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最初の梶井基次郎論

以下が、前のブログで紹介した、「東大教養学部新聞」(1961年・昭和36120日号、第116号)の第4面に、島直治のペンネームが書いた、最初の梶井基次郎論である。


梶井文学の「今日」的問題~特徴的な意識の転位」

 (一)

 かつて萩原朔太郎は梶井基次郎を評して、「彼は肉食獣の食欲で生活しつつ、一角獣の目をもって世を見て居る、稀にみる真の文学者である」と云った。だが小説家としての梶井には、構成力の弱さや小説技法の点で限界があった。

彼が残した作品は、「ある崖上の感情」を例外として、どれも一人称で書かれている。彼はぎりぎりのところまで煮つめられた珠玉のような短編を完成するまでに膨大な草稿を残したが、決って草稿の方が小説的であって、完成された作品は短編小説というより詩に近い。これは彼が人間存在の底に口をあけた虚無の深淵を覗き見た数少ない一人であり、彼の文学が虚無とそこからの脱出をテーマとしていることを考えると、ある意味で必然的であったとも言えるのである。

 梶井の文学は「闇」をめぐって展開する。京都時代には一種の気分でしかなかった彼の退嬰的な傾向は、第三高等学校へ入るとすぐに発病し、三十二歳の若さで亡くなる原因となった肺結核のために一層助長されることになった。そして病のために、現実生活の外に居なければならなかったことが原因で、彼のうちにいつしか「闇」の観念が定着する。「蒼穹」という作品は、梶井が実感として抱いていた「闇」がいかなるものであるかをよく示している。

 ある日、山から雲が湧き出るのを眺めていた彼は、真昼の蒼空のなかに闇が充満しているのを見る。

「突然私は悟つた。・・・なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちてゐるのだといふことを。私の眼は一時に視力を弱めたかのやうに、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがつたこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覺出来なかつたのである。」(「蒼穹」)

 「意力のある無常感」という言葉が「ある崖上の感情」の締めくくりに出てくるが、この言葉ほど、彼が抱いた闇の観念の内実を的確に表しているものはない。だが注意しなければならないのは、梶井の絶望の本質は、「無常感」といった語から感じられる東洋的な諦念とは別のもの、ほとんど正反対のものである。それは闇のなかに、恐怖や不安でいっぱいになった一歩を踏み出すときに感じる、「裸足で薊を踏んづける!」ような「絶望に駆られた情熱、闇への情熱」なのである。

梶井は「蒼穹」と「闇の絵巻」なかで、この同じ絶望への情熱を感じた体験を語っている。

 ある夜、彼は提灯も持たずに大きな闇の中を歩いていると、街道わきの家からもれる光のなかに、突然一つの人影が現れ、やがて彼はその人影が背に負った光をだんだん失いながら、闇に消えてゆくのをじっと見つめる。

「そのとき私は『何處』というもののない闇に微かな戦慄を感じた。その闇のなかへ同じやうな絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、云ひ知れぬ恐怖と情熱を覺えたのである。」(「蒼穹」)

 最初のうち、内心を圧迫する「不吉な塊」から逃れるために、梶井が用いた常套手段は、「丸善の書棚の上に一顆の檸檬をだまつて置いてくる」といったことであり、草稿「瀬山の話」でのように、夜更けに自分の下宿の前に立って自分の名前を呼び、「瀬山さん、電報」と叫んで逃げ出すといった企みであった。だが漠然とした不安が、闇――それは死の予感に他ならない――という、背をじりじり焼くような絶望感へと深まるにつれて、幻想を意図的によび起すことによって意識の転位を可能にし、これを習慣化することで、一瞬の恍惚感を得るというように変化していった。

 (二)

 梶井の特徴として、その独特の感性に動きを語るとき、決まって引用されるのが、「ある心の風景」の、「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ。」という一節である。

「城のある町にて」では、梶井は純粋に視ることを楽しんでいる。本来「視る」という認識作用は、客体としての視られる対象物の実在性を措定していて、こうした意識状態を保つ限り、外界はもっぱら具体的で感覚的なものとして現前し、視る者の内面はそれと微妙に感応しあう。そしてそこから新鮮な感動が生まれてくる。こうした類の優れた描写は、梶井の作品のいたるところに見られる。

「サヽヽヽと日が翳る。風景の顔色が見る見る變つてゆく。

遠く海岸に沿つて斜に入り込んだ入江が見えた。――峻は此の城跡へ登る度、幾度となくその入江を見るのが癖になつてゐた。

海岸にしては大きい立木が所どころ繁つてゐる。その蔭にちょつぴり人家の屋根が覗いてゐる。そして入江に舟が舫つてゐる氣持。

それはただそれだけの眺めであつた。何處を取りたてて特別心を惹くやうなところはなかつた。それでゐて變に心が惹かれた。

なにかある。本當に何かがそこにある。と云つてその氣持を口に出せば、もう空ぞらしいものになつてしまふ。」(「城のある町にて」)

 だが、梶井の意識がこのように知覚の領域にとどまっていて、対象と平衡を保っている例は稀である。始終心を抑えつける「不吉な塊」、倦怠や理由の分からない焦燥から逃れるためには、意識を対象の束縛から解き放って幻想を生み出さなければならない。

梶井の幻視は、「物質の不可侵性を無視して風景のなかに滲透し」(「闇への書・第二話」)、あるいは「物理学の法則を破壊」して発動する。このとき梶井の眼はもはや対象物を視るのではなく、全的な視像(ヴィジョン)で覆われる。こうした意識の転位の過程を、「筧の話」は鮮やかに描いている。

 心がわけても静かだったある日、「私」は杉林の間の一本の古びた筧の水音に、不思議な魅惑がこもっているのに気づく。

 「この美しい水音を聴いてゐると、その邊りの風景のなかに變な錯誤が感じられて来るのであつた。・・・筧といへばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横へてゐるい過ぎないのだつた。「そのなかかだ」と私の理性が信じてゐても、澄み透つた水音にしばらく耳を傾けてゐると、聴覺と視覺との統一はすぐばらばらになつてしまつて、變な錯誤の感じとともに、訝しい魅惑が私の心を充して来るのだつた。

 ・・・そして深〔ママ〕秘はだんだん深まつてゆくのだつた。私に課せられてゐる暗鬱な周圍のなかで、やがてそれは幻聴にやうに鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあつあつと思つた。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるたまではなかつた。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかつたのである。何といふ錯誤だらう! 私は物體が二つに見える酔つ拂ひのやうに、同じ現實から二つの表象を見なければならなかつたのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負つてゐた。」(「筧の話」)

 さらにまたあるときは、梶井の意識は「束の間の閃光」を求めて、不在の対象物を志向し、自ら進んでイマージュを構想しようとする。

 「彼はよくうつ伏せになつて両手で墻を作りながら(それが牧場の積りであつた)

「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と云ひながら弟をだました。両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上に暗黒のなかに、さう云へばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだつた。」(「城のある町にて)

 このようにして得られる精神の緊張は、一瞬美的光芒を生み出すが、それは決して長くは続かない。事実、「筧の話」の主人公が感じる生命の輝きも束の間のものでしかなく、はっきり見ようとした途端、幻覚はまたもとの退屈な現実に帰ってしまうのである。こうして梶井はまた元ののっぺらぼうな現実世界を前にして絶望を感じる。

 現実とは畢竟、サルトルが「想像力の問題」で検証したように、美しいものではありえず、そこに課せられているのは永遠の退屈、一度、幻暈にも似た陶酔を体験した精神にとっては、一層その度合を深めた倦怠でしかない。そのために梶井は、現実の出来事や対象を前にしていつしか審美的な態度をとるようになる。こうした梶井の性向については、伊藤整が『若い詩人の肖像』で、興味深いエピソードを伝えている。

 梶井は昭和四年ごろから、マルクスの「資本論」を読み、手紙に「その面白さはトルストイ以上だ」と書いている。そして遺作となった「のんきな患者」では、社会性をもった小説を目指そうとした兆候が現れるが、梶井自身は自ら本質を別のものと考えていたように思える。彼は昭和二年十二月の北川冬彦宛ての手紙でこう述べている。

 「僕の観念は愛を拒否しはじめて、社會共存から脱しようとし、日光よりも闇を嬉ばうとしてゐる。・・・然しこんなことは人性の本然に反した矛盾で、對症療法的で、ある特殊な心の状態にしか價値を持たぬことだ。然し僕はそういつた思考を續け、作を書くことを續ける決心をしている。」

ここには不治の病のために、「變轉の多かるべき二十七歳にして」、なにもせずに療養先の湯ヶ島にわが身を埋めてしまっている現状への不安が影を落としている。そうした特別の事情があったにせよ、梶井のこの決意は最後まで変らなかったように思える。

 梶井という人は、おそらく彼が抱いた幾つかのイメージに一生を賭けたのである。彼の文学の唯美的な傾向は、日本の近代文学に先例を見ず、その精神風土は直接フランス象徴主義の文学に連なっている。人は梶井におけるボードレールの影響をうんぬんするが、それは影響というよりは、両者の精神構造の似通っていたことの結果なのである。

 私たちは梶井の作品から戦慄にも似た感動を読みとる。だがそれと私たちが現実を前にして、梶井と同じように美にすべてを賭けるわけにはいかない。恐らくそれは資質の違いを超えた、「今日」という時代の問題なのであろう。(「東大教養学部新聞」、一九六一年(昭和三十六年)一月二十日号)

 最後の段落に、激しかった政治の季節の終わりを迎えていた、当時の感慨がにじんでいる。


by monsieurk | 2019-08-16 11:08 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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