30年目のショプロン
1989年11月8日の「ベルリンの壁」崩壊にいたる事態を取材した経緯は、このブログの2011.10.31日と2011.11.03の2回に分けて紹介した。
東西冷戦に終止符を打ち、東西ドイツをもたらしたこの歴史的な出来事の発端となったのが、オーストリアと国境を接するハンガリー西部の街、ショプロンの郊外で開かれた「ヨーロッパ・ピクニック計画」であった。
親睦を装った計画は、ヴァカンスを過ごすためにハンガリーに来ていた東ドイツ市民を、国境を越えてオーストリアに逃がすことが目的に、ハンガリーの民主勢力が巧妙に組織したものだった。当時のハンガリー政府もこれを黙認し、国境を閉ざす柵が1時間にわたって開かれ、600人を超える東ドイツ市民が西側に逃れた。
今年2019年8月19日は、あれから丁度30年に当たり、記念式典がショプロンの教会で行われて、ドイツのメルケル首相とハンガリーのオルバン首相も出席した。
AFPその他の外電によると、メルケル首相は、「『ピクニック』は連帯、自由、人道的なヨーロッパという価値観を反映する世界的なイヴェントとなった」と述べ、30年前ハンガリー政府が国境を開放したことに対して、「分断を克服するために協力してくれたことに感謝する」と語った。
メルケル首相のこの発言には、現在のハンガリー政権の政策を強く牽制する意味が込められている。ベルリン壁崩壊をきっかけに西側に復帰したハンガリーは、経済不況など30年間の社会の変化で、2015年に大量の難民がヨーロッパに押し寄せたときには、今のオルバン政権は国境を封鎖して、難民の受け入れを拒否した。これは信念をもって難民受け入れの政策を取り続けるメルケル首相のドイツとは対照的である。
事実、メルケル首相はこの日の教会でも演説でも、「ショプロンは、わたくしたちヨーロッパの人びとが同じ一つの価値観を支持するなら、どれだけのことを成し遂げられるかを示した偉大な例だ」と、連帯と寛容の必要性を強調した。
だがハンガリーのオルバン首相は、式典後の記者会見で、「当時の行動と今日の政策に矛盾はない。われわれの義務は国境を守ることだ」と反論したという。
30年前、激動するヨーロッパの動向を、ブダペストやベルリン(まだ東西に分かれていた)の現場で取材したわたくしには、この30年でヨーロッパの歴史は確実に一巡りしたように思える。