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ムッシュKの日々の便り

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マラルメの肖像Ⅰ

 2013年12月1日のブログ「マラルメの肖像画展」で紹介したように、セーヌ河畔にある「県立ステファヌ・マラルメ博物館」では、昨年12月14日までマラルメの肖像画を集めた展覧会が開かれていた。その折に企画されたカタログ、『マラルメの肖像画、マネからピカソまで(Portraits de Mallarmé de Manet à Picasso)』がようやく刊行された。マラルメの肖像Ⅰ_d0238372_2264516.jpg これからしばらくは、カタログに掲載された主だった詩人の肖像画を紹介してみたい。まずは企画の中心となったエレーヌ・オブランとエルヴェ・ジュボーの記事、「マラルメの肖像画」を訳してみる。

 「有名になった多くの人たちと同じように、マラルメは幾度も肖像画に描かれた。もちろん写真も数多く存在する。これは19世紀後半、ブルジョアの社会では普通に行われたことで、彼が所属する中産階級でも同様だった。1860年代の写真もあり、世間的にはまだ無名だったが、明らかに自分を好ましく見せようとする若者を写し出している。もっと後の写真は、詩人の肉体的変貌をたどるのに役立つだけでなく、家族や友人のなかで、寛いだマラルメについて興味深い証言をもたらしてくれる。それはさらに、作家、画家、学者、当時よく目にした政治家と並んで、ドルナックの⦅自宅でのわれらが同時代人⦆というシリーズを飾るほど、彼が有名になったことを示している。彼はコンスタンタンや他の無名の写真家だけでなく、ポール・ナダールの才能をわずらわすほどの存在となっていたのである。

 詩人の油彩による肖像画、彫刻、版画とともに、画家たちとの関係の拡がりと質を示す全リストがここにはある。幼少のマラルメを描いたカミーユ・ド・ラグランジュの愛らしく物語風のパステル画を除けば、自嘲気味のニュアンスを帯びた言葉を用いるなら、これらの《似顔絵画家たち》のリストは印象的である。同時代では、マネ、ルノアール、ドガ、ゴーギャン、ホイスラー、トウールーズ=ロートレック、ムンク、ヴァロットン、ヴュイヤールのモデルになったことを自慢できものが、誰か他にいるだろうか。たしかにすべてが傑作ではなく、目立たないクロッキー(その一つは面白い自画像(1)で、詩人にはその才能があった!)や、平凡な版画や写真もあり、ある油彩などは作者の評判に何ものもつけ加えるものではないというのが衆目の意見である。・・・それでもこうした肖像画が存在するのは、マラルメが彼ら画家たちと、緊密であつい友情で結ばれていたからにほかならない。そしてリストに、あまり知られていないが、品位に欠けてはいないロッシュグロス(2)が描いた師の横顔や、ホウキンスの顔のない驚くべき肖像画、そして予期せざる、ヴェルレーヌやヴァレリーといった、その才能は別のところにある人たち、加えて後世の説得力に乏しいアントニウス・ヨハネス・デルキンデレン(3)からフランソワ・ナルディ(4)といった名前を加える必要がある。ただしこれは、《ヴァルヴァンの師》の同世代の作品と比較して、その魅力を強調するものでは決してない。さまざまなカリカチュア(リュキュ、カザルス、ラ・ジュネス)は、〔描かれた〕「犠牲者」をいつも面白がらせたわけではないが、こうした肖像画は、19世紀末に流行した無数の文学的肖像で語られた議論の余地のないオーラを補う表象なのである。

 1898年のマラルメの死も、画家たちのインスピレーションは涸らすことはなかった。そのとき記念として描かれたもの、あるいは注文されたもの(師の死の直後のレイモン・ド・ブルテルのものや、25周年に描かれたラムールデデュのもの)、あるいは多少なりともそれに触発された挿画(カルロ・カルラからカレル・ヴォトリュカまで)など、死後に描かれた肖像画は、偉大な詩人が20世紀、21世紀の画家たちにとって占めている地位を示しており、マラルメは西欧文明の偉大な名前が並ぶ神殿(パンテオン)に安置されているのである。モンドールの感動的なリトグラフは、詩人にもっとも忠実だった人の崇拝の果実である。モンドールの最大の貢献は、マラルメに関する数多くの著作を刊行して、彼を世に知らしめたことだった。ジャン・マサジエによる肖像や、フェルディナン・バックが描いた思い出は、絵画史のページに書き込まれることはないかも知れないが、20世紀全絵画を一人で象徴するピカソの興味をひいたのだった。展覧会ではエリック・ロメールの映画による肖像や、ピエール・ブーレーズの音楽的肖像も公開されている。いったい同時代の誰が、これほどの賛辞に浴しただろうか。マラルメの肖像を描く人たちは世代が変わっても出現する。現代の作家のなかでも、国際的な才能を持つスペインの画家ミケル・バルセロも〔マラルメの肖像を描いて〕貢献している。こうした顕彰が今後も引き継がれていくることは間違いない。」(原題:Portraits de Mallarmé par Hélène Oblin et Hervé Joubeaux)(続)

マラルメの肖像Ⅰ_d0238372_2264516.jpg
# by monsieurk | 2014-04-09 22:30 | マラルメ

ロジャー・フライのマラルメ論Ⅶ

 ごくつまらないテーマのなかにもあり得る詩的関係を、すべて抽出しようというこの欲望が、マラルメの構文法と同時に、そこから結果する難解さの理由を明らかにしてくれる。言葉のさまざまなイメージの相互照応と、相互貫入を表出することが彼の本質である。それ実現するには、通常の言説の場合よりも、言葉を接近させ、かつ対立状態に置くことが必要である。あるいは一つの言葉が長い時間、次の言葉によってその振動が受け継がれるまで、震えさせ続けることが必要なのだ。もちろん、これはほとんどの詩において、語順を転倒したり歪曲したりして実行されているのを見ることができる。しかしマラルメにあっては、それが極限にまで押し進められており、その結果読者はしばしば骨の折れる知的なアクロバットを強いられることになる。事実マラルメの場合、テーマは詩的分析の過程で、一度さまざまな断片に分解される。その上で再構築されるのだが、それは〔日常の〕経験とは関係なく、純粋に詩的な必要性にしたがって行われる。この点で彼はキュビスムの画家を何年も先取りしていたのである。
 この方法において、マラルメはフランス語文法の構造的な可能性を極限まで駆使するが、それは言葉とイメージの間の、一時的に停止された関係を再度確立するのに、フランス語特有の〔単語の〕性別を当てにできるからである。これは当然のことながら、フランス語に比べてより分析的な性質を持つ英語に翻訳する場合、大変な困難、ときには克服不可能な困難をもたらすことになる。私は幾つかの詩の試訳に、注釈をつけ加えることが望ましいと考えた。そしてそれがマラルメの詩法の本質を、一層明らかにすることを望むものである。しかし私は注釈を、あくまでも詩の第一義に限ることにした。彼の詩に含まれる第二の意味、あるいは形而上的な意味を、それぞれの思想に則って解明する努力は、読者に残すことにした。マラルメの詩は素晴らしい高さで、心をゆさぶる力を持っていると思う。心の倍音は思想の羽根を通して鳴り、詩が表面的にかかわっている事柄から遙かに離れた感情を生み出すのである。だが批評する側にとっては、なにか一つの思想の線上にマラルメを固定っしてしまう危険がある。チボーデ氏は、マラルメの詩に関する大著において、マラルメをヘーゲル弁証法の深化として説明している。しかし私は瞑想的な心の飛翔の方向は、読者自身の考えにまかせる方が賢明だと考えたのである。だから注釈は、詩句の字句の一義的な理解にだけ役立つと考えるべきなのである。私は翻訳にあっては、なによりも先ず過剰になることを避けつつ、音声におけるリズムの順序をできるだけ尊重し、字句の正確な翻訳を目指した。字句の翻訳の正確さは、〔原詩で〕確立された律動が要求するものに途をひらくものでなければならない。この場合、読者はこの二つの要素を調和させるのに失敗しないように注意する必要がある。マラルメは大変難解だから、完璧な翻訳は絶えざる見直しと、多くの人の参加があってはじめて可能である。聖書と同じように、彼の翻訳は協会の手でもって行われるべきなのだ。この出版は協会の会員を増やすことに役立つ思う。――とはいえ、すでに私は多くの友人から助言を得た。それらすべての人々に感謝したい。とくに次の方々に対して謝意を表したい。P・ストレッチー夫人(彼女は他の誰よりもマラルメの謎の多くを解読したと私は考える)。アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリーの両氏は、二、三の致命的な誤訳から私を救ってくれたし、マラルメの「室内装飾」について直接的な情報をあたえてくれた。そしてエリック・マクラガン氏。氏は大間違いを見つけてくれた。ただこうした見直しにもかかわらず、幾つかの間違いがその目を逃れているに違いない。したがってこの翻訳は、最終的な翻訳への初歩的な一歩とみなされるべきである。
 
Title: An Early Introduction in Stéphane Mallarmé Poems(Chatto & Windus,1936) pp.295-308.
# by monsieurk | 2014-04-06 22:30 | マラルメ

ロジャー・フライのマラルメ論Ⅵ

 マラルメの関心は、言葉のイメージと思想との純粋に詩的な関係にある。この関係についての彼の認識は、まったく独特のものである。彼は誰をも味方にしたことはなく、なにかの主義に与したこともない。多くの詩が、扱う対象を故意に高くまた大きくすることで、感情の詩的ピッチを強めることに努めている。こうした詩人たちは、調子を高めるための形容詞や直喩を用いるのだ。それが正しく用いられているかどうかという以上に、修辞上の効果をあげるのに優れているというのがその理由である。

  ‘Nor dim, nor red, like God's own head、
  The glorious sun uprist’
  
   神自身の頭のように、鈍くも赤くもなく、
  神々しい太陽が昇る
  
 こうした常套が誇張されると大言壮語となり、それはシェイクスピアの時代から絶えず非難の的となってきたものであった。だがロマン主義以降、このことから完全に自由だった詩はごく稀であった。こうした誤りの急激な反動として、こんどは作家が対象の価値を下落させてしまうような関係を見つけるという、正反対の過ちを冒す事態がしばしば起った。たとえばジョイス氏が「鼻汁の青い海」というとき、たしかに形容詞としては正確だが、対象を輝かすというよりは、不快感の方が強くなってしまうのである。
 [マラルメは、「純粋詩」を最初に書いたのは自分だと語ったが、たしかに彼は私たちが知っている最も純粋な詩人である。つまり、おそらく彼はもっとも詩的でない詩人だと言い換えることもできるだろう。あるいは彼はもっとも古典的な詩人だということである。誰でもいい、「詩的な」詩人の一人、たとえばラッセル・アベルクロンビー氏を取り上げてみよう。彼の『聖トマス』のなかで、船は「痩せた猟犬」として描かれている。
 直喩は、ここでは(言葉の選択によって強調された)感情の負荷を負わされている。そしてその感情は描写された対象に押しつけられており、対象についてのある感情の結果ではなく、単に一つの感情的な雰囲気をつくり出しているにすぎない。そして私たちはそれを通して対象を見ることになる。詩的な詩人は、作詩法によってすでに認知された言葉や材料を使い、彼固有のテーマを飾り、潤色する。マラルメの方法は、まさにその反対である。彼の方法は、テーマに内在するなにものかを開花させることにある。テーマを凝視することによって、予期せざる新たな関係を発見する。テーマ自体、あるいはそれが含む対象が、詩的な性質を持っているべきだといったことは問題ではない。すでに感情を帯びたものとの関係を見つけるというのも彼の関心外である。](1)
 マラルメはただ一人、このような先入観から自由である。その態度は超然としており、客観的で、純粋詩人にとっては当然のことだが、テーマが感情に訴えるものかどうかは問題ではなく、それが詩的関係について考える情熱を、己のうちに呼び覚ますかどうかだけが問題なのである。したがって、主題が一般に詩的だといわれる組合わせ、つまり高貴だったり印象的であったり、あるいは逆にまったく平凡で、ありふれたものだといったことは問題ではない。これほどまでに、その作品の多くを、絵画でいえば静物画の範疇に分類されるテーマに捧げた詩人は稀れである。日常的な事物を指し示す言葉――窓、窓ガラス、卓子、ガラス製のランプ、天井――にあれほど豊かな詩的震えをあたえ得た人は皆無であった。しかも彼は人を驚かすような諧調を強制したり、言葉を技巧過剰にねじ曲げて使ったりするのではなく、観察と言葉同士が調和する能力を正確に計量することで、それを達成したのである。彼が自転車に乗った男を、「足と足の間に終わりのないレールのイメージを繰り出している人物」として描写するとき、彼はおそらく面白がりながら、意識的にこの方法を極限にまで用いたのである。そしてこのカリカチュアのなかに、彼の方法の基本的な性質を見出すことができる。

 原注(1) カッコ内は草稿からの挿入。(続)
# by monsieurk | 2014-04-03 22:30 | マラルメ

ロジャー・フライのマラルメ論Ⅴ

 ウィットに富む詩句では、音韻によるどんな印象的な旋律も、わざと場違いな位置に置かれるのはよく知られている。それによって言葉――イメージの総体が生み出す効果と相容れない心理状態を喚起しようとするのである。しかし詩的目的のために詩句が用いられる場合は、音韻の美しさは、単にそれが不適切でないばかりでなく、表現にふさわしい感情豊かな心理状態をつくり出すことで、言葉の効果を大いに高めることになる。(1)
 ここに、詩にとって可能な美学のきわめて重要な問題が横たわっている。この旋律の効果の重要性はきわめて大きく、それゆえ詩というものを規定する最も本質的かつ基本的なものと、しばしばなされるものである。
 これについては、三つの説明が可能であるように思われる。

 (1) 以上に私が記述しようとこころみた言葉――イメージの複合体は、詩の基本的な性質であり、旋律はそれを補助するもの、つまり詩的な理解を心理的に助けるものである。もしそうであるなら、詩の基本的な内容を、他の言語に翻訳することは翻訳することは可能だといったゲーテは正しかったのだ。
 (2) 旋律は詩の本質的な効果であり、言葉のイメージは、単に旋律によって引き起こされた漠然とした感情の流れのための道筋を形づくるにすぎない。
 (3) これら二つの事柄は、化学的な化合作用を引き起こす。それらは分離不可能なものであって、一緒になって一つの基本的な詩の本質をつくる。

 このうちの第二の仮説が間違っていることは、私には明白なことに思える。それを験すために、リア王のナンセンスな詩句を取り上げる必要はない。そこには言葉の旋律は少しもないからである。これらの詩句では、言葉のイメージの連続が、普通の詩とまったく同様に、詩句の上に作用する漠然とした感じがあるばかりで、むしろまったく知らない言葉で朗読された詩を耳にしたときに、私たちのうちに引き起こされる美的な感動がいったい何なのかを考えてみる必要がある。私たちは純粋で単純な旋律を理解する。だがその効果はごく小さなものに思われる。それは音楽が持つ効果に比べれば、比較にならないほど小さい。かろうじてこちらに伝わってくるにすぎず、私にはそれが歌における、言葉の主要な効果であるように思えるのだ。
 第三の仮定の諾否はもう少し難しい。しかし私には、二つの効果を完全に同一視することができるかどうかはなはだ疑わしい。
 はたして完全な化合物が生じるかどうかを疑う理由の一つは、旋律だけのものはそれだけ単調で、言葉の連続するイメージより変化の幅に乏しいからである。もう一つの理由は、私にとって純粋かつ完璧な詩的効果と見えるものが、ときに散文のなかに見出されるという事実である。それも聖書のある部分のように、旋律の効果が詩に似ているような散文ではなく、旋律的効果を強く印象づけるところのまったくない散文のなかに見出されるという事実である。とはいえ、詩的効果には不思議に旋律的なリズムが付随しており、しかもそれが言葉のイメージの連なりの効果を高める強い力を持つことから、私は言葉のイメージの連なりとその光暈は、詩というものの一番の基本だという考えに傾くのである。
 そこで詩の効果は、言葉が持つ完全な意味とそれが内包する感情のすべてが、はっきりしていることが大切だということになる。一方、文章の意味が事実に対して真実かどうか、人生にとって価値があるかどうか、その重要性、その関心事といって価値があるかどうか、その重要性、その関心事といったものは考慮のなかに入ってこない。例をあげれば、ダンテの詩を考える場合に、彼が提示する世界が、物事に関する私たちの経験と矛盾するといったことはまったく問題にならない。かくかくの意味が、言い換えによって、別の言葉によって、別の言葉によって、よりよく示唆されることがあったとしても、それは詩の効果とは無関係のことなのである。
 [もし私が正しければ、音の美しさは〔詩の〕本質的な性質というより、好ましい同伴者なのである。それは美的理解にたいする生理的な助力とされるべきであろう。もしそうなら、ゲーテが詩の本質は翻訳可能であると語ったのは正しかった。言葉や文章の意味は、このように詩的効果にとって本質的なもののように見えるのだが、意味の本質、事の真偽、人生への価値、その重要性、その関心事は考慮の対象とはならない。言い換えによってより良く、あるいはもっと上手く伝えられるかも知れないこうした意味は、詩的効果に関与することはない。この点では、どんな意味内容も、たとえそれがどんな内容であれ、一つの詩が結晶するための核となることが理論的には可能なのである。しかし純粋詩の視点からすれば、こうした性質は否定されるべきものである。
 言葉の光暈の累積的な効果こそが詩的芸術の本質だという私の考えが正しければ、マラルメは、それを意図的にかつ慎重に研究した詩人の一人と見なされるべきである。もちろんある芸術の本質について、意識的かつ慎重に焦点を合わせることは、芸術家にとって必ずしも幸せなことではないのが分かってこよう。最も偉大な芸術は、最も純粋なものではなく、豊かな形式は、内容の豊かさからのみ立ち現れるであろう。内容が最終目的だというのはさして重要なことではない。だが、これらは詩的理解の本質よりも、むしろ芸術作品を生み出すときの心理にかかわる問題なのである。間違いなく詩人なら誰でも、言葉を選んで、偉大な技術によって言葉を、それを取り巻くもののなかに配置し、それによって期待以上の、驚くような喚起力をあたえようとするのである。](2)

原注(1) 草稿には、「心の戦慄は正確に効果と一致する」とある。
   (2) カッコ内は草稿からの挿入。(続) 
# by monsieurk | 2014-03-30 22:30 | マラルメ

ロジャー・フライのマラルメ論Ⅳ

 一つの言葉が突然の変化をもたらすことはあろう。しかしその変化は、それに先だつ継続的な変化とリズミカルに結びついていなければならない。
 言葉の光暈〔オーラ〕の相互作用が、漸進的効果をあげた最高の例として、グレイの『エレジー』の碑銘の冒頭を引用してみよう。

 ‘Here rests head upon the lap of Earth
A Youth,’

 このところ地の畝を枕に憩えるは
  若者ぞ

  
 〔読者の〕心には、先行する数行によって、高名な人物の死と死後の生涯についての、ある特別な感情がすでに醸成されている。‘Here rests’「ここに憩う」は、碑銘としては普通の書き出しだが、ある種の物悲しさを生み出してもいる。
 しかし常套的な「誰それの身体」のかわりに「彼の頭」という言葉で、「とどまる」が他動詞として用いられているのを知った途端に、私たちはハッとするのである。この最初の効果は、小さなサスペンスの先触れであって、倒置法が、本当の主題がなにかを正確に知るために、私たちに待機するように強制する。もう一つの効果は、主題が亡くなった人であると察したときから、筋の運びに予期せざる活気と力をあたえることである。「畝の上」という言葉が、すでに心のなかで目に見えるようなった仕種の効果を規定し、効果を一層強める。全体の文章は、「地上」という言葉に含まれる擬人化と、共感を呼ぶ暗示によって強化され、完全なものとなる。最後に、「若者」が、普遍性、曖昧模糊とした感じ、悲哀といったものを加えることになる。そしてこれこそが詩句の鍵なのである。
 ここに分析したような、言葉のイメージが持つすべての意味を、それぞれの相対的な位置関係によって表出するという方法は、機知〔ウィット〕にも当てはまる。この点で機知と詩は大変近いものなのである。
 マラルメのエロディヤードが次のように語るとき、

 ‘O femme, un baiser me tûrait
  Si la beauté n'était la mort,’

  
  おお女よ、もし美が死でないのなら
  一つ接吻が私を殺すだろう

  
 私たちはこうした詩句が、別の意図のもとでは機知に富んだものとなるのを認める。(例としては、統治セシコトナカリセバ、統治ノ才アリト認メルコトナカラン)(1)
 パロディーがもっと簡単に効果を得るのは、型の類似に働きかけることである。同じ型を保ちつつ、しかも反対の意味を持たせることからパロディーは生まれる。
 詩の形式に整えられた言葉についていえば、少なくともその半分は、詩的目的よりもウィットを目標にしていることは、コミック・ジャーナルを読んでみればすぐに分かることだ。だから一般的には真実と考えられている、詩句のあるところには詩があるというのは、じつは半分の真理でしかない。詩と詩句の同一視は、低俗な詩を含めても、誤解でしかない。
 詩とウィットは、同一の理由から詩句という形式を用いる。相互関係を強調することによって、言葉のイメージの効果を強化する力を増すからである。リズムもまた、期待を呼び覚まし、驚いたための沈黙を生む力を持っている。そしてウィットの場合にあっては、未解決のショックをもたらす力を持っている。
 先に引用したマラルメの詩句では、「殺すだろう」という句切れが、この言葉の持つ暴力的な力を強調しているだけではなく、条件法に含まれる下降の効果と高めている。そこにはウィットの意図も含まれていて、句切れはまさにその目的にそった効果をおさめている。
 言語の詩的効果とウィットの効果の違いについては、詩的効果の場合は言葉のイメージの総体とその複合は、感応を生み出し、それを心のなかで持続させようとするのに対して、ウィットの方は多少とも感応を突然に中断する点にあると、私は言いたい。
 たとえば、中国語の「急収」〔ストップ・ショート〕は、警句とは正反対のものと定義される。そこでは言葉は急停止するが、意味はその先も続くのである。
 
 原注(1) ロジャー・フライはもう一つの例を、草稿の裏に残している。「大口を開いて、我らをおもう一度噛んでみよ・・・・」(続)
# by monsieurk | 2014-03-27 22:30 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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