十五日)、『鬼の児の唄』(十字屋書店、昭和二十四年十二月十五日)と、たて続けに出版される。
 三千代は東京へ戻ったあと八月には小説集『街の童女』(飛鳥書房)を、十月には中編小説「おしろい花」(九州書房部)から出版して作家活動を再スタートさせた。
 だが疎開先の寒いなかでの慣れない農作業の疲れと、敗戦直後に自宅近くの医師に打ってもらった砒素の注射で、体調に異変をきたした。三千代はもともと健康な女性だったが、四十代には一種の皮膚疾患に悩むようになった。首や両腕に水泡状の痂(かさぶた)が生じ、夏でも長袖を着なければならなかった。東京へ戻るとこれがぶり返したのである。
 自分の容姿に気を使う彼女は、近所の医者に二、三回砒素の注射を打ってもらったのだが、それが原因で高熱を発し、全身に痛みが生じた。これがゆくゆく彼女を苦しめる原因となる。一九四九年(昭和二十四年)には過労と風邪のため急性関節リューマチを発症して、やがて寝たきりの生活を余儀なくされることになる。
 金子光晴と森三千代の相棒が、戦後にたどるこうした第二幕は、また稿をあらためて書くことにする。(完)
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by monsieurk | 2017-07-08 22:30 | 芸術
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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