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木村荘八と牛肉屋「いろは」⑤

「いろは」開業


木村荘平が川路利良の召しだしをうけて上京したのは、牛肉の消費が急に高まったときである。一度神戸にもどった彼はこうした牛肉事情を調べた上で再度上京しようとした。ところがここで予期しない事件がおこった。五月十四日、参議兼内務卿の大久保利通が、出勤途上の紀尾井町で、石川県士族島田一郎たち六名に刺殺されたのである。彼ら実行犯は新聞社に「斬奸状」を送って、暗殺の理由と今後も除くべき人物の名前をあげていて、そこには大久保の腹心である川路に名前もふくまれていた。事件の背景には、前年の明治十年、維新の大功労者西郷隆盛をしりぞけて新政府の権力をにぎった大久保たちに厳しい世論の力もはたらいていた。

この変事にもかかわらず、荘平は翌六月予定通り上京して川路に面会すると、公営の屠殺場の払い下げをはたらきかけた。中川屋嘉兵衛がはじめて私設の処理場を設けたときに周辺住民の反対をうけたことは先にのべた通りだが、その後も食肉の流行とともに全国各地で同じような騒動が頻発していた。

そのうちに病死した牛を売る不心得者まで出現して、警視庁は取締にのりだし、明治十年五月には民営の処理場を廃止する命令をだした。その結果、東京府下の処理場は警視庁直轄の千住の一カ所になった。しかし官営の処理場はしょせん武士の商法でうまくいかず、責任者の川路はこの運営を木村荘平ほか二名に払い下げることにしたのである。明治十二年四月のことで、総額は一万七千円あまり、支払いは三年年の月賦という好条件であった。

当然ながら関係者からは猛烈な反対の声があがった。政府はそれまでの民営の処理場を閉鎖して官営とし、その上で今度は既得権を無視してどこの誰とも知れぬ木村某にそれを払い下げるというのは癒着以外のなにものでもないというのである。当然の声であった。

困った政府は一度は官制に限るとした処理場を、私営のものも認めるとした。この変更をうけて、多くのものがこの分野に手をあげることになった。それほど維新後の肉食熱は高まっていたのである。

荘平のライヴァルには、鹿児島から上京して銀座で煙草店「天狗煙草」をかまえて大当たりした岩谷松平や(彼については永井龍男『煙よけむり』に詳しい)、近江出身で米問屋「米久」を開いていた竹中久治などがいた。彼らも時流を見抜いて東京に出てきて処理場を営むとともに、やがて「牛鍋屋」を開くことになる。

木村荘平は彼らとの激しい競争のなかで着々と手を打った。政府は明治十年九月に、三田四国町(現在の慶応義塾の前にあたる)に育種場をもうけ、西洋野菜の栽培をおこなうととみ、牛、馬、羊、豚を飼育して、種つけも行っていた。文明開化の世にふさわしい食物の生産に役立てようとしたのである。

これに目をつけた荘平は、またも川路の線から働きかけてもらい、勧農局(のちの農林省)の許可をえて、三田育種場の一部を借りうけて、そこを動物市場とするとともに、駿馬を育てる興農競馬会社を設立した。興農競馬会社の初代幹事長は陸軍の将官である野津道貫、二代目は西郷従道が就任したが、これはあくまで名誉職であった、実権は幹事長代理で会計長の木村荘平が握っていた。彼はここで春と秋の二回、大競馬を催して明治天皇も見物に臨席したほどであった。

三田四国町はかつて松平土佐守や松平阿波守など四国の大名の屋敷があったところだが、維新の戦乱のなかで焼打ちにあってからは、放っておかれたために草ぼうぼうの原っぱとなっていた。かつては町の北東部に薩摩の上屋敷もあったところから、土地の人たちが「薩摩っ原」と呼ぶ草ぼうぼうの場所であった。

政府はこの広大な場所を利用して動植物の育種場を設けたのだった。荘平は近くの空き家のまま残されていた大名屋敷を借りうけ、手をいれて自宅にしたうえで、商売の基点としたのである。彼はここに神戸から連れてきた内妻のマサと長女の栄子を住まわせ、さまざまな事業を起こすとともに、本業である牛鍋店「いろは」を開いた。牛を育て、野菜をつくり、それらを食する店をもったのは、上京後三年がたった明治十四年末のことである。

『木村荘平君伝』には、このころを回想したマサの談話が収録されている。

「妾が木村と結婚しましたのは二十八歳の時で、木村が当年六十六歳、妾が取て六十五歳に成りますから、丁度三十八年前でムいます。妾は元から、女でも自分が働く商売が好なものですから出亰すると直ぐ、三田四国町で小屋見たやうな、いろは牛肉店を出しました。それから第二、第三と仕合よく多くの支店を出すやうになりましたのです。」

荘平は処理場や競馬のほかにもさまざまな事業で忙しく、「いろは」の店の切り盛りはすべてマサに委ねかれていた。店で供するものを牛鍋一つにしぼったのもマサの才覚だった。なお荘平が伏見に残してきていた妻は明治三十年ころに亡くなり、それを機会にマサが正妻となったのだった。


将来の画家、木村荘八の誕生はこれからだが、続編はしばらく置いて書き継ぐことにする。


by monsieurk | 2019-07-31 20:40 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」④


文明開化


明治新政府は近代化にむけた新たな政策を矢つぎ早にうちだした。明治の文明開化を象徴するものとしては、断髪、牛肉、洋服があげられるが、明治二年(一八六九年)には横浜の洲干町(現在の中区弁天通り五丁目)に、最初の西洋風床屋「ふぢどこ」が出現した。はじめたのは小倉虎吉で、「横浜毎日新聞」に店の広告をだした。同じころに東京銀座にも散髪床が店開きをし、この年八月には政府から散髪自由の布告がだされて、県知事や官吏はその意を体して断髪を奨励し、翌明治三年三月二十日には明治天皇が頭髪を切り、皇后も鉄漿をとって眉墨を落とした。

洋服の流行も明治天皇のイニシアティヴで行われた。明治二年に、イギリスの皇太子エディンバラ公が来日することが決まると、天皇は明治三年春に、山城屋和助に洋服をつくるように命じた。山城屋はほかの六人の日本人と外国人のブランを相談して、舶来の黒ラシャで半マンデル型の三つ揃い一組と長マンデル型の洋服をつくった。

翌四年の夏、政府は官吏の制服についての会議を宮中でひらいた。出席したのは西郷隆盛、三条実巳、岩倉具視、伊藤博文、大隈重信など藩閥政府の重鎮のもかに、宮中の役人や神祇官も出席して、会議は様相派と烏帽子直垂派にわかれて大議論になった。しかし、「朕、今、断然その服制を改め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す。汝、近臣、それ朕が意を体せよ」という一言で洋服ときまった。明治六年に海外から輸入したラシャは、百二十二万三千円あまり、フランネル二十二万四千円余りと急増した。

明治五年三月十日からは、御茶ノ水の聖堂ではじめて博覧会が開催されて、名古屋城の金の鯱が出品されて人気を博した。八月二日には新たに学制が布かれた。小学校を上等、下等にわけて、男女は六歳から九歳が下等、十歳から十二歳を上等としたが、二十歳をすぎた者も入学するという風景が出現した。九月十二日、東京新橋と横浜の間の鉄道の開通式が行われ、出席した天皇は洋服ではなく衣冠束帯の姿ではじめて汽車にのった。当時は一日四往復で、運賃は一等が一円十二銭五厘だった。

そして十一月九日からは太陽暦が採用され、それまでの陰暦は廃止された。このために十二月三日が明治六年一月一日となったので、大晦日がこの年はなく、掛け金を取りそこなう心配する商人も多かった。

明治天皇の膳にはじめて牛肉が供されたのも明治五年一月二十四日である。大久保利通の進言によるものだった。これを機に政府は食肉を奨励することになった。四月には僧侶の肉食妻帯がゆるされることになり、このとき敦賀県がだした通達書には、牛肉の儀は人生の元気をまし、血力を強壮にする養生物であり、兎角、旧習をまもって、牛肉はけがれがあり、神前などをはばかるなどというのは、「却テ開花ノ妨碍ヲナス輩不堪哉ノ趣、右ハ固陋因習ノ弊ニミナラズ、方今ノ御注意ニ戻リ以ノ外ニ候」といましめている。

明治初年の東京府下の一日の屠牛は一頭半であったが、明治五年末には二十頭となった。これは一人半斤として五千人分に相当する量である。明治六年には、牛肉商規則という官令がだされ、翌年には、「肉食ノ開クルヤ、上ハ大臣ヲ始メ下民ノ吾々迄之ヲ嗜ムニ、就中牛肉ハ人ノ健康ヲ助ケ補益タルコト真ニ験アリト雖モ其肉ニ善悪アリテ、悪肉ヲ喰フトキハ大害立処ニ至ル、亦畏ルベキナリ。故ニ本年格別御世話在ヲセラレ府下六大区、結社ヲ設ケラレ、牛肉商人悉ク其社ニ入ラザルハナシ」という記事が新聞にでた。東京府下の牛肉店が結社をつくり、すべての店は県の許可の札をかかげて、品質を保証した牛肉を売ることにしたのである。


by monsieurk | 2019-07-28 15:15 | 美術

Fridays for Future

 地球上のいたるところで、異常気象現象が起こっている。フランスも例外ではなく、725日、パリでは気温が摂氏42.6度を記録した。娘たち一家が住むトゥルーズでも、6月以来、30度を越える日が続いていて、プールはあっても冷房設備のない家で過ごすのは大変だとメールで伝えてきた。

 そんな中で、723日にフランスの下院(日本の衆議院の当たる)で、一人の少女が講演して注目された。スウェーデン生まれの16歳の高校生、グレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg)さんで、講演会は環境派の議員の招きで実現した。彼女は議場で、「緊急を要する気候変動や環境問題を議論するとき、妥協的な政治はあり得ない」と語り、世界各地で起きている異常気象を直視するように呼びかけて、「いまや世界が一緒に取り組まなければならない」と訴えた。

 フランスで高温の日々が続く中、彼女の訴えは十分説得力をもつと思われるが、野党の共和党や極右の「国民連合」の一部の議員たちは講演会に出席しなかった。その理由として、トゥエンベリさんたちの運動を、「感情に訴える新手の全体主義」、「環境ビジネスの手先」などとし、「環境運動に偶像はいらない」と主張したが、彼女はこれに対して、「たとえ子どもたちの言い分に耳を貸さないとしても、科学が示す結論には従うべきだ」と反論した。

 日本ではあまり知られていないが、グレタ・トゥンベリの運動には、いまや世界120カ国の100万人以上の若者が参加している。

発端は、彼女が昨年(2018 )の夏に、たった一人で始めたストライキだった。それからの経緯について、フランスでよく読まれているCourrier international(「国際通信」、https://www.courrierinternational.com)の1408号(2019.3.14発行)の特集などを参考に紹介する。

 グレタ・トゥンベリの母国スウェーデンでも気候変動の兆候は著しく、これに積極的な手を打とうとしない政府に抗議するため、彼女は毎週金曜日の授業を欠席して、学校を休む「Fridays for Future(未来のための金曜日)」を始めた。「もし何もしなければ、近い将来失われてしまう未来のために、なぜ勉強しなければならないのか?」という素朴だが、深刻な疑問が彼女を突き動かしたのだった。キャンピング・シートに一人坐り込んで始めた抗議行動は、すぐにマスメデイアが取り上げ、世界中で知られることになった。

昨年(2018)12月、国連がポーランドで開催したCOP24(国連気候変動枠組み条約)に招待され、今年1月のダボスの経済フォーラムにも招かれた。その一方で、ベルギーの環境大臣は、情報機関「国家保安部」の情報として、「グレタの背後には過激な環境保護団体がついている」と発言したが、その後「国家保安局」がこの情報を否定したため、環境大臣が辞任するという出来事も起こった。そして721日には、彼女に「自由賞(Freedom Prize)」があたえられた。

この「自由賞」というのは、第2次世界大戦に従軍したフランスの退役軍人レオン・ゴーティエ氏とアメリカの先住民チャールズ・ノーマン・シェイ氏が創設したもので、第2次大戦のノルマンディ上陸作戦の精神を称揚して作られた。7月21日の授与式が、フランスの北西部の都市カーン(Caen)で行われたのも、ここが連合軍の上陸作戦「D-Day」の舞台となったオマハ・ビーチに近いノルマンディの中心都市だからである。そして授与式の翌々日の23日に、国民議会での講演会となったのである。

「自由賞」には25000ユーロ(凡そ300万円)の賞金がついているが、グレタ・トゥンベリさんは、「この賞はわたしのものではない。Fridays for Future 運動全体に対するものだ」として、賞金はすべて、気候変動の影響を受けている地域を支援する4つの団体に寄付する」と語っている。


『木村荘八と「いろは」』④は次回に掲載の予定。


by monsieurk | 2019-07-25 12:41 | フランス(社会・政治)

木村荘八と牛肉屋「いろは」③

食肉の風習


慶応が明治と変わって間もなく、荘平は親戚の娘と結婚したが子宝にめぐまれず、養子として荘次郎をむかえた。明治三年、伏見の青物問屋の店と住まいを荘次郎に譲ると、妻も残して一人神戸に行き、栄町で製茶貿易の店をひらいた。資本金は三十万円、大阪の豪商鴻池善右衛門などを共同出資者として、実質的には彼がすべてを取り仕切った。

 神戸港に汽船回漕問屋の丸正を開設したのもこのころである。『東洋実業家列伝』には、次のようなくだりがある。

「又同年(明治 年)県下の区戸長及び人民の請求に依り荷為替特約法を設け因伯沿海より大阪へ回米の便利を開く事に尽力して其功を奏せり」、「由来山陰の地は交通不便の国多く、就中鳥取県の如きは東西南の三面は山岳であつて、北方は日本海に面せる海浜砂漠で良港に乏しく、運荷は甚だ不便であるが、斯る偏僻の地に於て夙くも京阪との聯路を計りたる氏の労や多とすべきである。」

 こうした文章から浮かんでくるのは、世を見る目をそなえ、利にさとく、行動力にすぐれた商人の面目である。そうした木村荘平に、新政府の大警視(警察庁初代長官)となった川路利良から呼び出し状がとどいたのは、明治十一年三月のことである。川路と荘平は戊辰戦争のとき、かたや卒族大隊長として、他方は御用商人としてともに戦場をかけめぐった間柄だった。川路は準士分である与力の息子だったが、激動の幕末での活躍が認められて新政府の要人の一人となっていた。

 川路が木村を呼んだのは、当時流行しつつあった食肉を衛生的に普及させるために一肌脱いでほしいというもので、そこには伏見の戦いで世話になった荘平にむくいようという意図もこめられていた。この勧めに乗るとすれば、荘平はいま手がけている製茶の事業を手放さねばならず、商人として損得を計算しなければならない。考える時間が欲しいといってこのときは、いったん神戸に帰った。

 江戸時代にも各地に馬肉や野鳥の肉を食べさせる店はあったが、牛肉を食べさせる店は珍しかった。福沢諭吉の『福翁自伝』には、彼が大阪の緒方塾にいた安政のころ、大阪には二軒の牛鍋屋があり、塾生たちは平気で通って食べたが、そるときそのうち難波橋の牛鍋やの主人から豚の屠殺をたのまれ、それとひきかえに頭をもらって帰ってきたという話がでている。この頭は解剖的に脳だの眼だのを能く調べて、散々いぢくったあとを煮て食ったことがあると書かれている。

 文久二年の『横浜ばなし』には、異人屋敷についての記述についで、「外に、異人の食料牛屋二軒あり、毛物を商ふは異人なり、此処にて牛を屠り、皮を剝ぎ、大きなるかぎにてつるしておくなり」という記事がみえる。

もともと海の幸にめぐまれた日本では、仏教思想の影響で獣肉を食することを忌む習慣があり、食べるために牛や馬を育てる畜産は未発達であった。だが黒船とともにやってきた文明開化の風は、そうした食習慣をも一変させた。横浜や神戸が開港して、外国人の居留民が住みつくようになると、彼らのために牛肉を供する店ができた。慶応三年十二月に、横浜で出版された「万国新聞紙」第九集の広告欄には、「各国公使用弁の為め牛肉店高輪へ開候処、御薬用旁緒家様より御用被仰付 日に増し繁栄仕」とある。外国の公使のために開いた牛肉店で、江戸の諸大名も牛肉をもとめて、それを薬として食べていたことがわかる。

この広告を出したのは中川屋嘉兵衛で、最初は横浜の八十五番館から牛肉を仕入れて、それを江戸まで徒歩で運び、外国の公使館などに納めていた。しかし道中で肉が腐りはじめ悪臭をはなつ。いっそ江戸で屠った方が得策だと考えて荏原郡芝白金村の畑の物置を借りて私設の屠殺場をつくった。しかしすぐに村人が騒ぎだし、わずか二、三頭を屠っただけで場所を当時は無人の本芝海岸に移した。これが最初の屠殺場だとされる。

食肉をタブー視する風習は維新後には一変する。仮名垣魯文が明治四年に出した『牛店雑談安愚楽鍋』には、ちょんまげ姿の人物と、ざんぎり頭で洋服をきた男が牛鍋を前に酒を酌み交わす絵に、「ねえさん、鍋は飯のときとして、ソップの吸下地で、葱を細くそいで、鞍下の極といふところを、そぼろに刻んでヨ、ぱらぱらと入れて、二人前持って来な、そしてお酒はいゝのを二つ」という吹き出しがつけられている。鞍下とはロースのことで、スープで味付けした、牛肉と葱を鍋で煮てたべたのである。


by monsieurk | 2019-07-23 14:53 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」➁

荘八の父


木村荘八の父荘平に関する基本的文献としては、『木村荘平君伝』(明治四十一年)や『東洋実業家列伝』(明治二十六年)があるが、ともにいまでは稀覯本である。前者は荘平の三周忌供養として、報知新聞記者が編集したもので、国会図書館所蔵の本が電子化されて公開されている。これらを参考にしつつ、この「明治の怪物」の一人とされる荘平の生涯をたどってみる。

 荘平は天保十二年(一八四一年)七月、山城国(現在の京都府)伏見の農民の庄兵衛の長男として生まれた。先祖は宇治の田原で上林姓を名のる篤農家で、代々禁裏の百姓として皇室の御料地を耕すかたわら、宇治の名産である茶をつくる製茶師を兼ねていたという。庄兵衛は妻をめとったあと木村家に夫婦養子として入った。荘平はそこでの生まれたのだった。

 彼は幼い時から体格抜群で、十四歳のときには村相撲の横綱をはり、力士になることを夢見て、有名な小野川秀五郎の門をたたき、それから二年間は一門の力士たちとともに諸国を巡業してあるいた。そうした環境のなかで遊里にも足を踏み入れたのだった。だが二年後には母の哀願によって故郷に呼び戻された。その後、荘平は遊びをやめて、荷をかついで青物の行商をはじめ、やがて仲買の店を持つとともに、万延元年(一八六〇年)には製茶貿易を兼ねるようになった。

 この年はさまざま点で歴史を転換する画ときであった。二年前の安政五年六月、大老となった井伊直助は日米修好通商条約を受け入れることを決断、七月にはアメリカ艦上で調印した。これに対する反対する攘夷派の逮捕がしきりに行われた。いわゆる安政の大獄である。

 幕府は翌安政六年七月には神奈川に居留地をさだめ、これ以後海外との貿易が急速にすえることになった。ちなみに安政六年の輸出額は九万ドルだったのにたいして、万延元年には四十七万ドルに急増している。だがこうした激変にいきどおる攘夷派が少なくなく、万延元年の三月二十四日には、江戸城桜田門外で、大老井伊直助は水戸藩浪士たち十八人によって殺害された。こうした外国人を敵視する世論も少なくないなかで、茶の貿易を生業としようとすることは度胸がいったが、彼はこうした乱世を自分がのし上がるのに絶好の機会であると考えたのである。

 こうして茶の貿易を軌道にのせた荘平は、三年後の文久三年(一八六三年)には伏見の青物問屋二十三軒をまとめて組合をつくり、その取締役におされ、やがて京都にある各藩の屋敷に出入りする御用商人となり富をふやした。

 慶応四年(一八六八年)一月二十七日、鳥羽、伏見で幕府軍と鹿児島、長州連合軍とのあいだの戦闘をきっかけに戊辰戦争がおこった。伏見は荘平が商いをする地元だったが、彼はこの戦いの行方を勤王派が勝つと踏んで、薩摩軍のかけたのである。彼は軍の御用を引き受け、物資の調達にはしりまわった。これが荘平の後の運命をきめたのである。

 荘平は戦況を見きわめた上で、勤皇方が有利と判断した彼は、薩摩藩のための物資の調達にはしりまわった。兵力の上では幕府軍の方が優勢だったが、戦いは新式銃で武装した薩長軍の勝利におわり、一月三十一日には徳川慶喜にたいする追討令がだされた。慶喜は戦端が開かれるより前に咸臨丸で大阪を出帆、江戸にもどってしまっていた。二月十日、新政府は各国公使と兵庫で会見し、王政復古の国書を手渡し、外国と和親するむねを告げた。こうして徳川幕府の時代は終わり、新政府誕生が内外にむけて宣言された。

 明治維新はなったが新政府には金がなく、木村荘平が調達してきた物資への支払いもとどこおった。おかげで勝利に貢献した荘平の努力も報われずに終わったかにみえた。そんなとき、荘平は薩摩軍におさめた物品は、すべて戦勝を祝って、薩摩に寄付したことにすると申し出たのである。このいさぎよい行動は意気に感じやすい薩摩っぽの胸をうった。荘平は新政府の中核となった薩摩の人たちに恩を売った形となり、のちに明治政府のお声がかりで商売をする道をひらくことになる。


by monsieurk | 2019-07-18 08:58 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」

 二〇一三年はうつりゆく東京の姿を大正から昭和にかけて情趣豊かに写した画家、木村荘八の生誕百二十年にあたり、それを記念する回顧展が、新装なった東京駅の「ステーション・ギャラリー」で開かれた。赤レンガの色もよみがえった駅舎のなかにあるギャラリーは、近代化していく東京を見つめ、日々変化する風景や風俗を、ときには旧懐の情をこめて描きのこした生粋の東京っ子、木村荘八にふさわしい場所であった。

今回の油彩画、挿画の原画などおよそ百点が展示された。なでも永井荷風の『濹東奇譚』の有名な挿画の全原画(国立近代美術館藏)三十四点や『東京繁昌記』の挿画は初めて目にしたもので、墨、ペン、鉛筆、胡粉を巧みに使い分けていて、その一筆書きのような線の見事さに感嘆した。

 もう一点目をひいたのが、油彩の代表作の一つ《牛肉店帳場》(百五十号)である。これは昭和七年の第十回春陽会展に出品された作品で、普段は長野の北野美術館に展示されているものである。

 絵の右半分は広い階段。そこでは階段を上がる女中と下りる女中がすれ違っている。上がる途中の女中は後ろ姿を見せ、慣れた手つきで牛鍋の材料を載せた膳を運んでおり、階段を踏む足音が聞こえてきそうである。

一方下りる女中は、片手で膳を肩にしている。膳はすでに客が食べ終わったもので、いかにも軽そうにみえる。廊下の床はよく拭きこまれていて、いままさに足をつこうとする女中白足袋の少し汚れた裏が映るほどである。

この絵には解説として、荘八自身の岡鹿之助宛ての手紙が添えられていたが、それによると降りてくる方の女中のモデルは、かつて下谷の花街で鳴らした名妓で、そのころは荘八の内妻だった君〔きみ〕とある。

 画面の左手半分は、階段下の帳場。そこに坐っているのは荘八の自画像で、客待ち顔の下足番のモデルは、古い画友の横堀角次郎である。絵の右の上部、階段の踊り場の柱には、「第八いろは」という文字が描かれている。しかし実際に中学を終えた荘八が、帳場見習いとして座っていたのは、両国にあった「第八いろは」ではなく、その後に浅草の「第十いろは」に移ったあとで、ここにはフィクションが混じっているとのことである。

 牛鍋屋の「いろは」は、京都から上京した荘八の父荘平が、明治十四年の暮れに、第一号店を、芝区三田四国町に開いたのが最初で、最盛期には東京市内に二十以上の店があった。そして各店は、荘平の本妻とお妾さんが経営にあたっており、荘平が彼女たちに産ませて認知した実子は、女十七人、男十三人で、荘八はその八番目の子で、そのために荘八と名づけられた。

 いまでいう牛鍋屋のチェーン店「いろは」は、荘平の死とともに左前となり、荘八がこの絵を発表した二十年前に倒産して、すべてなくなっていた。こうした環境に生まれ育った木村荘八は、やがて絵の道に進むことになる。


by monsieurk | 2019-07-14 14:03 | 美術

『石坂洋次郎[若い人」を読む』の批評の再録

以下は拙著、『石坂洋次郎「若い人」をよむ 妖しの娘・江波恵子 』への書評の再録です。

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柏倉康夫『石坂洋次郎「若い人」をよむ 妖しの娘・江波恵子』(吉田書店、二〇一二年七月六日)読了。面白かった。柏倉先生、近年じつに精力的に著作を刊行されているが、そのいずれもが厖大な情報量をはらみつつ非常にスマートに整理されている。とくに本書は構成そのものがユニークで、しかも綿密に計算されており、小説と評伝がないまぜないなったような、これまであまり読んだことのないような読後感であった。

基本線は石坂洋次郎の代表作のひとつである『若い人』(『三田文学』連載の後、初版は正続二冊ともに改造社一九三七年、訂正版が一九三九年、新日本文学全集版が一九四一年)を梗概(あらすじ)として描き直すことである。主人公間崎・江波・橋本の三角関係を軸に、とくにヒロインである美少女江波恵子の行動と性格分析に力を注ぎながら、じつに見事に再構築されている。

柏倉氏は『若い人』を十五歳のときに読んで感激し、高校時代にスタンダールの『赤と黒』をクラシック・ラルッス(フランスの学生用に、原作の抜粋に多くの注釈をほどこしたもの)で読み、さらに大学生になって原文で全編を読んだ、それが氏の読書の喜びの原点になっている。そして本書の著述の原動力でもある。

私事ながらパリの宿の本棚に『赤と黒』のペーパーバックが挿してあったのでふと手に取って読み出してみたら素晴らしく読みやすい名文だったことにびっくりした(日本語では大昔に読んでいたものの、これほどとは思わなかった)。といっても途中で帰国してしまったので中断してそのままになっているのだが…いずれ続きを読みにパリに戻ろう。

《かつてあれほどもてはやされた石坂洋次郎の本が、いつのまにか書店の棚から姿を消してしまった。初期の短篇集『わが日わが夢』や、『若い人』、『麦死なず』、そして故郷の津軽を舞台に、戦後の風俗を活写した連作『石中先生行状記』を読むには、古本を探さなければならない現状は、まことに残念なことである。この一冊が、『赤と黒』のクラシック・ラルッスの抜粋本のように、原作をまだ読んだことのない若い読者や、かつて『若い人』を読んだ世代の人たちが、作品を手にとるきっかけになれば望外の喜びである。》(あとがき)

あらすじを読んでいて、やはり昔一度は読んだことのある作品だと思い出した。江波という女生徒の「境界例」と本書では診断されている複雑な行動パターンをハラハラしながら読んだような気がする。このあたり石坂洋次郎の真骨頂というのか、話の運びの上手さを感じさせる。ちなみに『石中先生行状記』は宮田重雄の装幀なのでたぶん今も持っている、ただし郷里の書庫。『若い人』初版は鈴木信太郎装幀、今もかつても所持せず。

石坂は同じく弘前市生まれの葛西善蔵に私淑していた。大正十四年に郷里で教職に就いた石坂を頼って葛西が弘前へやってくる。その作家としての破天荒な生き方を真正面から受け止めて、石坂は深くひきつけられながらも辟易しつつ自らの道を探すことになる。『金魚』という作品に葛西との葛藤の周辺を描いているが、柏倉氏は葛西という存在に江波恵子のオリジンを見るのである。

《では江波恵子はどうか。『金魚』には彼女の前身は見当たらないようにも思えるが、頽廃的な滅びの精神を生きる作家野村[葛西善蔵がモデル]こそが、それに当たるとも考えられる。事実、坂口[石坂自身がモデル]はこうした野村を、「恋人のような恍惚とした眼差しで見守る」(同書、一三八頁)のである。》([ ]内は引用者註)

これは鋭い指摘ではないか。そして葛西を反面鏡として自らの道を見いだした石坂の方法論とは次のようなものであった。

《出来るだけ一般の人々を喜ばせる小説を書きたいといふことだ。鋭いのはいけない、強いのはいけない、難しいのはいけない、だが卑俗なのもいけない。では何を書くんだ? まあともかく何かさう云つたものを」(『雑草園』中央公論社、昭和十四年、一一〜一二頁)》

この自問自答は昭和十四年という時期を考えるといかにも本質的なものだったろう。破滅型の私小説から出発した石坂が、横光利一の純粋小説論が話題を呼び、プロレタリア文学と探偵小説という二大エンタテインメントの嵐が吹き荒れた季節を経て、ここへたどり着いた。むろん石坂だけの問題ではないだろうが。

獅子文六の再評価さえも叫ばれている(かどうか知らないが、最近『日本古書通信』に獅子研究の連載があったのは確か)今日、石坂洋次郎が文庫で読めないというのは、あまりにも寂しくはないだろうか。藤澤清造でさえ読めるのだから! まずは本書をひもといて石坂洋次郎の真価がいかなるものか実感していただきたいものである。

by monsieurk | 2019-07-12 15:34 |

京都三樂会

 偶然はときに大きな好運をもたらしてくれる。京都大学に在任中の野口圭三さんとの出会いはその典型だった。野口さんは京都の老舗建設会社野口建設の会長のかたわら、趣味で絵と篆刻を楽しむ人たちの会、「三樂会」を主宰していた。

 赴任した翌年の早春、名高い御室仁和寺の蠟梅を見物に出かけた。蠟梅は山門をくぐり、しばらく行った左手に、薄黄の見事な花をつけていた。見惚れていると、一本の梅の木の下で、花を見上げながら熱心にスケッチをしている人を見つけた。覗き込んだその絵の見事さに、思わず声をかけた。それが野口さんとの出会いだった。

 自己紹介をすると、「じつは愛好者が集まる絵の教室を開いている。興味があれば足を運んでみないか」と誘ってくれたのだった。当時は京都大学農学部の門のわきに建つマンションに住んでいたから、次の日曜日に百万遍の交差点からすぐ近い野口建設の本社を訪ねた。歩いても二十分の距離だった。

 こげ茶色の5階建ての社屋は、休日とあってシンとしていたが、5階の広い部屋には大勢の人たちが集まっていて、思い思いに絵筆を握り、あるいは彫刻刀で印材を刻んでいた。私もこうして三楽会の一員にしてもらったのである。

 だが私は決してよい生徒ではなかった。大学時代の恩師、フランス文学の鈴木信太郎先生は篆刻の名手で、作家の谷崎潤一郎や大仏次郎、画家の高畠達四郎のために見事な印を彫っている。そのひそみに倣いたいと思い、篆刻を指導する中尾滋男さんに一から手ほどきをうけたが、たちまち才能と根気のないことがわかり挫折した。いま手元には、この歳の干支だった「卯」の字と、縦長の二つの〇の中に縦棒を引いた「図形」を彫ったものが残っているが、なんとも無様な代物である。その代わりに、中尾さんには、専門とする19世紀フランスの詩人ステファヌ・マラルメの「横顔」や「牧神」の文字(これはマラルメの代表作である詩篇「牧神の午後」からとったもの)を彫っていただいた。大切な宝物である。

 野口さんの教えを受けた水彩画の方はもう少し続いたように思う。真如堂や北の植物園へスケッチに行ったり、野口夫人が丹精されて育てた花を教室で描いたりした。しかしこちらの方も、展示会に23回出品しただけに終わった。

 教室の生徒になった最大の役得は、野口さんが描いた膨大な風景画、人物画、静物画のカラー・コピーを頂戴したことである。これは東京へ戻ってからも、無地の台紙に貼って絵葉書にして、友人、知人に送って喜ばれた。ときどき「サインは誰か」という問い合わせがあり、それには厚かましくも、「京都時代の師匠」と答えている。

 一番長続きしたのは、三楽会の恒例行事である「ご苦労さん会」への参加だった。一度は、岡崎北御所町の「味ま野」で新年会が開かれたが、この頃は農学部入り口のマンションから岡崎北御所町の借家に移っていたから、「味ま野」は同じご町内で、以後、東京やフランスから客がきたときなどは、よく使わせてもらうことになった。

 こうして思い出してみると、三楽会は京都の方々と知り合い、仲間にしていただけた掛け替えのない縁だったことを実感する。


by monsieurk | 2019-07-12 10:47 | 取材体験
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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