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ムッシュKの日々の便り

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マラルメの肖像Ⅵ「ポール・ナダールの写真」

 写真家ナダールが撮影した4点の写真である。マラルメが著名なフェリックス・ナダールに出会ったのは1876年のことと思われる。マラルメは1877年2月3日付のナダール宛ての手紙で、「わたしの写真を撮ってくださるという貴方の好意ある申し出を(昨年の、ある日、二人の友人と貴方のところへいったとき)、大変厚かましくも思い出しました。・・・」(『書簡集』第2巻)と書いているのがその根拠である。
マラルメの肖像Ⅵ「ポール・ナダールの写真」_d0238372_885882.jpg

 マラルメはこのときエドガー・ポーの婚約者であったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人に写真を送る約束していて、ナダールの申し出を思い出し、彼に撮影を依頼しようとしたのだった。マラルメはホイットマン夫人へ、手紙とともに出版されたばかりの豪華詩集『半獣神の午後』を一冊送った。
 ナダールの娘マルト・ナダールが1942年に書いているように、4点の肖像写真すべてをフェリックス・ナダールが撮ったのではなく、一部はこの頃アトリエの仕事を父から任さていた息子のポール・ナダールによって撮影された。マラルメは父よりも息子との交流が深かった。
 写真が撮影された正確な日時は分からないが、1880年代半ばと考えられる。4点のうち、横顔のクローズ・アップと正面の顔写真は、1889年に撮影されたことは確かである。なおポール・ナダールは1890年から、マラルメの別荘があったヴァルヴァンに近い小邑サモアに別荘を所有していて、二人はセーヌ川にボートを浮かべて舟遊びを楽しんだ。
 マラルメは『状況詩(vers de circonstance)』の一つで次のようにうたっている。

 
  Le bachot privé d’avirons
  Dort au pieu qui le cadenasse ――
  Sur l’onde nous ne nous mirons
  Encore pour lever la nasse
 
  Le fleuve sans autres émois
  Que l’aube bleue avec paresse
  Coule de Valvins à Samois
  Frigidement sous la caresse
 
  Ce brusque mouvement pareil
  A secouer de quelque épaule
  La charge obscure du sommeil
  Que tout seul essaierait un saule
 
  Est Paul Nadar debout et vert
  Jetant l’épervier grand ouvert.

 
  わたしの所有するオール付のボートは
  杭につながれて眠っている――
  わたしたちは簗を引き上げために
  川面に姿を映すことはまだしない
 
  蒼い夜明けに愛撫される
  二つとない感動のもと
  冷たい川はゆっくりと
  ヴァルヴァンからサモアへと流れる
  
  そしてこの急な動きは
  眠りの暗闇の重さを荷なう肩を
  そっとゆするようだ
  それは枝垂れ柳だけがするものだ
 
  緑に染まったポール・ナダールは立ち上がり
  投網をいっぱいに広げて投げる
  (Mallarme:Œuvres ComplètesⅠ、P.145)
# by monsieurk | 2014-04-24 22:30 | マラルメ

マラルメの肖像Ⅴ「ゴーギャンの版画」

 生前、マラルメの肖像を描いた画家はマネをはじめ幾人かおり、ポール・ゴーギャンもその一人である。彼は大鴉を背景に入れたマラルメ像をエッチングに刻んで進呈したが、これにはマラルメへの感謝がこめられていた。マラルメの肖像Ⅴ「ゴーギャンの版画」_d0238372_16552928.jpg 
 ゴーギャンは1890年頃から、ヨーロッパを離れて「原始的かつ野蛮な状態で、自分自身のために芸術を育て上げたい」という希望のために再度タヒチへ行く決意を固め、その旅費と滞在費を捻出するために絵の競売を思い立った。これを知ったシャルル・モリスは敬愛してやまないマラルメに助力を頼み、意気に感じたマラルメは、有力な美術評論家のオクターヴ・ミルボーに手紙を書いた。「画家であり、彫刻家、陶芸家であるゴーギャン、誰だかお分かりですね、あの彼と親しく、大いなる才能と心情を備え持つ私の若い友人の一人が、彼に何か力添えのできる唯一の人である貴兄に、あるお願いをしてくれと私に頼んできたのです。この稀有な芸術家ゴーギャンにとって、パリは拷問にも等しいところだと、私は思うのですが、彼は孤独のなかでほとんど交際を絶って精神を集中する必要を感じて、間もなくタヒチへ出発しようとしています。・・・この文明からの脱走兵という稀なケースに、注意を惹きつけてくれる記事が必要なのです。」
 ミルボーはゴーギャンとは面識がなかったが、その作品は知っており、なによりもマラルメとモリスの熱意にうたれて、長文の紹介文を「エコー・ド・パリ」紙の1891年2月16日号に掲載した。そしてこの記事をきっかけに、ゴーギャンを扱った論文が次々とあらわれることになった。
 2月23日、ゴーギャン作品30点の売り立てが、パリの競売所「オテル・ドゥルオ」で行われ、売り上げは総額で9,395フランに達し、ゴーギャンの手元には7,000フランをこす利益が残った。ゴーギャンがタヒチへ出立する直前の3月23日に、カフェ・ヴォルテールで送別晩餐会が開かれ、その模様は雑誌「メルキュール・ド・フランス」の5月号で報告されている。およそ40人が出席した宴会の冒頭、マラルメが杯をとって立ち上がると、次のような挨拶をした。
 「諸君、先ずは、ポール・ゴーギャンの戻る日のために乾杯しましょう。その才能の輝きのうちに、自己を鍛え直すべく遙か遠く、そして自分自身の内部へと自らを追放するこの崇高な精神にたいして、賞讃の念を禁じえません。」
 タヒチに渡ったゴーギャンからは、やがてマラルメの『半獣神の午後』に触発された木彫りの彫刻が送られてきたし、帰国した際には、火曜会へ顔をだした。狷介との評判のあったゴーギャンだが、マラルメにたいしては終生尊敬の念をもって接した。、マラルメの肖像Ⅴ「ゴーギャンの版画」_d0238372_1712341.jpg
 ゴーギャンの銅版画によるマラルメの肖像は、1891年1月に制作されたもので、マラルメは半獣神のようにとがった耳をし、頭の後ろには彼が翻訳したポーの詩集『大鴉』を象徴する鴉が描き込まれている。ゴーギャンはマラルメに2点の作品を贈り、それぞれに、「詩人マラルメに / 大いなる賞賛のしるしとして / ポール・ゴーギャン / 1891年1月」と、「詩人マラルメに / 愛情をこめた賞賛のしるしとして / ポール・ゴーギャン / 1891年1月」と署名されている。
 ただゴーギャンの作品はマネやホイスラー(右の石版画)の傑作と違って、マラルメを慕う人たちには不評だった。アンリ・ド・レニエは、マラルメの肖像Ⅴ「ゴーギャンの版画」_d0238372_1524446.jpg「ルノアールは油彩による素描(左の作品)で、ゴーギャンは銅版画で彼の特徴を定着しようとしたが、一人の鉄筆も他の者の絵筆もそれには成功しなかった」と述べ、フランシス・ド・ミオマンドルは、「残念ながら、その美しい顔の肖像画はほとんどない。ゴーギャンのものは〔ルノアールのものより〕少しはましだが、それも皮相なものだ」と判断している。
 なお手元にある版には縦と斜めに線が入っている。これは銅板からこれ以上は刷らないことを示す証拠に、オリジナルの銅版の表面に筋を入れたものである。
# by monsieurk | 2014-04-21 22:30 | マラルメ

マラルメの肖像Ⅳ「農民姿」

 農夫の仮装をした2枚の写真は、1888年夏、女友だちのメリー・ローランの誘いでオーヴェルニュ地方のロワイヤでヴァカンスを過ごしたときに、旅先で撮影されたものである。
マラルメの肖像Ⅳ「農民姿」_d0238372_1739195.jpg
 この年の夏、メリー・ローランはお手伝いのエリザとともに、庇護者のトーマス・W・エヴァンス博士に伴われてロヤイヤに避暑に出かけ、マラルメも汽車であとを追ったのだった。避暑先での様子はパリに残ったマラルメ夫人と娘のジュヌヴィエーヴに宛てた手紙で知ることができる。
 「・・・腕利きの医師〔エヴァンス博士〕とローラン夫人は、駅でランドー型馬車を用意して待っていてくれた。お祭りの最中のクレルモンを通ったが、わたしにはこの街は堅苦しく陰鬱に見えた。それから特別誂えのテーブルで、とても吟味された夕食。ローラン夫人はわたしに数分間でロワイヤという土地を教えてくれた。彼女はここで生まれたらしいのだ。〔これはマラルメの思い違いで、彼女は北フランスの都市ナンシーの生まれである〕部屋はすばらしい。山々が間近に見え、まるで指で触れることができそうだ。要するに、土地のすべてを見渡すことができるような、きわめて稀な部屋のひとつだ。私はその部屋へのちょっとした引越しを気持よくすませ、そして窓の前で煙草を吸い(心地よいパイプ! 暗闇のおかげだ)、こうして君たちにおやすみを言い、これから本を一、二頁本読み、 そして眠ろうと努めるつもりだ。
                         
                                             パパ
 
 ジュヌヴィエーヴ、私と同じくらい律儀な、可愛い秘書であっておくれ。」(1888年8月15日、水曜日夜、10時)
 手紙の宛先は「マラルメ家のご婦人方へ」となっているが、マラルメはこのときから家族への手紙は、ジュヌヴィエーヴに宛てて書くようになった。彼女が24歳になったこともあるが、メリー・ローランとのことがあって、妻マリーとの関係がぎくしゃくしたものになっていたのである。
 翌8月16日の手紙では、「ローラン夫人は気遣いの塊のような人だから、上の階、二階の、ちょうど彼女の頭の上にわたしの部屋をとることで、わたしが彼女の役に立つようにしてくれた。わたしなら静かで、彼女がよく眠れるだろうというわけだ」という一節がある。妻も当然読むことが分かっていながら、マラルメはそれを承知で書いたのである。
 18日の手紙、「ホテルは浴場の前にあって完璧だ。わたしは戻ってきて、若い女性向きのようなわたしの部屋で毛布にくるまった。あまりにも心地よく、湯浴みのよい作用もあって、読書することはできなかった。紗のカーテン越しに、ぶどう畑の緑が広がる丘のなだらかさを見ていた。もう一時間半も経つが――それほどわたしはゆっくり休んでいる――、ローラン夫人はまだ彼女のパラソルで天井をつついてこない。なんとやさしい心配りだろう。毎朝、彼女は自分で切って、バターを塗った全粒パンのタルティーヌをわたしに届けてくれる。わたしがそれを持って近所の牛舎に行き、一杯のミルクに浸して食るというわけだ。・・・昨日は一日中雨が降り、例の北風が吹いていた。・・・悪天候の間を使って、私たちは告白帳とでも言えるものを書いた。そこで人は容赦のない質問にさらされる。」
 この告白帳とは、メリー・ローランが親しい人に書き込みをしてもらったノートで、マラルメはあらかじめ決まった24の質問に、回答を書いたのである。これは『Document Stéphane MallarméⅠ』(Nizet, 1968)に収録されている。
 そしてロワイヤを離れる前に、彼らはクレルモン=フェランのレオポ-ルの写真館を訪ねて記念写真を撮った。
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 22日付けのジュヌヴィエーヴ宛ての手紙に、「オーヴェルニュに別れを告げる前に(そのためにまず、ヴィエール奏者の格好で写真機の前でポーズしなければならないようだ)」とある。ヴィエールといのはハンドルを回して奏でる中世の楽器だが、実際にオヴェルニュの農夫の仮装をして写真におさまったのである。なおメリー・ローランもこのとき同じように農婦姿で写真を撮った。
# by monsieurk | 2014-04-18 22:30 | マラルメ

マラルメの肖像Ⅲ「リュックの版画」

 スペインの画家マニュエル・リュック(1854-1918)の版画である。マラルメの肖像Ⅲ「リュックの版画」_d0238372_10351440.jpg
 出版人のレオン・ヴァニエは、当時の作家、画家、政治家など著名人を取り上げる『今日の人物』という見開き4頁のシリーズを出しており、その296号(1887年3月下旬刊行)でマラルメを取り上げた。本文をポール・ヴェルレーヌが執筆し、表紙を飾る版画をスペイン生まれの画家リュックにつくらせたのである。
 ヴェルレーヌはマラルメを紹介する本文を書くにあたっては、マラルメから送られてきた、通常「自伝」と呼び慣わされ1885年11月16日付の手紙を活用し、その上で「願い」以下マラルメの7篇の詩を再掲した。このときまで世間的にはあまり知られていなかったマラルメは、紹介の労をとってくれたヴェルレーヌに深く感謝した。
 ただ問題はこのシリーズ恒例である表紙絵だった。マラルメは計画を知ると、面識があり信頼する画家ダヴィッド・エストペを推薦した。だがヴァニエはエストペがこのシリーズに登場したことはなく、彼の住所も知らないことを理由にマラルメの申し出を断り、風刺画家のリュックを起用したのである。
 1870年にマドリッドで生まれたマニュエル・リュックは、最初にパリへ来たときは貧乏暮しを余儀なくされたが、1881年に友人の作家オイセビオ・ブラスコとともに再度パリに来てからは、風刺画の才でジャーナリズムの世界で認められるようになっていた。
マラルメの肖像Ⅲ「リュックの版画」_d0238372_10354521.jpg リュックはマラルメに会ったことはなく、おそらくはヴァン・ボッシュが撮った写真をもとにこの版画を制作したと思われる。出版直前にこの表紙絵を見たマラルメは大いに不満で、2月14日付の手紙で、これは受け入れがたく自腹を切ってでも別の画家を探すつもりだと書き送ったが、ヴァニエはこれを無視して校正刷りも送らずに印刷出版したのだった。
 ヴァニエとの確執はその後も続いた。もう一点はポール・ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち』(ヴァニエ出版、1888年)の口絵に用いられたものである。
 ヴェルレーヌは1883年に、『呪われた詩人たち』を出版するに当たって、マラルメに写真を送ってほしいと頼んだ。マラルメはこれに対して、マネが描いた肖像画を写真に撮って使ってはどうかと応じた。
 「・・・わたしは自分の写真を持っていません。いま取りかかっている文学上の仕事を無事に終えるまでは、レンズの前に立つことは考えてはおりませんので。ただ家にはマネがもうだいぶ前に私を描いた面白い小さな絵があります。もしそれでよろしければ、写真に撮らせてお送りいたしましょう。今はパリにいませんので、すぐにという訳には参りませんが。」
 そして実際に『呪われた詩人たち』の初版に用いられたのは、マネの絵の写真をブランシェ某が版画にした作品だった。ところが1888年に再版された際には、前年にリュクが「今日の人物」のために半獣神姿のものに、服を着せ、ネクタイをさせたものをメダルにして、竪琴や羽ペンともに描いたものであった。
 マラルメとヴァニエの関係は、ヴァニエの不誠実な対応のために訴訟にまで発展した。1885年10月に、訳詩集『ポー詩集』の出版計画をむすんだが、出版はなかなか実現せず、マラルメは校正刷の返還を要求してパリ第5区の治安裁判所に提訴した。このときは和解が成立するが、マラルメの不信感は解消せず、ヴェラーレンの勧めでベルギーの出版人エドモン・ドマンから『ポー詩集』と散文集『パージュ』を出版する決心をして原稿を送った。これを察知したヴァニエがドマンに宛てて契約違反を盾に訴訟を起こすと通達するといった事態に発展するのである。
# by monsieurk | 2014-04-15 22:23 | マラルメ

マラルメの肖像Ⅱ「ナダールの写真」

 画家エドゥアール・マネが描いた《マラルメの肖像》(1876年、2012.04.07のブログ「マラルメの肖像」を参照)と並んで、よく知られるポール・ナダールが撮影した肖像写真で、メリー・ローランが贈った肩掛けをかけしたマラルメである。所蔵している写真の右下には、インクで「Paul Nadar」とサインがある。

 
マラルメの肖像Ⅱ「ナダールの写真」_d0238372_11412614.jpg

 ナダールの娘マルト・ナダールによれば、1895年に撮影されたとされる。さらに彼女は、「仕事机に向かう詩人と同じよな肩掛けをもっていたP・ナダールは、親しい人たちがよく目にした友人である詩人の姿を定着しようと思った」と書いている。
 机に向かう詩人は当時よく見られた典型的なポーズで、ペンを手に仕事机に向かうマラルメの前には、伏せられた本、白い紙、インク壺がある。ただ肩に掛けた厚手のショールが、写真を個性的なものにしている。マラルメの寒がりはよく知られていて、火曜会の集いで、彼はいつも陶製の暖炉を背にして話をしたものだった。

 
マラルメの肖像Ⅱ「ナダールの写真」_d0238372_11415064.jpg

 展示されたもう一点は、この写真をもとに鉛筆で再現したもので、背景を壁に変え、そこにはクロード・モネの風景画《ジュフォスのセーヌ川》がかけられている。これは1890年に描かれたあと詩人に贈られたもので、ローマ通りのアパルトマンのサロン兼食堂に飾られていたものである。これも火曜会を訪れた客にはお馴染みのものであった。
# by monsieurk | 2014-04-12 22:30 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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