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ムッシュKの日々の便り

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わがマドンナ

最近、アルベール・カミュの初期のエッセー『結婚(Noces)』を翻訳して、私家版として100部限定で刊行した。その「あとがき」で次のようなことを書いた。


昔から良い作品や文章を読んだとき、感動の証に背筋が震えることがときどきある。その最初の経験が、高等学校のときに読んだアルベール・カミュの『結婚』だった。古文の授業時間に教科書に隠すようにして読んでいて、突然背中がブルッとふるえた。

90ページほどの本には、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」、「砂漠」の4篇の詩的エッセーが収録されていて、冒頭の「ティパサでの結婚」の印象はとくに強烈だった。これらのエッセーに共通するのは、アルジェリアをはじめとする地中海地方に特有の大地、輝く太陽、青い空、吹き渡る風、芳香を放つ色とりどりの花····こうした世界の美しさを肌で感じつつ、今この時を生きることへの讃歌である。

カミュはのちに書く『シーシュポスの神話』のエピグラフに、古代ギリシアの詩人ピンダロスから、「ああ、わが魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、可能なものの領域を汲み尽くせ」という言葉を引用するが、この一行こそ『結婚』の内容を要約している。若かった私が深く感動したのも、こうした生き方に共鳴したからに違いない。

「ティパサでの結婚」を初めて読んでから凡そ65年、窪田啓作、高畠正明両氏の既訳があるが、あえて自分なりの翻訳をこころみた次第である。


この「あとがき」を読んでくれた知人から、「どんな高校生だったのか想像している」というメールが届いた。

古文の時間に「内職」してカミュを読んでいたのは、都立日比谷高校の2年生の春だった。当時の日比谷高校は変わった学校で、1学年は男子300人、女子100人で、これを8つのクラスに分けるのだが、気心が知れた2年生からは、クラス編成はすべて生徒の自由にまかされていた。唯一の条件は、1クラスを男子は38名、女子12名で構成するというものだった。私たちは、野球部とラグビー部を中心に男子38名が集まり、女子12名をスカウトすることにした。

 難航が予想された女子の口説き落としは、始めてみると12名がたちまち集まり、どのクラスよりも早くわが「22ルーム」は出来あがった。わたしが所属していた野球部は、毎年部員が112名しかおらず、旧女子高にも負ける弱小チームだったが、ラグビー部の方は、ラグビーの名門、保善高校に次ぐ東京都の第二代表として花園の全国大会にも出場したほどの実力があった。12名の女子獲得の原動力は、野球部ではなくラグビー部なのは明らかだった。

 日比谷の特徴は学生の自主性が大いに尊重されていたことである。一回100分の授業時間も、学校側から生徒会に諮られて、学生の同意のもとに実行された。授業でも英語は、教科書よりも副読本の講読に重点が置かれ、1年生のときは、イギリス人作家ゴールズワージーの『林檎の樹(The Apple Tree)』、2年はジェームズ・ヒルトンの『チップス先生、さようなら(Goodbye, Mr.Chips)』を一年かけて読み終えた。他の教科も同様で、2年生のときの社会科のテクストは『経済学入門』で、これを「原爆許すまじ」の作曲家、木下航二先生に講義してもらった。いまでも緑色の分厚い本を覚えている。

 だからと言って学生はいわゆる「ガリ勉」ではなく、昼休みには当時流行ったフォークダンスをほぼ全校の生徒が踊り、放課後も遅くまで、テニス、野球、ラグビー、演劇、新聞部などの部活を楽しんだ。フォークダンスといえば、図書館前の大きな樹の下に佇んで、いうも眺めている女生徒がいた。それが後の塩野七生さんだった。

 2年生のとき、授業を二日間休みにして、「君が代」を歌うかどうかで全校集会が開かれたことがあった。さまざまな意見が出るなか、「君が代の君は、僕と君の君だ」と発言して罵倒される者もいた。激論の結果、学校内では「君が代」を歌わないことになったと記憶している。このときも学校側からは何の干渉もなかった。

 高校時代の3年間、力を入れたのはフランス語の修得だった。中学生からフランス映画のファンだったわたしは、日比谷に入学すると英語の授業の他にフランス語(日比谷では希望者に第二外国語としてフランス語とドイツ語を週一回教えた)を履修したが、これでは足りずに、お茶の水の「文化学院」のなかにあった「アテネ・フランセ」に通い、華やかな女性に混じって、一人詰襟の学生服を着てフランス語を習った。最初の先生はフランス大使館の参事官夫人のマダム・レダンジェで、小柄で美しい夫人に見とれながら、フランスの詩を読んだ。授業は一度も欠席しなかった。フランス語さえ出来れば、やがて映画で見るようなフランス女性と知り合えると信じていたのである。

 当時のお気に入りの女優は、ジャン・ドラノア監督の『愛情の瞬間(La Minute de Vérité)』(1952)のミシェル・モルガンだった。映画は医師(ジャン・ギャバン)とその妻(ミシェル・モルガン)、それに若い絵描き(ダニエル・ジェラン)の三角関係の悲劇を描いたもので、3、4回映画館に通った記憶がある。

 スクリーン上のマドンナがミシェル・モルガンだとすれば、生きている「わがマドンナ」は、一学年下の井林愛子さんだった。学年が違うから同じクラスにはなれなかったが、教室の席はあいうえお順で、頭文字が「か」の私の席は2年、3年と窓際だった。古文の時間の内職のほかに、彼女が校庭で運動をしているときはその姿ばかり眺めていた。

 1957(昭和32)3月、こちらが卒業というとき、思い切って写真を撮らせてほしいと頼むと、井林さんは正門の所でポーズをとってくれた。ところが現像してみると、顔のところに何やら他のものが写っている。慌ててシャッターを切ったために、フィルムを巻くのをを忘れた結果だった。いまのデジタル写真とは違って現像に時間がかかり、失敗に気づいたのは卒業式のあとで、時すでに遅し、二度と撮り直しはできなかった。

 ところが最近になって、17歳の井林愛子さんの写真を見ることができたのである。Googleで検索していると、「思い出のアルバム」(akikaneko.sakura.ne.jp/idlezz.himl)というサイトに、17歳の井林さんのポートレートが載っているではないか。

「アルバム」の著者が写真に添えたコメントによれば、彼女は私のみならず、「日比谷の生徒全員のアイドル」だったという。つまり「わがマドンナ」ではなく、「われらがマドンナ」だったわけである。同じサイトでは、2017年に井林さんと同級だった人たちが、彼女の義弟が本所吾妻橋で開いているフランス料理の店「トライアール(TriR)」に集まったときの写真も見ることができた。これが60年数年ぶりに再会した井林愛子さんの写真である。


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by monsieurk | 2019-08-09 14:57 | 映画
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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