ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅰ

 これからしばらくは、アルベール・カミュのエセー『結婚』から、訳し残した「砂漠」を掲載する。

    砂漠
          ジャン・グルニエに

 生きること、それはむろん、表現するのとはやや逆のことだ。これについてのトスカナの巨匠たちの言を信ずるなら、それは三度、すなわち沈黙と、焔と、動かぬことのなかで証言される。
 彼らの絵の人物たちが、フィレンツェやピサの通りで毎日出会う人たちだと気づくには大分時間を要する。だが同時に、私たちは周囲の人たちの本当の顔を見る術を、もはや知らないでいる。私たちはいまや同時代の人びとの顔をじっと見たりはしない。ただ、彼らのうちにあって、私たちの意向に沿うもの、私たちの行為を規律だてるものを強く望むだけだ。わたしたちは顔よりも、もっとも卑俗なその詩の方を好む。だがジオットやピエロ・デッラ・フランチェスカは、人間の感受性など何ものでもないことを知っている。それは実際のところ、心はみなが持っている。だが、憎しみ、涙、歓びといった、生きることへの愛がそこに引き寄せられる、単純で永遠で偉大な感情は、人間の奥底で増殖され、その宿命の顔を造形する。――ジオッテーノの埋葬のなかで描かれたように、マリアの、食いしばった歯に現れている苦悩がそれだ。トスカナの教会の巨大なマエスタ〔キリストを抱いたマリア〕の数々では、他のものから転写され続けてきた顔をもつ天使の一群を目にした。そして私は、これら沈黙する情熱的な顔の一つ一つに孤独を認めるのが常だった。
 問題なのは、まさにピトレスクであり、エピソードであり、ニュアンスあるいは感動するものだった。つまり詩が問題となるのだ。大事なのは真実だ。そして私は、持続するものすべてを真実と呼ぶ。この点に関しては、ただ画家だけが私たちの餓えを鎮めてくれるといった、考えなくてはならない微妙な教訓がある。それというのも、彼ら画家だけが、肉体の小説家となる特権をもっているからだ。彼らは、現在と呼ばれるこの壮麗で移ろいやすい材料で仕事をするからだ。そして現在は常に仕種のなかで思い描かれる。彼らは、微笑、儚い羞恥、悔恨、期待はなどは描かず、骨がつくる浮彫りの顔と、血の熱さを描く。彼らは永遠の線のなかに凝縮された顔という顔から、精神の呪いを永久に追放してしまった。それが希望の代償だった。なぜなら、肉体は希望を知らず、脈打つ血しか知らないからだ。肉体に固有の永遠は、無関心からなりたっている。丁度あのピエロ・デッラ・フランチェスカの《笞刑》のように、きれいに洗われた中庭で拷問されるキリストと、屈強な肢体の死刑執行人は、その態度で同じような放心を示している。それはまさしく、この体刑には続きがないからである。そしてこの教訓は、画布の枠内に留まっている。明日を期待しない者にとって、感動するどんな理由があるだろうか? 希望をもたない人間のこの無感動とこの偉大さ、この永遠の現在、それこそが、まさに分別ある幾人かの神学者たちが地獄と呼んだものだ。地獄とは、誰もそれを知らことはないように、苦しむ肉のことでもある。トスカナの人たちが立ちどまるのはこの肉であり、その宿命ではない。預言的な絵画といったものはない。希望を抱く理由を探さなくてはならないなら、それは美術館のなかではない(続)
[PR]
by monsieurk | 2017-07-26 22:30 |
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31