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カテゴリ:美術( 57 )

木村荘八と牛肉屋「いろは」⑤

「いろは」開業


木村荘平が川路利良の召しだしをうけて上京したのは、牛肉の消費が急に高まったときである。一度神戸にもどった彼はこうした牛肉事情を調べた上で再度上京しようとした。ところがここで予期しない事件がおこった。五月十四日、参議兼内務卿の大久保利通が、出勤途上の紀尾井町で、石川県士族島田一郎たち六名に刺殺されたのである。彼ら実行犯は新聞社に「斬奸状」を送って、暗殺の理由と今後も除くべき人物の名前をあげていて、そこには大久保の腹心である川路に名前もふくまれていた。事件の背景には、前年の明治十年、維新の大功労者西郷隆盛をしりぞけて新政府の権力をにぎった大久保たちに厳しい世論の力もはたらいていた。

この変事にもかかわらず、荘平は翌六月予定通り上京して川路に面会すると、公営の屠殺場の払い下げをはたらきかけた。中川屋嘉兵衛がはじめて私設の処理場を設けたときに周辺住民の反対をうけたことは先にのべた通りだが、その後も食肉の流行とともに全国各地で同じような騒動が頻発していた。

そのうちに病死した牛を売る不心得者まで出現して、警視庁は取締にのりだし、明治十年五月には民営の処理場を廃止する命令をだした。その結果、東京府下の処理場は警視庁直轄の千住の一カ所になった。しかし官営の処理場はしょせん武士の商法でうまくいかず、責任者の川路はこの運営を木村荘平ほか二名に払い下げることにしたのである。明治十二年四月のことで、総額は一万七千円あまり、支払いは三年年の月賦という好条件であった。

当然ながら関係者からは猛烈な反対の声があがった。政府はそれまでの民営の処理場を閉鎖して官営とし、その上で今度は既得権を無視してどこの誰とも知れぬ木村某にそれを払い下げるというのは癒着以外のなにものでもないというのである。当然の声であった。

困った政府は一度は官制に限るとした処理場を、私営のものも認めるとした。この変更をうけて、多くのものがこの分野に手をあげることになった。それほど維新後の肉食熱は高まっていたのである。

荘平のライヴァルには、鹿児島から上京して銀座で煙草店「天狗煙草」をかまえて大当たりした岩谷松平や(彼については永井龍男『煙よけむり』に詳しい)、近江出身で米問屋「米久」を開いていた竹中久治などがいた。彼らも時流を見抜いて東京に出てきて処理場を営むとともに、やがて「牛鍋屋」を開くことになる。

木村荘平は彼らとの激しい競争のなかで着々と手を打った。政府は明治十年九月に、三田四国町(現在の慶応義塾の前にあたる)に育種場をもうけ、西洋野菜の栽培をおこなうととみ、牛、馬、羊、豚を飼育して、種つけも行っていた。文明開化の世にふさわしい食物の生産に役立てようとしたのである。

これに目をつけた荘平は、またも川路の線から働きかけてもらい、勧農局(のちの農林省)の許可をえて、三田育種場の一部を借りうけて、そこを動物市場とするとともに、駿馬を育てる興農競馬会社を設立した。興農競馬会社の初代幹事長は陸軍の将官である野津道貫、二代目は西郷従道が就任したが、これはあくまで名誉職であった、実権は幹事長代理で会計長の木村荘平が握っていた。彼はここで春と秋の二回、大競馬を催して明治天皇も見物に臨席したほどであった。

三田四国町はかつて松平土佐守や松平阿波守など四国の大名の屋敷があったところだが、維新の戦乱のなかで焼打ちにあってからは、放っておかれたために草ぼうぼうの原っぱとなっていた。かつては町の北東部に薩摩の上屋敷もあったところから、土地の人たちが「薩摩っ原」と呼ぶ草ぼうぼうの場所であった。

政府はこの広大な場所を利用して動植物の育種場を設けたのだった。荘平は近くの空き家のまま残されていた大名屋敷を借りうけ、手をいれて自宅にしたうえで、商売の基点としたのである。彼はここに神戸から連れてきた内妻のマサと長女の栄子を住まわせ、さまざまな事業を起こすとともに、本業である牛鍋店「いろは」を開いた。牛を育て、野菜をつくり、それらを食する店をもったのは、上京後三年がたった明治十四年末のことである。

『木村荘平君伝』には、このころを回想したマサの談話が収録されている。

「妾が木村と結婚しましたのは二十八歳の時で、木村が当年六十六歳、妾が取て六十五歳に成りますから、丁度三十八年前でムいます。妾は元から、女でも自分が働く商売が好なものですから出亰すると直ぐ、三田四国町で小屋見たやうな、いろは牛肉店を出しました。それから第二、第三と仕合よく多くの支店を出すやうになりましたのです。」

荘平は処理場や競馬のほかにもさまざまな事業で忙しく、「いろは」の店の切り盛りはすべてマサに委ねかれていた。店で供するものを牛鍋一つにしぼったのもマサの才覚だった。なお荘平が伏見に残してきていた妻は明治三十年ころに亡くなり、それを機会にマサが正妻となったのだった。


将来の画家、木村荘八の誕生はこれからだが、続編はしばらく置いて書き継ぐことにする。


by monsieurk | 2019-07-31 20:40 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」④


文明開化


明治新政府は近代化にむけた新たな政策を矢つぎ早にうちだした。明治の文明開化を象徴するものとしては、断髪、牛肉、洋服があげられるが、明治二年(一八六九年)には横浜の洲干町(現在の中区弁天通り五丁目)に、最初の西洋風床屋「ふぢどこ」が出現した。はじめたのは小倉虎吉で、「横浜毎日新聞」に店の広告をだした。同じころに東京銀座にも散髪床が店開きをし、この年八月には政府から散髪自由の布告がだされて、県知事や官吏はその意を体して断髪を奨励し、翌明治三年三月二十日には明治天皇が頭髪を切り、皇后も鉄漿をとって眉墨を落とした。

洋服の流行も明治天皇のイニシアティヴで行われた。明治二年に、イギリスの皇太子エディンバラ公が来日することが決まると、天皇は明治三年春に、山城屋和助に洋服をつくるように命じた。山城屋はほかの六人の日本人と外国人のブランを相談して、舶来の黒ラシャで半マンデル型の三つ揃い一組と長マンデル型の洋服をつくった。

翌四年の夏、政府は官吏の制服についての会議を宮中でひらいた。出席したのは西郷隆盛、三条実巳、岩倉具視、伊藤博文、大隈重信など藩閥政府の重鎮のもかに、宮中の役人や神祇官も出席して、会議は様相派と烏帽子直垂派にわかれて大議論になった。しかし、「朕、今、断然その服制を改め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す。汝、近臣、それ朕が意を体せよ」という一言で洋服ときまった。明治六年に海外から輸入したラシャは、百二十二万三千円あまり、フランネル二十二万四千円余りと急増した。

明治五年三月十日からは、御茶ノ水の聖堂ではじめて博覧会が開催されて、名古屋城の金の鯱が出品されて人気を博した。八月二日には新たに学制が布かれた。小学校を上等、下等にわけて、男女は六歳から九歳が下等、十歳から十二歳を上等としたが、二十歳をすぎた者も入学するという風景が出現した。九月十二日、東京新橋と横浜の間の鉄道の開通式が行われ、出席した天皇は洋服ではなく衣冠束帯の姿ではじめて汽車にのった。当時は一日四往復で、運賃は一等が一円十二銭五厘だった。

そして十一月九日からは太陽暦が採用され、それまでの陰暦は廃止された。このために十二月三日が明治六年一月一日となったので、大晦日がこの年はなく、掛け金を取りそこなう心配する商人も多かった。

明治天皇の膳にはじめて牛肉が供されたのも明治五年一月二十四日である。大久保利通の進言によるものだった。これを機に政府は食肉を奨励することになった。四月には僧侶の肉食妻帯がゆるされることになり、このとき敦賀県がだした通達書には、牛肉の儀は人生の元気をまし、血力を強壮にする養生物であり、兎角、旧習をまもって、牛肉はけがれがあり、神前などをはばかるなどというのは、「却テ開花ノ妨碍ヲナス輩不堪哉ノ趣、右ハ固陋因習ノ弊ニミナラズ、方今ノ御注意ニ戻リ以ノ外ニ候」といましめている。

明治初年の東京府下の一日の屠牛は一頭半であったが、明治五年末には二十頭となった。これは一人半斤として五千人分に相当する量である。明治六年には、牛肉商規則という官令がだされ、翌年には、「肉食ノ開クルヤ、上ハ大臣ヲ始メ下民ノ吾々迄之ヲ嗜ムニ、就中牛肉ハ人ノ健康ヲ助ケ補益タルコト真ニ験アリト雖モ其肉ニ善悪アリテ、悪肉ヲ喰フトキハ大害立処ニ至ル、亦畏ルベキナリ。故ニ本年格別御世話在ヲセラレ府下六大区、結社ヲ設ケラレ、牛肉商人悉ク其社ニ入ラザルハナシ」という記事が新聞にでた。東京府下の牛肉店が結社をつくり、すべての店は県の許可の札をかかげて、品質を保証した牛肉を売ることにしたのである。


by monsieurk | 2019-07-28 15:15 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」③

食肉の風習


慶応が明治と変わって間もなく、荘平は親戚の娘と結婚したが子宝にめぐまれず、養子として荘次郎をむかえた。明治三年、伏見の青物問屋の店と住まいを荘次郎に譲ると、妻も残して一人神戸に行き、栄町で製茶貿易の店をひらいた。資本金は三十万円、大阪の豪商鴻池善右衛門などを共同出資者として、実質的には彼がすべてを取り仕切った。

 神戸港に汽船回漕問屋の丸正を開設したのもこのころである。『東洋実業家列伝』には、次のようなくだりがある。

「又同年(明治 年)県下の区戸長及び人民の請求に依り荷為替特約法を設け因伯沿海より大阪へ回米の便利を開く事に尽力して其功を奏せり」、「由来山陰の地は交通不便の国多く、就中鳥取県の如きは東西南の三面は山岳であつて、北方は日本海に面せる海浜砂漠で良港に乏しく、運荷は甚だ不便であるが、斯る偏僻の地に於て夙くも京阪との聯路を計りたる氏の労や多とすべきである。」

 こうした文章から浮かんでくるのは、世を見る目をそなえ、利にさとく、行動力にすぐれた商人の面目である。そうした木村荘平に、新政府の大警視(警察庁初代長官)となった川路利良から呼び出し状がとどいたのは、明治十一年三月のことである。川路と荘平は戊辰戦争のとき、かたや卒族大隊長として、他方は御用商人としてともに戦場をかけめぐった間柄だった。川路は準士分である与力の息子だったが、激動の幕末での活躍が認められて新政府の要人の一人となっていた。

 川路が木村を呼んだのは、当時流行しつつあった食肉を衛生的に普及させるために一肌脱いでほしいというもので、そこには伏見の戦いで世話になった荘平にむくいようという意図もこめられていた。この勧めに乗るとすれば、荘平はいま手がけている製茶の事業を手放さねばならず、商人として損得を計算しなければならない。考える時間が欲しいといってこのときは、いったん神戸に帰った。

 江戸時代にも各地に馬肉や野鳥の肉を食べさせる店はあったが、牛肉を食べさせる店は珍しかった。福沢諭吉の『福翁自伝』には、彼が大阪の緒方塾にいた安政のころ、大阪には二軒の牛鍋屋があり、塾生たちは平気で通って食べたが、そるときそのうち難波橋の牛鍋やの主人から豚の屠殺をたのまれ、それとひきかえに頭をもらって帰ってきたという話がでている。この頭は解剖的に脳だの眼だのを能く調べて、散々いぢくったあとを煮て食ったことがあると書かれている。

 文久二年の『横浜ばなし』には、異人屋敷についての記述についで、「外に、異人の食料牛屋二軒あり、毛物を商ふは異人なり、此処にて牛を屠り、皮を剝ぎ、大きなるかぎにてつるしておくなり」という記事がみえる。

もともと海の幸にめぐまれた日本では、仏教思想の影響で獣肉を食することを忌む習慣があり、食べるために牛や馬を育てる畜産は未発達であった。だが黒船とともにやってきた文明開化の風は、そうした食習慣をも一変させた。横浜や神戸が開港して、外国人の居留民が住みつくようになると、彼らのために牛肉を供する店ができた。慶応三年十二月に、横浜で出版された「万国新聞紙」第九集の広告欄には、「各国公使用弁の為め牛肉店高輪へ開候処、御薬用旁緒家様より御用被仰付 日に増し繁栄仕」とある。外国の公使のために開いた牛肉店で、江戸の諸大名も牛肉をもとめて、それを薬として食べていたことがわかる。

この広告を出したのは中川屋嘉兵衛で、最初は横浜の八十五番館から牛肉を仕入れて、それを江戸まで徒歩で運び、外国の公使館などに納めていた。しかし道中で肉が腐りはじめ悪臭をはなつ。いっそ江戸で屠った方が得策だと考えて荏原郡芝白金村の畑の物置を借りて私設の屠殺場をつくった。しかしすぐに村人が騒ぎだし、わずか二、三頭を屠っただけで場所を当時は無人の本芝海岸に移した。これが最初の屠殺場だとされる。

食肉をタブー視する風習は維新後には一変する。仮名垣魯文が明治四年に出した『牛店雑談安愚楽鍋』には、ちょんまげ姿の人物と、ざんぎり頭で洋服をきた男が牛鍋を前に酒を酌み交わす絵に、「ねえさん、鍋は飯のときとして、ソップの吸下地で、葱を細くそいで、鞍下の極といふところを、そぼろに刻んでヨ、ぱらぱらと入れて、二人前持って来な、そしてお酒はいゝのを二つ」という吹き出しがつけられている。鞍下とはロースのことで、スープで味付けした、牛肉と葱を鍋で煮てたべたのである。


by monsieurk | 2019-07-23 14:53 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」➁

荘八の父


木村荘八の父荘平に関する基本的文献としては、『木村荘平君伝』(明治四十一年)や『東洋実業家列伝』(明治二十六年)があるが、ともにいまでは稀覯本である。前者は荘平の三周忌供養として、報知新聞記者が編集したもので、国会図書館所蔵の本が電子化されて公開されている。これらを参考にしつつ、この「明治の怪物」の一人とされる荘平の生涯をたどってみる。

 荘平は天保十二年(一八四一年)七月、山城国(現在の京都府)伏見の農民の庄兵衛の長男として生まれた。先祖は宇治の田原で上林姓を名のる篤農家で、代々禁裏の百姓として皇室の御料地を耕すかたわら、宇治の名産である茶をつくる製茶師を兼ねていたという。庄兵衛は妻をめとったあと木村家に夫婦養子として入った。荘平はそこでの生まれたのだった。

 彼は幼い時から体格抜群で、十四歳のときには村相撲の横綱をはり、力士になることを夢見て、有名な小野川秀五郎の門をたたき、それから二年間は一門の力士たちとともに諸国を巡業してあるいた。そうした環境のなかで遊里にも足を踏み入れたのだった。だが二年後には母の哀願によって故郷に呼び戻された。その後、荘平は遊びをやめて、荷をかついで青物の行商をはじめ、やがて仲買の店を持つとともに、万延元年(一八六〇年)には製茶貿易を兼ねるようになった。

 この年はさまざま点で歴史を転換する画ときであった。二年前の安政五年六月、大老となった井伊直助は日米修好通商条約を受け入れることを決断、七月にはアメリカ艦上で調印した。これに対する反対する攘夷派の逮捕がしきりに行われた。いわゆる安政の大獄である。

 幕府は翌安政六年七月には神奈川に居留地をさだめ、これ以後海外との貿易が急速にすえることになった。ちなみに安政六年の輸出額は九万ドルだったのにたいして、万延元年には四十七万ドルに急増している。だがこうした激変にいきどおる攘夷派が少なくなく、万延元年の三月二十四日には、江戸城桜田門外で、大老井伊直助は水戸藩浪士たち十八人によって殺害された。こうした外国人を敵視する世論も少なくないなかで、茶の貿易を生業としようとすることは度胸がいったが、彼はこうした乱世を自分がのし上がるのに絶好の機会であると考えたのである。

 こうして茶の貿易を軌道にのせた荘平は、三年後の文久三年(一八六三年)には伏見の青物問屋二十三軒をまとめて組合をつくり、その取締役におされ、やがて京都にある各藩の屋敷に出入りする御用商人となり富をふやした。

 慶応四年(一八六八年)一月二十七日、鳥羽、伏見で幕府軍と鹿児島、長州連合軍とのあいだの戦闘をきっかけに戊辰戦争がおこった。伏見は荘平が商いをする地元だったが、彼はこの戦いの行方を勤王派が勝つと踏んで、薩摩軍のかけたのである。彼は軍の御用を引き受け、物資の調達にはしりまわった。これが荘平の後の運命をきめたのである。

 荘平は戦況を見きわめた上で、勤皇方が有利と判断した彼は、薩摩藩のための物資の調達にはしりまわった。兵力の上では幕府軍の方が優勢だったが、戦いは新式銃で武装した薩長軍の勝利におわり、一月三十一日には徳川慶喜にたいする追討令がだされた。慶喜は戦端が開かれるより前に咸臨丸で大阪を出帆、江戸にもどってしまっていた。二月十日、新政府は各国公使と兵庫で会見し、王政復古の国書を手渡し、外国と和親するむねを告げた。こうして徳川幕府の時代は終わり、新政府誕生が内外にむけて宣言された。

 明治維新はなったが新政府には金がなく、木村荘平が調達してきた物資への支払いもとどこおった。おかげで勝利に貢献した荘平の努力も報われずに終わったかにみえた。そんなとき、荘平は薩摩軍におさめた物品は、すべて戦勝を祝って、薩摩に寄付したことにすると申し出たのである。このいさぎよい行動は意気に感じやすい薩摩っぽの胸をうった。荘平は新政府の中核となった薩摩の人たちに恩を売った形となり、のちに明治政府のお声がかりで商売をする道をひらくことになる。


by monsieurk | 2019-07-18 08:58 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」

 二〇一三年はうつりゆく東京の姿を大正から昭和にかけて情趣豊かに写した画家、木村荘八の生誕百二十年にあたり、それを記念する回顧展が、新装なった東京駅の「ステーション・ギャラリー」で開かれた。赤レンガの色もよみがえった駅舎のなかにあるギャラリーは、近代化していく東京を見つめ、日々変化する風景や風俗を、ときには旧懐の情をこめて描きのこした生粋の東京っ子、木村荘八にふさわしい場所であった。

今回の油彩画、挿画の原画などおよそ百点が展示された。なでも永井荷風の『濹東奇譚』の有名な挿画の全原画(国立近代美術館藏)三十四点や『東京繁昌記』の挿画は初めて目にしたもので、墨、ペン、鉛筆、胡粉を巧みに使い分けていて、その一筆書きのような線の見事さに感嘆した。

 もう一点目をひいたのが、油彩の代表作の一つ《牛肉店帳場》(百五十号)である。これは昭和七年の第十回春陽会展に出品された作品で、普段は長野の北野美術館に展示されているものである。

 絵の右半分は広い階段。そこでは階段を上がる女中と下りる女中がすれ違っている。上がる途中の女中は後ろ姿を見せ、慣れた手つきで牛鍋の材料を載せた膳を運んでおり、階段を踏む足音が聞こえてきそうである。

一方下りる女中は、片手で膳を肩にしている。膳はすでに客が食べ終わったもので、いかにも軽そうにみえる。廊下の床はよく拭きこまれていて、いままさに足をつこうとする女中白足袋の少し汚れた裏が映るほどである。

この絵には解説として、荘八自身の岡鹿之助宛ての手紙が添えられていたが、それによると降りてくる方の女中のモデルは、かつて下谷の花街で鳴らした名妓で、そのころは荘八の内妻だった君〔きみ〕とある。

 画面の左手半分は、階段下の帳場。そこに坐っているのは荘八の自画像で、客待ち顔の下足番のモデルは、古い画友の横堀角次郎である。絵の右の上部、階段の踊り場の柱には、「第八いろは」という文字が描かれている。しかし実際に中学を終えた荘八が、帳場見習いとして座っていたのは、両国にあった「第八いろは」ではなく、その後に浅草の「第十いろは」に移ったあとで、ここにはフィクションが混じっているとのことである。

 牛鍋屋の「いろは」は、京都から上京した荘八の父荘平が、明治十四年の暮れに、第一号店を、芝区三田四国町に開いたのが最初で、最盛期には東京市内に二十以上の店があった。そして各店は、荘平の本妻とお妾さんが経営にあたっており、荘平が彼女たちに産ませて認知した実子は、女十七人、男十三人で、荘八はその八番目の子で、そのために荘八と名づけられた。

 いまでいう牛鍋屋のチェーン店「いろは」は、荘平の死とともに左前となり、荘八がこの絵を発表した二十年前に倒産して、すべてなくなっていた。こうした環境に生まれ育った木村荘八は、やがて絵の道に進むことになる。


by monsieurk | 2019-07-14 14:03 | 美術

男と女――第六部(17)

 六月二十九日、三千代は「婦人文芸一周年記念講演と映画の夕」の講師の一人として招かれ、同じく講師つとめる武田麟太郎と再会した。
 「・・・武田麟太郎先生と会ったのは、昭和八・九年の頃のことで、当時、神近市子さんが主宰していた雑誌『婦人文芸』の講演会の、講演者控室でであった。
 たいへん暑い時だったとおぼえている。(中略)講演者控室に集まった人たちの中で、Kという女の人と私とが洋服で、私は、地のうすい白、その人はピンクのふわふわしたものを着ていた。
 武田先生はどこかの五六歳位の可愛いゝ男の子を連れて、こまかい横縞の木綿浴衣の着流し姿で、開場前から控室に来ていた。男の子を相手に先生は、しきりになにかすあべっていたが、ふと、私とKさんを眺めて、「ほら。このお姉ちゃん達が、これから舞台へあがってダンスをやるんだよ。坊やも、あっちへ行って見るかい。」
 と言った。
 Kさんと私は顔を見合わせたが、抗議する気にもなれないほど、その言いかたに愛嬌があった。そのあとで、私が控室の出入口のうす暗いコンクリ階段を下りて行こうとすると、すぐ後ろから、武田先生がついて下りて来た。すれちがいざまに、「今日は臨検があるのですか」と言葉をかけた。臨検という言葉を聞きなれていなかったので、私は、「え?」と小さく聞き返した。「婦人文芸」の執筆者達に左翼の人が多かったので、官憲の臨検があるのではないかとたづねたにちがいなかった。私が問い返したのに対して、「いい、いゝ」と言いながら、足早に先へ行ってしまった。先程、子供に冗談を言っていた先生とは、人がちがったような生真面目な、底暗い印象だった。この二つのまったくちがった印象のうって変わりかたが、私の心に深く残った。」(同)
 武田麟太郎は京都の三高時代に土井逸雄や清水真澄と同人雑誌「真昼」を発行して文学の道をこころざし、東京帝国大学の仏蘭西文学科に進み「辻馬車」の同人となった。この頃から、本所柳島元町の帝大セツルメントで働き、そこで知り合った東京合同労働組合の人びとを通して組合運動に関係するようになった。一九二九年(昭和四年)三月、刺殺された代議士、山本宣治の葬儀に参列するため京都に赴き、帰京したところで検挙された。ひと月ほどの拘禁生活から出ると、すぐに「暴力」を書いて「文芸春秋」の六月号に発表した。だが雑誌は発禁となり、「暴力」を削って発行された。それでもこの事件で、武田麟太郎は当時の文壇の注目を集め、華々しいデビューを飾った。
 一九二九年(昭和四年)二月には、日本プロレタリア作家同盟が結成され、プロレタリア文学の最盛期だった。ただ左翼運動全体は前年のいわゆる三・一五事件、その年の四・一六事件などの共産党員の相次ぐ検挙をきっかけに受難の時期を迎えていた。
 三千代が出会った昭和十年代の武田は、プロレタリア文学の行き詰まりから、主に東京の下町を舞台に働く女性や、生きる目標を失ったインテリ青年を登場人物にして、暗い世相を描きだすものに変わっていた。一九三二年(昭和七年)の「日本三文オペラ」(「中央公論」六月号、そして一九三四年(昭和九年)八月から十二月まで朝日新聞の夕刊に連載した「銀座八丁」は、風俗小説の先駆けとしてジャーナリズムで好評をもって受け入れられた。三千代の「柳剣鳴」にも触れた彼の「文芸時評」は、この年三月に創刊された「文芸評論」に書かれたものであった。
 三千代は「婦人文芸一周年記念」の講演会での二度目の出会いのあと半年ほどして、書き上げた原稿を持って、一人で武田の家を訪ねた。この日、武田の家には人がいっぱいいた。やがてそれらの人たちが帰り、夕方になって二人きりになると、三千代が持参した原稿を読み出した。武田は読み終わると、「これは、いけるな。」と言い、「改造」に出してはどうかと勧めながら、「巴里の宿」という題名をつけてくれた。結局、この百枚ほどの小説は、武田が主宰するかかわる「人民文庫」に掲載することになったが、その矢先に雑誌は廃刊となってしまった。
 三千代はその後、第一小説集『巴里の宿』(砂子屋書房、一九四〇年)を刊行するが、題名は武田麟太郎の命名によるものだった。こうして武田と三千代の師弟関係を越えたつき合いがはじまる。
by monsieurk | 2016-10-27 22:30 | 美術

男と女――第四部(12)

 六月のある日、金子は職探しの途中、ふと思いついてかつて宿泊していたトゥルノン通りのホテルを訪ねた。三千代に部屋を貸してくれた木村毅はホテルにはおらず、日本に帰国したとのことだった。ただ宿主の老婆が金子を見ると、「ああ、ちょうどよかった」といって、一通の封書を手渡した。宛名を見るとモリミチヨとなっており、日本からのリヨン銀行宛ての送金通知だった。
 この封書の送り主について、金子の『ねむれ巴里』では、三千代の父からと書かれており、森三千代の『巴里アポロ座』でも、長崎の父親に帰国の旅費を頼んだと書いているが、「森三千代の日記 パリ篇」の編者堀木正路は、「実際はこの金は、三千代の奨学金提供者だった関西の実業家Tからのもので、三千代が光晴に内緒でたのんだ帰国の旅費三〇〇円(約四千フラン)だったと、三千代は筆者に語っている。」と記している。(「森三千代の日記 パリ篇」5)
 Tとは株式会社壽屋(現サントリー)の創業者鳥井信治郎で、森三千代は東京の女子高等師範へ進学する際、鳥井が創設した給費生の第一回三十名の一人に選ばれたのである。女は彼女一人で、応募用紙に添付した写真に興味を抱いた鳥井は、三千代を名古屋の高級旅館に招いてご馳走し、分かれ際には手の甲に唇を当てたりした。
 その後も鳥井は上京する度に会いに来たり、金品をあたえたりしたが、二人の関係はそれ以上には進まず、鳥井はパトロンとしての立場をまもった。この出来事は三千代の短篇小説「山」(『国違い』、文林社、一九四二年)に、フィクションの形で描かれている。三千代がパリに着いた直後の日記にも、Tに手紙を出したという記述があり、切羽つまった三千代が金子には黙って帰国を考え、費用を依頼したことは十分に考えられる。おそらくそれが長崎にいる三千代の父親経由で送金され、金子に先に知られてしまったのである。
 「ともかくもその金は、大旱の慈雨というものであった。一フランが八銭の当時の相場で計算してみると、四千フランばかりであった。(中略)みみっちい話だが、二人の食事を二食にして、一人十フランとみて、二人二十フラン、十日で二百フラン、一カ月で六百フラン、雑用を入れても半年は、それでしのぎがつく。夫婦といっても、それを勝手に僕が使用する権利がないことはわかっているが、窮乏のなかで、きらきらと眩ゆい金銭の魅力は、最初にそれを鷲づかみにしたものの、逆手にとってつよい力でぼきぼき折りでもしない限り、離させることはむずかしい。
 銀行にいって、僕のサインで金はまず、僕のふところをふくらませることができた。モリミチヨという名前が、男の名か、女の名か、フランスの銀行員には判別がつかない。それは当然の話だ。」(『ねむれ巴里』)
 翌日、寝起きの三千代をせき立てて、セーヌ川を越えた右岸へ出かけた。一八七五年にガルニエの手で建設されたオペラ座と、コメディー・フランセーズがあるパレ・ロワヤルまでの大通りはオペラ大通りと呼ばれ、高級品をあつかう店が軒をならべていた。
 まず三千代が欲しがっていた薄革の藍色の手袋を買い、流行のモロッコ緑の絹のワンピースを選んで、店先で上海以来着たきり雀だった服と着替えさせた。次いでシャンゼリゼ大通りへ行くって、「ブランシュ」という白色のブラウスや下着を専門とする店で、肌着とストッキングを求めた。三千代は金の出どころを訝りながらも浮き浮きしていた。
 その後、地下鉄でモンマルトルに行き、金子は待望の靴を買って履き替え、崩壊寸前の靴は、「三つの風車(トロワ・ムーラン)」というカフェの裏のゴミ捨て場に放り投げた。そして一人二十フランの昼食を奮発したあと、劇場に入って二階の桟敷席で「リゴレット」を観た。ただこの芝居は金子が知っているのとは違ったドタバタ劇で、三千代は金子の説明に首をかしげていた。こうして一日が終わり、その夜は房事もはずんだ。
 金子は翌日、三千代に分からないように残金を調べてみた。すると早くも半分以上がなくなっていた。それそっくり彼女のハンドバックに入れた上で、一部始終を隠さずに告げた。すると彼女は待っていたであろう金なのに、あまり心にとめない様子で、「あ、そう」と気の抜けたような返事をしたと、金子は『ねむれ巴里』で書いている。
 だが実際はそうではなかった。金子光晴全集の月報「金子光晴の周辺 7」で、聞き手の松本亮が、長い旅の間に金子と別れたいと思ったことはなかったかと訊ねると、森は一度は上海で前田河に帰国の旅費を借りに行ったとき、二度目はパリでの使い込みが分かったときだと述べているのである。
 「そのときは、パリに、故郷から私の帰国の旅費がきたんです、一人分だけの。それを金子が黙って使い込んだんです。金子は私が知らないと思っていたらしいんですけれども、私にはすぐピンときたんです。だけど責めたってしょうがないんだし、責めれば苦しいだけの話だからと思って、それで知らない顔をしていたんです。私がのんき坊主で、ぼんやりしていると金子は思っていたらしいんです。けれども、私は、なんとかしてもう、別れたいと心のなかでは思っていました。」
 ただ使ってしまったものをとやかく言ってみても返ってくるものでもなく、残金の一部を手付金にして、新しい場所に引っ越すことにした。d0238372_16243220.jpg幸いダンフェルロシュローの広場から近い十四区のダゲール通り二十二番地に、小じんまりとした部屋貸しのホテルを見つけて引っ越したのは、二日後の七月初めのことだった。
 「部屋の格式からして、オルレアンやクラマールや、ポート・クリニャンクール〔ママ〕のそれとは比較にならなかった。床はたゝきや瓦敷きではなくて、ニスを塗つてつるつるにみがいた、踊場のやうな木の床だつた。壁は裸かな漆喰ではなくて、にぎやかな花模様の壁紙で張りつめられ、ひろびろとした、流行型の、脚の低い二人寝臺の上おほひも、絨毯も、窓掛けも、落ちきのあるあたゝい橙黄(オレンヂ)の調子で統一され、夜になると、おなじ橙黄色の絹笠を透かしてスタンドの光が、唐草彫りのある衣装戸棚の扉いつぱいの、全身の映る姿見にもうつつて、まるで、この部屋だけに人生の幸福がかくれてゐるやうに思はれるのだった。」(『巴里オペラ座』)d0238372_16261651.jpg
 部屋には瀬戸の洗面台があって、水もお湯も出た。寝台の横にはセントラルヒーチングの暖房装置がついていて、肘掛け椅子も置かれ、廊下には絨毯が敷かれていて、夜遅く帰ってきても足音で隣人を起こすこともなかった。
 家賃は一カ月四百フランとこれまでの倍以上だったが、それだけの価値はあった。家主はペルシャ人の娘と母親で、同じ東洋人だからといって親切にしてくれた。ダゲール通りは両側に店屋が並び、地下鉄のダンフェルロシュロ駅はすぐ近くで、交通の便も申し分なかった。
 森三千代から「日記」を託された堀木正路は、その後について次のように聞かされたという。
 「三千代はこのあと、口惜しさをまぎらすために、独りでスイス旅行に出かけたそうだ。正確に何日後かはきかなかったが、多分二、三日後の早朝、パリから汽車にのりジュネーブ着。すぐにレマン湖見物の船にのり、湖中に浮かんでいるシロン城や、対岸のローザンヌに渡り、その夜はローザンヌに一泊。翌日ふたたびジュネーブに戻り、街路樹の美しい市内を散索〔ママ〕し、午後の汽車で夜おそくパリに帰った。「私はのんき坊主だから、その旅行で気持もさっぱりして、その後はもう、別れようとは想いませんでした」と、三千代は言った。」(「森三千代の日記 パリ篇」5)
 三千代の日記は、七月十四日の項の、
「共和国政府記念当日。
 ゆうべ外へ出ると、夕方もう街のカフェは道路いっぱいに椅子を出してダンスだ。
 道を歩いていると若い男女がとりまいて、アンブラッセ(キス)、アンブラッセ(キス)、という」という記述のあとは、七月二十八日まで空白になっている。おそらくこの間に、三千代の憂さ晴らしのスイス行が決行されたのであろう。
by monsieurk | 2016-07-12 22:30 | 美術

広重の版画展

 東京六本木のサントリー美術館で開かれている、「原安三郎コレクション 広重ビビッド展」を連休中に見てきた。
 日本化薬会社社長だった原安三郎が長年にわたって蒐集した浮世絵の展覧会で、タイトルに「ビビッド」という言葉が添えられているのは、展示された作品のほとんどが初刷りで、これまでほとんど公開されたことがなく、きわめて保存状態がよいことによる。
 展覧会の案内によると、原安三郎は四国徳島に生まれた。家は特産の藍玉を商う商家だったという。昭和の初めに、帰国する宣教師から浮世絵を譲り受けたのが蒐集のはじまりで、本人が旅が好きだったこともあり、歌川広重や葛飾北斎などの風景画を中心に2000点ほど蒐集した。
 今回の展示の目玉は、広重の傑作とされる「六十余州名所図会」の揃いもの70点と、最晩年の「江戸名所百景」120点のうちの62点(残りは途中で入れ替え)である。どれも作品集ではお馴染みだが、たしかに保存状態がよく、どれ一つとして染み跡や色落ちがない。もっとも色落ちしやすい赤は、120年前に摺られた当時のままの鮮やかな色を保っており、藍の色も鮮明で、55「阿波 鳴門の風波」の渦巻く海水を表現した藍色のグラデュエーションなどは、いくら見ていてもあきない(写真では再現すべくもないが)。d0238372_9553928.jpg
 そしてこの藍の色とともに、今回あらためて気づかされたのは、微妙な発色をする茶色の見事さである。この「鳴門の風波」でいえば、白波がまるで抱き込むように打ち寄せている海中の岩肌の茶。そしてそれから灰青へと変化していく色づかいは類例がない。
 これまた解説によれば、初摺り場合は、広重と摺り師が細分にわたって検討しながら絵具と摺り具合を決めたという。それがよく分かるのが、17「江戸 浅草市(初摺)」と18「江戸 浅草市(後摺)」の比較で、18の後摺りの方が、同じ版木を用いているのに、まるで別物のようによく仕上がっている。
 広重の風景画の場合は、摺り師はしばしば「当てなしぼかし」という技法を用いたのだという。これは「拭きぼかし」の一種で、版木を濡らして、その上から絵具をのせてぼかす技法で、見当だけでぼかしをつくるところから、こう呼ばれる。摺り師の腕が問われるものである。
 展覧会では3階の第2、第3展示室に、葛飾北斎の「千鳥の海」シリーズの10点、それに「富嶽三十六景」のうちの「神奈川沖波裏」以下の6点と、「諸国名所奇覧」6点があり、いずれも原コレクションの一部である。これらを見ながら、北斎が風景のなか描き込んだ人物たちの線の鋭さに感動した。波浪に翻弄される小舟を懸命に漕ぐ船頭たちの貌や足腰。山中を行く旅人たちの引き締まった姿。保存状態がよい版でなくては鑑賞できない、こうした細部を見ることができた。一昨年、パリで開かれた「HOKUSAI」展が大人気だった理由の一つが、ここにあったことを再確認した。

 「広重 ビビッド」は6月12日まで、火曜日休館。
by monsieurk | 2016-05-07 22:30 | 美術

版画家・加藤茜さんの新作

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 大阪在住の若い版画家、加藤茜さんの新作(写真、イメージサイズ 18cm×20cm)を入手した。作品に同封されていた手紙には次のように書かれていた。
 「タイトルは《箱庭(サイ)》です。絵のとらえ方はさまざまであるのが当然ですが、制作した時の想いとしては、内面にある幾つかの心情を動物に投影し、「サイ」、「シーラカンス」、「ペリカン」の3点を描きました。このサイはインドサイで、角が1本しかない種類であることから、ブッダの教えのなかにも登場するという貴重な存在だそうです。
 技法はドライポイントです。インクは黒に青色(プルシャンブルー。シャルボネ社のもの)を少量混ぜています。“鉄色”のような色味が出したいのと、粘度があるため、黒の部分がしっかり刷れるので、そうしています。紙はこの作品のみ、ややクリーム色の強いものを選びました。」
 加藤さんの存在を知ったのは、京都に住んでいた2003年2月のことである。散歩の途中に立ち寄った岡崎の美術館で、京都市立芸術大学の学生たちの卒業制作展が開かれていた。興味を覚えて入館し、油彩、彫刻など200点をこす作品を見てまわるうちに、版画部門の一角に展示されていた作品に釘づけになった。イメージサイズは41.5cm×61.0cmの大作で、タイトルには《ピラルク》とあった。ピラクルは、シーラカンスと同様に生きた化石として知られる淡水魚である。この大きな魚の横顔が画面一杯に描かれていた。
 さっそく会場に設けられた事務局を訪ね、作者を聞くとともに購入したい旨を伝え、対応してくれた先生は、学生から直接連絡を取らせると約束してくれた。後日、作者の加藤茜さんから連絡があり、こうして彼女との交流がはじまったのである。
 加藤さんの初期の創作に、「海シリーズ」と呼ぶ一連の作品がある。学生時代に彼女は水族館でアルバイトをしたことがあり、そのとき目にした魚やヒトデ、小蟹、海底に沈殿していくプランクトンなどを描いた独特の雰囲気をもつ作品群で、すぐに購入した。この一部は、かつて館長をつとめた放送大学附属図書館のサロンの壁をいまも飾っている。
 加藤茜さんにはその後、私家版の訳詩集『マラルメ 牧神の午後』(販売 左右社、2010年)のための挿画4点(《マラルメの肖像》、《憩うニンフたち》(写真右)、d0238372_1316431.jpg《牧神》(写真左)、《葡萄》)や、『石坂洋次郎「若い人」をよむ 妖しの娘・江波恵子』(吉田書店、2012年)の口絵《江波恵子像》(写真)を制作してもらった。d0238372_13203838.jpg
 彼女の作品は、大阪、京都、神戸など関西を中心とした展覧会に出品されることが多く、今回の《箱庭 サイ》ほかも、京都の三条河原町にある画廊「アート・ギャラリー北野」で開催された、京都市立芸術大学美術部版画専攻の同窓会「なないろ」のグループ展に出品したものだという。加藤茜作品のファンとしては、独自の世界をたたえる作品が1点でも多く生みだされることを願っている。
by monsieurk | 2015-10-24 22:30 | 美術

舟越保武の彫刻

 岩手県盛岡、福島の郡山と巡回したあと、東京都練馬区立美術館で開かれていた「舟越保武彫刻展~まなざしの向こうに」が9月6日で終わった。会期中2度訪れて、舟越彫刻の魅力を堪能した。
 今回の展覧会は、彼の足跡を回顧する意味合いもあり、初期のものから晩年までの仕事を、56点の彫刻を中心に、その制作過程を示すデッサンや墨絵を含めて、都合120点で構成されている。
 船越保武は、言わずと知れた、佐藤忠良とならぶ具象彫刻の第一人者で、二人は藝大の学生のときからの友人であった。彼らの作品はロダンの影響をうけて、彫刻を模索していた初期こそ似ていたが、舟越の作品はカトリックの洗礼を受けたころからテーマや作風が変化する。
 作品は時代を追って、第1章、彫刻への憧れ、第2章、模索と拡充、第3章、《長崎26殉教者記念像》、第4章、信仰と彫刻、第5章、静謐の美~聖女たち、第6章 左手による彫刻、と彼の生涯をたどる形で配置されている。
 舟越は岩手県二戸出身で、父は熱心なカトリック信徒であった。舟越自身も1950年に、生まれたばかりの長男を亡くしたことをきっかけに洗礼をうけ、カトリックに帰依した。そしてこのころから、キリスト教信仰やキリシタン受難を題材にした作品が多く制作されるようになった。
 今度の展覧会でも、豊臣秀吉によるキリスト教弾圧で処刑された26人の殉教者が昇天する姿を造形した《長崎26殉教者記念像》(展示は岩手県立美術館収蔵の繊維強化プラスティックによる4人の像)、十字架上のキリストを造形した「キリスト」、江戸時代初期の島原の乱で、抵抗の末に殺された武士の姿をしのぶ「原の城」、ベルギー出身の宣教師で、ハワイのモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者のケアに生涯をささげ、みずからも同病で命を落とした「ダミアン神父」。そして大理石や砂岩から刻みだされた、「聖セシリア」、「聖クララ」、「聖ベロニカ」などの聖女像や、少女像「ANNA」など、静謐さを湛えた顔は観るものをとらえて離さない。
 なかでも心をうたれたのは、1964年に制作された「高山右近」(80.5×33.0×23.0)のブロンズ像であった。 d0238372_4391354.jpg
 写真は岩手県立美術館のホームページに掲載されているもので、ゆったりと羽織ったマントの前に十字架を下げたキリシタン大名の立ち姿は威厳にみち、髷を結った頭部は、かつてこれほど高い精神性を秘めた日本人がいたのか、という驚きと感動をあたえてくれる。
 「高山右近」の特徴は、その切れ長の眼である。上からの照明によって両眼は完全に陰となり、ただ黒い穴のように見える。だがその洞穴のような眼が充実した精神を宿していることは、わたしたち観客に十分に伝わってくる。そして、こうした伏しめがちな眼は、「高山右近」だけではなく、上にあげた聖女たちをはじめ、舟越が制作した彫刻の一番の特徴であるように思える。
 舟越保武は1987年、75歳のときに脳梗塞を起こして右半身不随となったが、すぐにリハビリを開始し、その後は左手一つで制作に打ち込んだ。展示の最後の「左手による彫刻」の部屋には、この時期の作品が集められているが、圧巻はブロンズによる一連のキリスト像である。なかでも一筆書きのように、粘土を削り取って造形した「ゴルゴダⅡ」(1989年)は、舟越保武が到達した境地をあますところなく表現している。至福の一刻をすごした。
by monsieurk | 2015-09-18 22:30 | 美術
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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