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ムッシュKの日々の便り

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カテゴリ:本( 147 )

最初の梶井基次郎論

以下が、前のブログで紹介した、「東大教養学部新聞」(1961年・昭和36120日号、第116号)の第4面に、島直治のペンネームが書いた、最初の梶井基次郎論である。


梶井文学の「今日」的問題~特徴的な意識の転位」

 (一)

 かつて萩原朔太郎は梶井基次郎を評して、「彼は肉食獣の食欲で生活しつつ、一角獣の目をもって世を見て居る、稀にみる真の文学者である」と云った。だが小説家としての梶井には、構成力の弱さや小説技法の点で限界があった。

彼が残した作品は、「ある崖上の感情」を例外として、どれも一人称で書かれている。彼はぎりぎりのところまで煮つめられた珠玉のような短編を完成するまでに膨大な草稿を残したが、決って草稿の方が小説的であって、完成された作品は短編小説というより詩に近い。これは彼が人間存在の底に口をあけた虚無の深淵を覗き見た数少ない一人であり、彼の文学が虚無とそこからの脱出をテーマとしていることを考えると、ある意味で必然的であったとも言えるのである。

 梶井の文学は「闇」をめぐって展開する。京都時代には一種の気分でしかなかった彼の退嬰的な傾向は、第三高等学校へ入るとすぐに発病し、三十二歳の若さで亡くなる原因となった肺結核のために一層助長されることになった。そして病のために、現実生活の外に居なければならなかったことが原因で、彼のうちにいつしか「闇」の観念が定着する。「蒼穹」という作品は、梶井が実感として抱いていた「闇」がいかなるものであるかをよく示している。

 ある日、山から雲が湧き出るのを眺めていた彼は、真昼の蒼空のなかに闇が充満しているのを見る。

「突然私は悟つた。・・・なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちてゐるのだといふことを。私の眼は一時に視力を弱めたかのやうに、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがつたこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覺出来なかつたのである。」(「蒼穹」)

 「意力のある無常感」という言葉が「ある崖上の感情」の締めくくりに出てくるが、この言葉ほど、彼が抱いた闇の観念の内実を的確に表しているものはない。だが注意しなければならないのは、梶井の絶望の本質は、「無常感」といった語から感じられる東洋的な諦念とは別のもの、ほとんど正反対のものである。それは闇のなかに、恐怖や不安でいっぱいになった一歩を踏み出すときに感じる、「裸足で薊を踏んづける!」ような「絶望に駆られた情熱、闇への情熱」なのである。

梶井は「蒼穹」と「闇の絵巻」なかで、この同じ絶望への情熱を感じた体験を語っている。

 ある夜、彼は提灯も持たずに大きな闇の中を歩いていると、街道わきの家からもれる光のなかに、突然一つの人影が現れ、やがて彼はその人影が背に負った光をだんだん失いながら、闇に消えてゆくのをじっと見つめる。

「そのとき私は『何處』というもののない闇に微かな戦慄を感じた。その闇のなかへ同じやうな絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、云ひ知れぬ恐怖と情熱を覺えたのである。」(「蒼穹」)

 最初のうち、内心を圧迫する「不吉な塊」から逃れるために、梶井が用いた常套手段は、「丸善の書棚の上に一顆の檸檬をだまつて置いてくる」といったことであり、草稿「瀬山の話」でのように、夜更けに自分の下宿の前に立って自分の名前を呼び、「瀬山さん、電報」と叫んで逃げ出すといった企みであった。だが漠然とした不安が、闇――それは死の予感に他ならない――という、背をじりじり焼くような絶望感へと深まるにつれて、幻想を意図的によび起すことによって意識の転位を可能にし、これを習慣化することで、一瞬の恍惚感を得るというように変化していった。

 (二)

 梶井の特徴として、その独特の感性に動きを語るとき、決まって引用されるのが、「ある心の風景」の、「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ。」という一節である。

「城のある町にて」では、梶井は純粋に視ることを楽しんでいる。本来「視る」という認識作用は、客体としての視られる対象物の実在性を措定していて、こうした意識状態を保つ限り、外界はもっぱら具体的で感覚的なものとして現前し、視る者の内面はそれと微妙に感応しあう。そしてそこから新鮮な感動が生まれてくる。こうした類の優れた描写は、梶井の作品のいたるところに見られる。

「サヽヽヽと日が翳る。風景の顔色が見る見る變つてゆく。

遠く海岸に沿つて斜に入り込んだ入江が見えた。――峻は此の城跡へ登る度、幾度となくその入江を見るのが癖になつてゐた。

海岸にしては大きい立木が所どころ繁つてゐる。その蔭にちょつぴり人家の屋根が覗いてゐる。そして入江に舟が舫つてゐる氣持。

それはただそれだけの眺めであつた。何處を取りたてて特別心を惹くやうなところはなかつた。それでゐて變に心が惹かれた。

なにかある。本當に何かがそこにある。と云つてその氣持を口に出せば、もう空ぞらしいものになつてしまふ。」(「城のある町にて」)

 だが、梶井の意識がこのように知覚の領域にとどまっていて、対象と平衡を保っている例は稀である。始終心を抑えつける「不吉な塊」、倦怠や理由の分からない焦燥から逃れるためには、意識を対象の束縛から解き放って幻想を生み出さなければならない。

梶井の幻視は、「物質の不可侵性を無視して風景のなかに滲透し」(「闇への書・第二話」)、あるいは「物理学の法則を破壊」して発動する。このとき梶井の眼はもはや対象物を視るのではなく、全的な視像(ヴィジョン)で覆われる。こうした意識の転位の過程を、「筧の話」は鮮やかに描いている。

 心がわけても静かだったある日、「私」は杉林の間の一本の古びた筧の水音に、不思議な魅惑がこもっているのに気づく。

 「この美しい水音を聴いてゐると、その邊りの風景のなかに變な錯誤が感じられて来るのであつた。・・・筧といへばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横へてゐるい過ぎないのだつた。「そのなかかだ」と私の理性が信じてゐても、澄み透つた水音にしばらく耳を傾けてゐると、聴覺と視覺との統一はすぐばらばらになつてしまつて、變な錯誤の感じとともに、訝しい魅惑が私の心を充して来るのだつた。

 ・・・そして深〔ママ〕秘はだんだん深まつてゆくのだつた。私に課せられてゐる暗鬱な周圍のなかで、やがてそれは幻聴にやうに鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあつあつと思つた。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるたまではなかつた。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかつたのである。何といふ錯誤だらう! 私は物體が二つに見える酔つ拂ひのやうに、同じ現實から二つの表象を見なければならなかつたのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負つてゐた。」(「筧の話」)

 さらにまたあるときは、梶井の意識は「束の間の閃光」を求めて、不在の対象物を志向し、自ら進んでイマージュを構想しようとする。

 「彼はよくうつ伏せになつて両手で墻を作りながら(それが牧場の積りであつた)

「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と云ひながら弟をだました。両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上に暗黒のなかに、さう云へばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだつた。」(「城のある町にて)

 このようにして得られる精神の緊張は、一瞬美的光芒を生み出すが、それは決して長くは続かない。事実、「筧の話」の主人公が感じる生命の輝きも束の間のものでしかなく、はっきり見ようとした途端、幻覚はまたもとの退屈な現実に帰ってしまうのである。こうして梶井はまた元ののっぺらぼうな現実世界を前にして絶望を感じる。

 現実とは畢竟、サルトルが「想像力の問題」で検証したように、美しいものではありえず、そこに課せられているのは永遠の退屈、一度、幻暈にも似た陶酔を体験した精神にとっては、一層その度合を深めた倦怠でしかない。そのために梶井は、現実の出来事や対象を前にしていつしか審美的な態度をとるようになる。こうした梶井の性向については、伊藤整が『若い詩人の肖像』で、興味深いエピソードを伝えている。

 梶井は昭和四年ごろから、マルクスの「資本論」を読み、手紙に「その面白さはトルストイ以上だ」と書いている。そして遺作となった「のんきな患者」では、社会性をもった小説を目指そうとした兆候が現れるが、梶井自身は自ら本質を別のものと考えていたように思える。彼は昭和二年十二月の北川冬彦宛ての手紙でこう述べている。

 「僕の観念は愛を拒否しはじめて、社會共存から脱しようとし、日光よりも闇を嬉ばうとしてゐる。・・・然しこんなことは人性の本然に反した矛盾で、對症療法的で、ある特殊な心の状態にしか價値を持たぬことだ。然し僕はそういつた思考を續け、作を書くことを續ける決心をしている。」

ここには不治の病のために、「變轉の多かるべき二十七歳にして」、なにもせずに療養先の湯ヶ島にわが身を埋めてしまっている現状への不安が影を落としている。そうした特別の事情があったにせよ、梶井のこの決意は最後まで変らなかったように思える。

 梶井という人は、おそらく彼が抱いた幾つかのイメージに一生を賭けたのである。彼の文学の唯美的な傾向は、日本の近代文学に先例を見ず、その精神風土は直接フランス象徴主義の文学に連なっている。人は梶井におけるボードレールの影響をうんぬんするが、それは影響というよりは、両者の精神構造の似通っていたことの結果なのである。

 私たちは梶井の作品から戦慄にも似た感動を読みとる。だがそれと私たちが現実を前にして、梶井と同じように美にすべてを賭けるわけにはいかない。恐らくそれは資質の違いを超えた、「今日」という時代の問題なのであろう。(「東大教養学部新聞」、一九六一年(昭和三十六年)一月二十日号)

 最後の段落に、激しかった政治の季節の終わりを迎えていた、当時の感慨がにじんでいる。


by monsieurk | 2019-08-16 11:08 |

東大教養学部新聞

駒場の教養学部に在学中は、「東大教養学部新聞」に所属して、毎月一回刊行する新聞づくりに熱中した。この時代の「新聞会」については、東京外国語大学名誉教授で、学問論・思想史が専門の上村忠男氏が、『回想の1960年代』(ぷねうら舎、2015年)で次のように書いている。

「新聞会の部屋の扉を叩いたのは〔1960年〕426日の国会デモに出かけた直後ではなかったかとおもう。(中略)

新聞会では、編集長の柏倉康夫を中心に、1959年入学組の2年生10名ばかりが活動していた。・・・これにわたしのほか、・・・1960年入学組10数名が新たに加わって、喧々諤々の議論、部室はいつも活気に満ちていた。

議論は時として激することもめずらしくなかった。なかでも、ブントに所属していた中垣行博が、編集部員の担当する「射影」という一面下のコラムで、日本共産党内の構造的改革派の論客の一人として知られる安東仁兵衛の426デモ当日の行動を批判する記事を書いたさいには、どうやら共産党内で安東らの構造的改革路線に同調する立場をとっていたらしい後藤仁がクレームをつけ、一座の空気が一瞬凍りついてしまったことがあった。1127以降顕著になりつつあった全学連内部における主流派と反主流派の対立は、新聞会の部員たちのあいだでの議論にも折に触れて顔をのぞかせていたのだった。」

1960615日に、新安全保障条約が自然承認された夜、国会を取り巻いて抗議のデモを行っていた私たち学生のなかで、樺美智子さんが警官隊との衝突で犠牲になった。私たちの「東大教養学部新聞」も、6月20日号(第109号)の4面すべてを、6・15当日の行動と樺美智子さんの死に割いた。

第1面では、「血塗られた6・15闘争」、「警棒に倒される学友」、「だがぼくらは民主主義を守る・・・」と3本の4段見出しを並べ、記事は、「6月15日東大教養学部では前日の自治委員会決議にもとづき、約千人が陰うつな天候の中を国会正門前に向い、地方から駆けつけた学生も含めた約1万2千人とともに午後4時ごろより国会でもに入った。」と書き始められている。そして午後6時ごろ、機動隊との衝突のなかで一人の女子学生が亡くなった。それが樺美智子さんだった。

新聞の4面には、東洋史の上原淳道助教授に依頼した記事、「劉和珍さんと樺さんと、樺美智子さんを祈念して」が載っている。

上原さんは記事の最後を、「編集部は樺さんの死のもつ意味、その死のもたらす影響、ないしその死から汲みとるべき教訓などについて私に書いてもらいたいらしい。だが私はそれをやめようと思う。樺さんは明確な目的と尖鋭な意識とをもって行動しているうちに権力によって殺されたのであり、その死は岸政府とアメリカ帝国主義とに大きな打撃を与えた。しかし樺さんを英雄にまつりあげたりしてはなるまい。その死を讃美してはなるまい。その死を讃美したりする動きのなかには、若者を利用しようとする「世間の大人」や「世俗の政治家」のずるさがほのみえる。そのようにずるい大人や政治家んこそ、樺さんはもっとも激しく憎んだにちがいないからである。」

その後夏休みになると、闘争に加わった学生たちは、安保反対運動の経過を地方の人たちに説明するための「帰郷運動」を行った。だが皮肉にも、安保反対闘争の熱は夏休みを境に急速に冷めていった。

 政治一色だった東大教養学部新聞も、反安保の運動の総括をするとともに、文化面にも力を入れることになった。その一弾として、当時京都の同志社大学教授だった矢内原伊作氏に原稿を依頼したのである。矢内原氏は1955年(昭和30年)から足掛け3年間、フランスの彫刻家アルベルト・ジャコメッティのためにポーズをし、その経験をもとに雑誌「みずゑ」の昭和3411月号から翌年1月号にかけて、「ジャコメッティ論」を連載していた。その体験をあらためて書いてもらおうとしたのである。

一度は承諾していただいたが、原稿の締め切り直前になって、どうしても書けないと断りの葉書が舞い込んだ。文化欄を空けたまま新聞を出すわけには行かない。それを埋めるのは編集長の役目だということになり、2日で書き上げたのが私の梶井論である。最後は新橋にあった印刷所の片隅で書いたことを覚えている。このように、私が梶井基次郎について書くことになったのは、まったくの偶然からだった。

この時に書いた「梶井文学の「今日」的問題~特徴的な意識の転位」は、次回のブログに掲載するが、いま読み返してみると、若書きの気負ったものだが、私の梶井理解の枠組みは、「のんきな患者」の評価を別にすれば、ここに提示されていることが分かる。

 梶井の文学を考える上で、私がもっとも影響を受けたのは、昭和34年(1959年)に発表された安東次男氏の「幻視者の文学」であった。安東氏は梶井の本質を、「物質に不可侵性を無視する」という言葉をキーワードに、ボードレール以降の文学に連なる幻視者(ヴィジオネール)と捉えるものであった。

当時、ステファヌ・マラルメについての論文を準備し、そのかたわらウルグアイ生まれの詩人シュペルヴィエールの詩やコントを愛読していた私にとって、わが意を得た思いであった。

 安東次男氏に直接お目にかかったのは、本郷に進んだ昭和364月中旬だったと記憶する。この年の「5月祭」にフランス文学科の有志と講演会を企画して、講師を引き受けてもらうべく世田谷のお宅を訪問した。安東氏は私たちの申し出を承諾してくれ、その後話は梶井のことになった。

私が「幻視者の文学」に感銘を受けたこと、その影響のもとに小論を書いたことを伝え、安東氏の本格的な梶井基次郎論を読みたいと云うと、「一度書いたものを再度取り上げるのは難しいものだ、それほど関心があるなら、君が書いてはどうか」と勧められた。だがそれはなかなか果たせなかった。

 「『青空』の青春」を雑誌「文芸広場」に書き始めたのは、1984(昭和59年)4月号からである。連載は1990年(平成2年)12月号まで82回におよんだ。毎回、400字詰め原稿用紙30枚ほどを毎月かかさず書いた。この間2度目のパリ特派員の勤務があり、198911月にはベルリンの壁が崩壊して、ヨーロッパの大変動が起ったが、このときもベルリンで歴史的転換を取材しつつ、夜はホテルで梶井論を書いてFAXで東京の出版社に送りとどけた。だがこれだけの時間をかけても最後まで書ききることはできなかった。「文芸広場」の連載の最後をこんな言葉で結んでいる。

 「69ヶ月に及んだ連載を一度これで中断することにする。雑誌の紙面縮小による編集部からの要請である。これまでに400字詰めで2000枚をこえたが、梶井の文学生活はまだ終っていない。機会を改めて、この後も梶井を追い続けていく積りである。

 梶井は昭和35月に上京し、飯倉片町の堀口方に落ち着くと、ふたたび創作の筆をとる。昭和7年、32歳の生涯を終えるまで、あと4年の歳月が残されている。」

 「文芸広場」への連載は、梶井が14ヶ月続いた湯ヶ島滞在を切り上げるところで終った。そしてその後この連載の前半部分を切り詰めたものを、「梶井基次郎の青春 『檸檬』の時代」と題して、1995年(平成7年)に丸善出版から上梓し、続いて第2部を出版すべく原稿を丸善出版部に渡していたが、編集者が亡くなったこともあって、出版は実現しなかった。

 一度中断した執筆を再開するのは容易ではなかった。そして私の方にも環境の変化があった。1996年(平成8年)2月にはNHKを退職して、京都大学文学研究科に教授として赴任し、6年間京都に住んだ。

京都で借りた最初の家は北白川西町の京大農学部のそばで、梶井が「檸檬」の草稿である「瀬山の話」を書いた下宿、澤田三五郎宅とは目と鼻の先にあった。早速訪ねてみると、梶井が居た当時の下宿は取り壊されて、学生相手のマンションに変わっていたが、玄関の脇には、「檸檬」を記念するようにレモンの若木が植えられていた。

 梶井がレモンを買った八百卯、丸善、鎰屋、丸山公園下のカフェ「レーヴェン」などはみな姿を消したが、彼が雪のなかを若王子まであるいた疎水の道や、古本を買った寺町の尚文堂は代替わりこそしたものの同じ場所で店を開いていた。

 梶井基次郎の続きを書きはじめたのは、2009 (平成21)3月、その後に転じた放送大学も退いて、しばらくフランスに滞在していたときである。後半の第4部、第5部をおよそ2ヶ月で書き終えることができた。

閣筆は628日。「文芸広場」への連載開始から数えれば、25年目のことである。これは『評伝 梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』として、20108月に左右社から刊行することができた。


なお、1960年の闘争の経緯については、東大教養学部新聞会の仲間だった故小塚直正氏が編纂したCD-ROM『Once upon a Time, Memories of 1960』が詳しい。内容は、0「目次」、1「1960年6月の新聞雑誌」、2「安保闘争それぞれの現場」、3「全学連ブントの証言」、4「安保世代20年後の人生」、5「1960年の学生社会世相」、6「いわゆる文化人たちの安保」、7「訣別」、8「全学連反主流派の60年安保」、9「1960年代の芸術」と豊富で、資料としてはなはだ貴重である。

上に引用した「東大教養学部新聞」1960年6月20日号も全4面が収録されている。


by monsieurk | 2019-08-13 15:03 |

『石坂洋次郎[若い人」を読む』の批評の再録

以下は拙著、『石坂洋次郎「若い人」をよむ 妖しの娘・江波恵子 』への書評の再録です。

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柏倉康夫『石坂洋次郎「若い人」をよむ 妖しの娘・江波恵子』(吉田書店、二〇一二年七月六日)読了。面白かった。柏倉先生、近年じつに精力的に著作を刊行されているが、そのいずれもが厖大な情報量をはらみつつ非常にスマートに整理されている。とくに本書は構成そのものがユニークで、しかも綿密に計算されており、小説と評伝がないまぜないなったような、これまであまり読んだことのないような読後感であった。

基本線は石坂洋次郎の代表作のひとつである『若い人』(『三田文学』連載の後、初版は正続二冊ともに改造社一九三七年、訂正版が一九三九年、新日本文学全集版が一九四一年)を梗概(あらすじ)として描き直すことである。主人公間崎・江波・橋本の三角関係を軸に、とくにヒロインである美少女江波恵子の行動と性格分析に力を注ぎながら、じつに見事に再構築されている。

柏倉氏は『若い人』を十五歳のときに読んで感激し、高校時代にスタンダールの『赤と黒』をクラシック・ラルッス(フランスの学生用に、原作の抜粋に多くの注釈をほどこしたもの)で読み、さらに大学生になって原文で全編を読んだ、それが氏の読書の喜びの原点になっている。そして本書の著述の原動力でもある。

私事ながらパリの宿の本棚に『赤と黒』のペーパーバックが挿してあったのでふと手に取って読み出してみたら素晴らしく読みやすい名文だったことにびっくりした(日本語では大昔に読んでいたものの、これほどとは思わなかった)。といっても途中で帰国してしまったので中断してそのままになっているのだが…いずれ続きを読みにパリに戻ろう。

《かつてあれほどもてはやされた石坂洋次郎の本が、いつのまにか書店の棚から姿を消してしまった。初期の短篇集『わが日わが夢』や、『若い人』、『麦死なず』、そして故郷の津軽を舞台に、戦後の風俗を活写した連作『石中先生行状記』を読むには、古本を探さなければならない現状は、まことに残念なことである。この一冊が、『赤と黒』のクラシック・ラルッスの抜粋本のように、原作をまだ読んだことのない若い読者や、かつて『若い人』を読んだ世代の人たちが、作品を手にとるきっかけになれば望外の喜びである。》(あとがき)

あらすじを読んでいて、やはり昔一度は読んだことのある作品だと思い出した。江波という女生徒の「境界例」と本書では診断されている複雑な行動パターンをハラハラしながら読んだような気がする。このあたり石坂洋次郎の真骨頂というのか、話の運びの上手さを感じさせる。ちなみに『石中先生行状記』は宮田重雄の装幀なのでたぶん今も持っている、ただし郷里の書庫。『若い人』初版は鈴木信太郎装幀、今もかつても所持せず。

石坂は同じく弘前市生まれの葛西善蔵に私淑していた。大正十四年に郷里で教職に就いた石坂を頼って葛西が弘前へやってくる。その作家としての破天荒な生き方を真正面から受け止めて、石坂は深くひきつけられながらも辟易しつつ自らの道を探すことになる。『金魚』という作品に葛西との葛藤の周辺を描いているが、柏倉氏は葛西という存在に江波恵子のオリジンを見るのである。

《では江波恵子はどうか。『金魚』には彼女の前身は見当たらないようにも思えるが、頽廃的な滅びの精神を生きる作家野村[葛西善蔵がモデル]こそが、それに当たるとも考えられる。事実、坂口[石坂自身がモデル]はこうした野村を、「恋人のような恍惚とした眼差しで見守る」(同書、一三八頁)のである。》([ ]内は引用者註)

これは鋭い指摘ではないか。そして葛西を反面鏡として自らの道を見いだした石坂の方法論とは次のようなものであった。

《出来るだけ一般の人々を喜ばせる小説を書きたいといふことだ。鋭いのはいけない、強いのはいけない、難しいのはいけない、だが卑俗なのもいけない。では何を書くんだ? まあともかく何かさう云つたものを」(『雑草園』中央公論社、昭和十四年、一一〜一二頁)》

この自問自答は昭和十四年という時期を考えるといかにも本質的なものだったろう。破滅型の私小説から出発した石坂が、横光利一の純粋小説論が話題を呼び、プロレタリア文学と探偵小説という二大エンタテインメントの嵐が吹き荒れた季節を経て、ここへたどり着いた。むろん石坂だけの問題ではないだろうが。

獅子文六の再評価さえも叫ばれている(かどうか知らないが、最近『日本古書通信』に獅子研究の連載があったのは確か)今日、石坂洋次郎が文庫で読めないというのは、あまりにも寂しくはないだろうか。藤澤清造でさえ読めるのだから! まずは本書をひもといて石坂洋次郎の真価がいかなるものか実感していただきたいものである。

by monsieurk | 2019-07-12 15:34 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅷ

 立ちどまらなければならないとすればこの均衡だ。それは奇妙な一瞬で、そこでは霊性が道徳を拒否し、幸福が希望の不在から生まれ、精神が肉体のなかにその理由を見いだす瞬間だ。あらゆる真実はその裡に苦さを湛えているというのが本当なら、あらゆる否定には《肯定(Oui)》の開花が含まれているのも本当である。そして、観想から生まれるこの希望のない愛の歌は、行動のもっとも効果的な軌範を示すこともできる。ピエロ・デラ・フランチェスカが描いた墓から出て甦るキリストは、人間の眼差しをしていない。その顔には幸福なものは何も描かれていない――わずかに魂のない猛々しい偉大さがあるだけで、私にはそれが生きる決意と取れて仕方がない。賢者は愚者と同様、わずかしか表現しないからだ。私はこの甦りに感動する。
 だが私は、この教訓をイタリアに負っているか。それとも自分の心から引き出したのか。それが私の前に現れたのは、疑いもなくあそこでだった。イタリアは他の特権的な場所と同様に美の光景を提供してくれるが、そこでも人間はいずれ死ぬ。ここでも真実は朽ちていかねばならない。そしてこのことほど刺激的なことがあるだろうか。たとい私が望んだところで、朽ちなくてはならない真実から、私に一体なにが出来るというのか。そうした真実は私の力をこえている。そんな真実を愛するのは見せかけにすぎないだろう。一人の人間が、彼の生をつくってきたものを捨て去るのは、決して絶望からではないことを理解する人は稀だ。軽率な行動や絶望は別の生に導くだけで、大地の教えを前に、震えるような執着を示すばかりだ。だが明晰さがある段階に達すると、人間は心が閉ざされたように感じ、反抗も権利の要求もなくなり、これまで自分の生だと思ってきたものに背をむける。私はこうした人の動揺のことを言いたいのだ。たといランボーが、アビシニアでただの一行も書かずに生を終えたとしても、それは冒険が好きだったからでも、作家であることを断念したからでもない。それは《そんなものだから》であり、意識の先端では、私たちはみな天性から理解しないように努めていることを、最後には認めるのだ。明らかにここでは、ある砂漠の地理学の企てが関わっている。だがこの奇妙な砂漠は、決して自分の渇きをごまかさずに、そこで生きることの出来る人びとにしか感じることができない。そしてそのとき、そのときだけ、人びとは幸福の泉で癒されるのだ。
 ボボリの庭で、私の手が届くところに、黄金色をした大きな柿がなっていて、そのはじけた果肉は濃厚な果汁をしたたらせていた。あのうっすらと見える丘から果汁の豊かなこの果物へ、そして私を世界と一つにする密かな友愛から、手の上にあるオレンジの果肉へと私を追い立てる空腹へと揺れ動く均衡に、私は捉えられていた。この均衡がある種の人間を、禁欲から享楽へ、一切の放棄から官能の乱費へと導く。人間を世界に結びつけるこの絆を、私の心が加わることで幸福の明確な限界を指示するこの二重の反映を、私は讃美したし、いまも讃美している。世界はこの限界で、幸福を完成するかもしれず、あるいは破壊してしまうかもしれない。私の反抗する心に、ある同意が眠っているのを理解したヨーロッパのわずかな場所のひとつ、フィレンツェ! 涙と太陽が混じったその空のなかで、私は大地に同意し、その祝祭の暗い焔のなかで身を焦がす術を知ったのだった。私は悟った・・・・だがどんな言葉を? どんな常軌を逸した態度を? 一体どうやって、愛と反抗の一致を確立するのか? 大地! 神々に捨てられたこの大いなる神殿のなかで、私のあらゆる偶像はみな同じ土の足をしている。(完)
by monsieurk | 2017-08-16 22:30 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅶ

 だが立ち止まるべきはここではない。なぜなら、幸福はどうあってもオプティミズムと不可分だとは言われていなかったからだ。それは愛と結びついている――これは同じものではない。そして幸福があまりに苦く見えることがあるために、幸福よりもその約束の方が好まれる時間と場所があるのを、私は知っている。だがそれは、こうした時間や場所で、私が愛すための心、つまり諦めない心を十分に持っていなかったせいだ。ここで言わなくてはならないのは、大地と美の祭典への人間の入場のことだ。なぜならこのとき、入信者がその最後のヴェールを取り去るように、人間は彼らの神の前で、自分の人格という小銭を捨ててしまう。そう、そこには、幸福が取るに足りないものに見える、もっと高次の幸福がある。フィレンツェでは、ボボリの庭園の一番高いところにあるテラスまで登った。そこからは、モンテ・オリヴェトや、地平線に達する街の高みが見渡せた。それらの丘の一つ一つでは、オリーヴの樹が青白く、小さな煙のように見え、糸杉のさらに固い若芽が、近いものは緑に、遠いものは黒く、オリーヴの樹の薄靄のなかに浮き出ていた。深い真っ青な空には、ところどころ刷毛で描いたような大きな雲が浮かんでいた。午後の終わりとともに、一筋の銀色の光が落ちてきて、すべてが沈黙してしまった。丘の頂は、最初は雲のなかだった。だが微風が起り、私はその息吹を顔の感じた。それとともに、丘の背後では、カーテンが左右に開かれるように、雲が二つに分かれていった。同時に、頂上の糸杉が、突然のぞいた青空のなかで、一挙にぐんと伸びたように見えた。それらとともに、すべての丘と、オリーヴと石の風景がゆっくりと立ち上がった。また別の雲がやってきた。丘は、糸杉と家々とともに再び下がった。するとまた―― 遠くの、次第に消えていく別の丘の上で――ここでは雲の厚い襞を押しひろげる同じ微風が、彼方ではそれを閉ざしていった。世界のこの大きな呼吸のなかで、同じ息吹きが数秒の間隔で起り、世界の音階に合わせた石と空気のフーガのテーマを、間を置いてくり返していた。その度ごとに、テーマは調子を落としていった。私はそれを少し遠くまで追えば追うほど、少しずつ鎮まっていった。そして心に感得されるこの展望の終りに至って、揃って呼吸をしていた丘がすべて逃れ去り、それとともに、私は一目で、大地全体の歌のようなものを抱きしめたのだった。
 何百万という目がこの景色を眺めたことを、私は知っていた。それは私にとっては、大空の最初の微笑のようだった。それは言葉のもっとも深い意味で、私を自分の外に連れ出したのだった。それは、私の愛と石の美しい叫びがなければ、すべては虚しいと確信させてくれた。世界は美しい。それ無くしては、何の救いもない。それが辛抱強く私に教えてくれた偉大な真実とは、精神など何ものでもなく、心もまたそうだということだった。そして、太陽に熱せられた石や開けた空のせいで伸びたように見える糸杉こそが、《正しい》ということが意味をもつ、唯一の宇宙を画するということを教えてくれた。つまりそれは、人間のいない自然である。この世界は私を無にする。それは徹底的になされる。それは怒りもなく私を否定する。フィレンツェの野に落ちる夕暮のなかで、私は一つの叡智への途をたどって行った。目に涙は浮かばず、私を満たしてくれた詩の激しい嗚咽が、世界の真実を私に忘れさせなかったにせよ、すでに一切が征服されてしまっていたのだった。(続)
by monsieurk | 2017-08-13 22:30 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅵ

 話しを先へ進めようか? フィエゾールでは、赤い花々を前に生きる人たちが、僧坊には、瞑想を培う頭蓋骨を置いている。彼らの窓にはフィレンツェが広がり、机の上には死が乗っている。絶望のなかのある種の持続は、喜びを生むことがある。さらにある気候のもとで生きるとき、魂と血は混じりあい、信仰の場合と同じように、義務に無関心で、矛盾の上に易々として生きことがある。だから、ピサの壁の上に、《アルベルトはぼくの妹と恋をしている(Alberto fa l'amor con la mia sorella)》と陽気な手で書かれ、そこに名誉の奇抜な観念が要約されていても、イタリアが近親相姦の地であり、少なくとも、この方がずっと意味はあ深いのだが、近親相姦を告白する地であっても、私は少しも驚かない。なぜなら美から背徳へ至る途は、曲がりくねってはいても、確実な途だからだ。美に沈潜した知性は虚無を糧としている。その偉大さが喉をしめつけるような風景を前にした観念は、その一つ一つが人間の上に引かれた抹消を示す線だ。そして人間はやがて否定され、覆われ、覆いつくされ、圧倒的な確信によって次第にぼやけて行き、世界を前にしても、その色も、太陽も、真実を受動的にしか知ることができない、形のない染み以外のなにものでもなくなる。真に純粋な風景は、魂には無味乾燥で、その美は堪えがたい。石と空と水からなるこの福音書では、甦るものは何もないと告げられている。以来、心のなかにある素晴らしい沙漠で、この国の人たちへの誘惑がはじまる。高貴な光景を前にして育った精神の持主たちが、美によって希薄になった大気のなかでは、偉大さが善に結びつくことがあることを納得しないとしても、なんで驚くことがあろうか。知性を完成する神をもたぬ知性は、知性を否定するもののなかに一つの神を求める。ボルジアはヴァチカンに着くや、こう叫んだ。《神がわれわれに教皇の位を委ねたいま、それを満喫しなくてはならない》。そして彼は言った通りにしたのだ。急ぐことだ、とはよく言ったものだ。そして人びとはそこに、満ち足りた人間に固有の絶望をすでに感じている。
 私はおそらく間違っている。なぜなら、フィレンツェでは、私も私以前にやってきた多くの人たちも、結局は幸福だったのだ。だが、幸福とは、もしそれが一人の存在と彼が営む実生活と間の単純な一致でないとしたら、一体なんだろう? それに、持続への望みと死の宿命を二重に意識することでなければ、人間を生に結びつけるどんな正当な一致があるだろうか? 少なくとも人は何も当てにせず、現在を、私たちに《おまけ》として唯一与えられた真実として考えることを、そこから学ぶだろう。私は人びとがこう言うのを耳にする。イタリア、地中海、古代の国々では、すべてが人間の尺度に適っていると。では人びとはどこで、如何にしてその途を私に示してくれるのか。私の尺度と私の満足とを探すために、目を見開いたままにさせてほしい。というよりも、そう、私は、フィエゾール、ジェミラ、太陽に輝く港を見る。人間の尺度? 沈黙と死んだ石。その他の残りはすべて歴史に属する。(続)
by monsieurk | 2017-08-10 22:30 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅴ

 だが、私が言いたかったのはそれではない。私は、自分の反抗の中心に感じていたひとつの真実を、もう少し近くから点検してみたかったのだ。私の反抗はそうした真実の延長にすぎなかった。その真実とは、サンタ・マリア・ノヴェルラの教会の遅咲きの薔薇から、軽やかな服を着て、胸をひろげ、唇の濡れた、あのフィレンツェの日曜の朝の女たちへと赴く真実だ。その日曜日はどの教会の片隅でも、豊かな、眩い、水で真珠のように光った花が棚に飾られていた。そのとき私は、そこにご褒美と同時に一種の《素朴さ》を見出した。女たちと同様、これらの花には、気前のいい豪奢さがあった。そして私には、誰かを欲するのは、他の人を渇望することと、さして違うとは思えなかった。そこでは純な心があれば十分だった。ある男が自分の純な心を感じるのはそれほどあるものではない。しかし少なくとも、この瞬間、彼がしなくてはならないのは、自分をこれほどまで純粋にしたものを真実と呼ぶことだ。たといこの真実が他人には冒瀆と思えようと、私がその日考えていたのが、まさにその場合だった。私は月桂樹の匂いにみちたフィエゾールのフランチェスコ派の修道院で朝をすごした。赤い花、太陽、黄色と黒の蜜蜂で一杯の小さな中庭に、長いこと留っていた。一隅には緑色の如露があった。そこに来る前私は僧房を訪ねて、髑髏が取りつけられた僧たちの小さな机を見た。そしてこの庭は、彼らの霊感を証しだてていた。私は丘づたいにフィレンツェへ戻った。丘は糸杉と一緒に見える街の方へと降っていた。世界の素晴らしさ、女たち、これらの花々、私にはそれらが人間を正当化するもののように思えた。この素晴らしさは、極端な貧困が常に世界の豪奢や冨と結びつくことを知っている人間たちの素晴らしさであるかどうか、私は確信が持てずにいた。柱廊と花々の間に閉じ込められたフランシスコ派の僧たちの生と、一年中を太陽に当たってすごす、アルジェのパドヴァニ海岸の若者たちの生に、私はある共通の響きを感じていた。もし彼らが裸になる(se dépouiller)としたら、それはよりも偉大な生のためだ(それは別の生き方のためではない)。少なくとも、それが《無一物になる(dénouement)》という言葉の、ただひとつ価値のある使い方なのだ。裸でいることには、常に肉体の自由という意味がある。そして手と花々との一致 ―― 大地と、人間的なものから解き放たれた人間の愛おしい協調 ―― ああ! もしこの協調が、すでにして私の宗教でなかったら、私は必ずそれに改宗しただろう。こんなことを言っても、冒瀆にはならないだろう。―― それに、もし私がジオットの聖フランソワの内面的な微笑が、幸福の味を知る人たちを正当化すると言ったとしても、冒瀆したことにはなるまい。なぜなら、神話と宗教の関係は、詩と真実の関係と同じで、生きる情熱に被せられる奇妙な仮面なのだから。(続)
by monsieurk | 2017-08-07 22:30 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅳ

 もっとも忌まわしい唯物主義は、一般に考えられているものではない。それは死んだ観念を生きた現実と見なし、私たちの裡で永久に死すべきものに向ける執拗で明晰な注意を、不毛の神話の上で逸らそうとするものだ。思い出すが、フィレンツェのサンチシマ・アヌンツィアータの死者たちを祭った教会の中庭で、何かに心を奪われたことがあった。それは悲哀と思われたが、実は怒りだった。雨が降っていた。私は墓石や奉納物の上の碑銘を読んだ。それらは優しい父や、忠実な夫のものだった。あるいは最良の夫で、同時に抜け目のない商人だった。あらゆる美徳の鑑であった若い女性は、《まるで生まれた国の言葉のように( si come il nativo)》フランス語を話し、彼女は一家の希望だった。《しかし喜びは地上の束の間のものだ (ma la gioia e pellegrina sulla terra)》。ただこうしたものは、まったく私を動揺させなかった。碑銘によると、ほとんどすべての人が死を甘受していた。それは彼らが別の義務を受け入れていたから、きっとそうなのだ。今日では、子どもたちが中庭に入り込み、死者の美徳を永遠たらしめようとする墓石の上で、馬跳びをして遊んでいた。そのとき夜の帳が降りてきた。私は背を柱にもたせかけ、地面に腰を下ろしていた。さっき一人の僧が通りかかり、私に微笑みかけた。教会のなかでは、オルガンが幽かに奏でられ、その旋律の熱っぽい色彩が、ときどき子どもたちの叫び声の背後で聞こえた。たった一人、柱を背にしている私は、喉をしめつけられ、最後の言葉として信仰を叫ぶ者のようだった。私のすべてが、こうした忍従のようなものに抗議していた。《しなければならぬ》と碑銘は告げていた。しかしそうではない。私の反抗こそ正しかったのだ。地上の巡礼のように、無心で、没入するこの喜び。私はそのあとを一歩一歩ついていかなくてはならなかった。その他のことには、私はノンと言った。全力でノンと言った。碑銘は虚しく、人生は《昇る陽もあれば沈む陽もある》と私に教えてくれていた。だが今日では、その虚しさが私の反抗から何を奪っているのかは分からず、むしろ反抗の意義が加わるのを強く感じる。(続)
by monsieurk | 2017-08-04 22:30 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅲ

 そう、人びとによって明らかにされた教訓を、イタリアは風景によっても惜しみなくあたえる。しかし幸福が欠けることはよくある。なぜなら、それは常に不当なものだからだ。イタリアに関しても同じだ。その恵みは、たとえ唐突であっても、常に直接的とは限らない。他のどの国よりも、イタリアは一つの経験を深めるように誘う。とはいえ、それは最初にすべてを委ねているように見える。それというのもイタリアは、第一に、詩をふんだんに撒き散らし、その真実を一層うまく隠してしまう。その最初の妖術は忘却の儀礼だ。すなわち、モナコの夾竹桃、花と魚の臭いで一杯のジェノワ、リギュリア沿岸の青い空。それにピサ。ピサとともにリヴィエラの、いささか下品な魅力を失くしたイタリア。それでもイタリアは相変わらず気さくだし、どうしてその官能的な魅力に身を委ねずにいられよう。ここにいる間、私は何にも強制されず(私は割引切符のせいで、《自分が選んだ》街にしばらく留まらなくてはならず、追い立てられる旅行者の喜びを奪われている)、最初の夜は、愛することと理解することの忍耐が、際限のないように思えた。私はその夜、疲れと空腹をかかえてピサの街に入った。駅前の大通りで私を迎えたのは、群衆に向けて、歌謡曲を雷鳴のように吐き出している十数のスピーカーだった。群衆のほとんどが若者だった。私にはこのときすでに、自分が何を期待しているかが分かっていた。この生の躍動のあとにあるのは、いつもの奇妙な瞬間だろう。店仕舞いしたカフェ、突然また戻ってきた静寂。私はそのなかを、暗い小路を通って街の中心に向かうのだ。黒や金色に光るアルノ河、黄色や緑色の遺跡、人気のない街。夜十時のピサは、沈黙と水と石の不思議な書割に変わる。突然で巧妙なこのからくりを、どう描写すればよいだろう。《それは同じような夜だよ、ジェシカ!》。このユニークな丘の上に、いまこそ神々が、シェイクスピアの恋人たちの声とともに姿をあらわす・・・夢が私たちに相応しいときは、夢に身を委ねることを知る必要がある。人びとがここへ探しにくるものより、もっと内面の奥にある歌。その最初の和音を、私はすでにイタリアの夜の底に感じていた。明日、明日にさえなれば、朝には野が丸く円を描くことだろう。だが今宵は、私はここで、神々のなかの神であり、「恋に運ばれる足どりで」逃れ行くジェシカの前で、自分の声をロレンツォの声と混じり合わせる。だがジェシカは口実でしかない。この恋の躍動は彼女を超える。そう、私が思うに、ロレンツォは、愛すことを許されるのに感謝するほどには、彼女を愛していない。でもなぜ今宵はヴェニスの恋人たちを思い、ヴェローナを忘れているのだろう? それは、ここでは不幸な恋人たちを慈しむように促すものが、何もないからだ。恋のために死ぬほど虚しいことはない。必要なのは生きること。生けるロレンツォは、たとい薔薇に囲まれていようと、地下に埋葬されたロメオよりもずっとましだ。だとすれば、生きているこの愛の祭りで踊らずにいられようか ―― 私はその日の午後、いつだって訪ねられるピアッツア・デル・ドゥオの丈の低い草の上で眠って過ごした。水は少し温いが、絶えず流れている街の泉で喉を潤し、鼻が高く、口元は高慢だが、笑っている女の顔を振り返って見る。こうした秘儀が、より高次な啓示を準備しているのを理解するだけでいい。それはディオニソスの秘儀をエレウシスにもたらす輝かしい行列だ。人間が教訓を準備するのは喜びのなかでだし、陶酔が頂点に達したとき、肉は意識を持ち、黒い血と、その象徴である聖なる神秘との交わりが成立する。この最初のイタリアの情熱のなかで汲み取られる自我の忘却こそが、私たちを希望から解放し、私たちを歴史から奪い去る教訓を準備する。美の光景を前にした肉体と瞬間との二重の真実、待ち望まれた唯一の幸福にしがみつくように、それに執着ぜずにいられよう。その幸福は私たちを恍惚とさせ、同時に滅び去らなくてはならない。(続)
by monsieurk | 2017-08-01 22:30 |

アルベール・カミュ「砂漠」Ⅱ

 魂の不滅性、それが分別ある多くの人びとの精神を占めているのは事実である。だがそれは、彼らがその樹液を使い果たしてしまう前に、彼らにあたえられた唯一の真実、つまり肉体を拒否してしまう。なぜなら肉体は、彼らに問題を課したりはしない。少なくとも、彼らは肉体が提案する唯一の解決策を知っているからだ。真実は必ず朽ち果てるものだし、だから真実は、彼らがあえて正視しようとしない、ほろ苦さと気高さをまとっている。分別のある精神は、肉体よりも詩を好む。なぜなら詩は魂の事柄だからだ。人びとは、私が言葉遊びをしていると感じるかもしれない。しかし人びとは、私が、真実から、詩をもっと高度なものにしようと努めているだけだということを理解してくれるだろう。その詩とは、チマブエからフランチェスカにいたるイタリアの画家たちが、トスカナの風景のなかで培ったあの黒い焔であり、それはちょうど、大地に投げだされた人間の明晰な抗議のようなものだ。そしてこの大地の繁栄と光は、絶えず、存在しないひとつの神ついて人間に語る。
 無感心と無感覚のおかげで、一つの顔が一つの風景の無機質の偉大さに合致することがある。スペインの一部の農民たちが、彼らの土地のオリーブの木に似てくることがあるように、ジオットの描く顔は、魂が己れ自身をあらわしている滑稽な影を奪われて、終いには、トスカナ色が溢れているその唯一の教訓のなかで、トスカナ自体に合致してしまう。その教訓とは、情緒を犠牲にした情熱の遂行、禁欲と享楽の混合、大地と人間への共通の反響であって、それによって人間は、大地と同じように、悲惨と愛の途中で自分を定義する。それで心が安堵するような真実などありはしない。そして私は、次のことが確かなのを知っている。それはある夕暮のことだったが、そのとき影が、沈黙の大きな悲しみが、フィレンツェの原野のブドウやオリーヴの樹木を浸しはじめていた。だがこの地方の悲しみは、美の注釈以上のものではない。そして私は、夕暮をぬって走る汽車のなかで、自分のなかで何かがほどけるのを感じた。今日でも、こうした悲しみの顔を思い浮かべて、なお、それが幸福と呼ばれるのを、私は疑うことができるだろうか。(続)
by monsieurk | 2017-07-29 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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