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木村荘八と牛肉屋「いろは」➁

荘八の父


木村荘八の父荘平に関する基本的文献としては、『木村荘平君伝』(明治四十一年)や『東洋実業家列伝』(明治二十六年)があるが、ともにいまでは稀覯本である。前者は荘平の三周忌供養として、報知新聞記者が編集したもので、国会図書館所蔵の本が電子化されて公開されている。これらを参考にしつつ、この「明治の怪物」の一人とされる荘平の生涯をたどってみる。

 荘平は天保十二年(一八四一年)七月、山城国(現在の京都府)伏見の農民の庄兵衛の長男として生まれた。先祖は宇治の田原で上林姓を名のる篤農家で、代々禁裏の百姓として皇室の御料地を耕すかたわら、宇治の名産である茶をつくる製茶師を兼ねていたという。庄兵衛は妻をめとったあと木村家に夫婦養子として入った。荘平はそこでの生まれたのだった。

 彼は幼い時から体格抜群で、十四歳のときには村相撲の横綱をはり、力士になることを夢見て、有名な小野川秀五郎の門をたたき、それから二年間は一門の力士たちとともに諸国を巡業してあるいた。そうした環境のなかで遊里にも足を踏み入れたのだった。だが二年後には母の哀願によって故郷に呼び戻された。その後、荘平は遊びをやめて、荷をかついで青物の行商をはじめ、やがて仲買の店を持つとともに、万延元年(一八六〇年)には製茶貿易を兼ねるようになった。

 この年はさまざま点で歴史を転換する画ときであった。二年前の安政五年六月、大老となった井伊直助は日米修好通商条約を受け入れることを決断、七月にはアメリカ艦上で調印した。これに対する反対する攘夷派の逮捕がしきりに行われた。いわゆる安政の大獄である。

 幕府は翌安政六年七月には神奈川に居留地をさだめ、これ以後海外との貿易が急速にすえることになった。ちなみに安政六年の輸出額は九万ドルだったのにたいして、万延元年には四十七万ドルに急増している。だがこうした激変にいきどおる攘夷派が少なくなく、万延元年の三月二十四日には、江戸城桜田門外で、大老井伊直助は水戸藩浪士たち十八人によって殺害された。こうした外国人を敵視する世論も少なくないなかで、茶の貿易を生業としようとすることは度胸がいったが、彼はこうした乱世を自分がのし上がるのに絶好の機会であると考えたのである。

 こうして茶の貿易を軌道にのせた荘平は、三年後の文久三年(一八六三年)には伏見の青物問屋二十三軒をまとめて組合をつくり、その取締役におされ、やがて京都にある各藩の屋敷に出入りする御用商人となり富をふやした。

 慶応四年(一八六八年)一月二十七日、鳥羽、伏見で幕府軍と鹿児島、長州連合軍とのあいだの戦闘をきっかけに戊辰戦争がおこった。伏見は荘平が商いをする地元だったが、彼はこの戦いの行方を勤王派が勝つと踏んで、薩摩軍のかけたのである。彼は軍の御用を引き受け、物資の調達にはしりまわった。これが荘平の後の運命をきめたのである。

 荘平は戦況を見きわめた上で、勤皇方が有利と判断した彼は、薩摩藩のための物資の調達にはしりまわった。兵力の上では幕府軍の方が優勢だったが、戦いは新式銃で武装した薩長軍の勝利におわり、一月三十一日には徳川慶喜にたいする追討令がだされた。慶喜は戦端が開かれるより前に咸臨丸で大阪を出帆、江戸にもどってしまっていた。二月十日、新政府は各国公使と兵庫で会見し、王政復古の国書を手渡し、外国と和親するむねを告げた。こうして徳川幕府の時代は終わり、新政府誕生が内外にむけて宣言された。

 明治維新はなったが新政府には金がなく、木村荘平が調達してきた物資への支払いもとどこおった。おかげで勝利に貢献した荘平の努力も報われずに終わったかにみえた。そんなとき、荘平は薩摩軍におさめた物品は、すべて戦勝を祝って、薩摩に寄付したことにすると申し出たのである。このいさぎよい行動は意気に感じやすい薩摩っぽの胸をうった。荘平は新政府の中核となった薩摩の人たちに恩を売った形となり、のちに明治政府のお声がかりで商売をする道をひらくことになる。


by monsieurk | 2019-07-18 08:58 | 美術
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